3.正義 −EXPLOSION−
(1)
執拗に追ってくる焦燥の影に激しく息を切らしながら、男は昼でも薄暗く人気の感じられない山道を走り、行く手を塞ごうとする草木を薙いで逃げていた。負傷した右肩から大量の血が溢れ出し、腕とレザージャケットの袖とを黒く染めている。その形相は必死。だが、それは苦痛のためではない。何度も後ろを振り向きながら追ってくる影の凶暴な気配を皮膚で確認し、その度に、恐怖の色は底なしに増していく。焦りが判断と注意を殺ぎ落とし、足元に突きだした木の根につまづき転びそうになる。バランスを崩して前のめりに倒れ、目前、木の幹に寄りかかり何とか姿勢を保ちはしたが、しかし振り向けば、影との距離は既に絶望的に縮まり、男にはその影の姿が目に入った―――傾斜の上から傲然と薄闇を灼き断つ鋭利な視線で自分を見下ろす、紅く黒い鎧の膚を纏った炎熱の戦士―――ヘルファイアの・・・俺の姿が。
「ひ、ひぃッ!」
恐怖に顔面を引き吊らせ、男は情けなく悲鳴を上げた。するとその肉体は、みるみるうちに爬虫類の鱗らしき緑色の皮膚で全身を覆った異形へと変態し、渦の巻く巨大な両眼をぐるりと奇妙に回しながら、恐らくは光線の屈折によるものだろう、周囲の色覚を七色に歪ませ景色に溶け込もうとする。姿を眩まし逃げるつもりか。だが、それを黙って見過ごす俺では、ない。
「無駄だ・・・!」
俺が男に向け半身で薙ぐようにザッと手をかざせば、一瞬で背から苛烈な剛炎が噴き上がり、それは、鎖から解き放たれた餓狼のように猛然と殺意の牙を剥き出して襲いかかった。二千度を超す地獄の灼熱が周囲の草木もろとも怪人を灼き焦がす。急激に大量の酸素が消費され呼吸もままならず、悲鳴すら上げることは叶わない。怪人が、頭部を横に引き裂いたような大口を全開にして、轟音を伴い燃える炎渦の中で狂ったように身悶える。
かざした手を戻すと剛炎の野獣は翻って怪人から離れ、巣に帰るように俺の背に収まり、再び姿を消した。止めは刺さない。怪人には、まだ辛うじて息があった。焦がした身体を力無く土の上にへたり込ませ背で木に寄りかかっているところへ、極めて冷徹で暴虐な跫音を引き連れ、俺は、ゆっくりと歩んで迫る。そのとき怪人には、木々の影が落とす暗がりに爛と疾る二つの紅眼が恐ろしく不気味に映えたことだろう。壊滅的に精神を蝕む絶え間のない苦痛と恐怖と絶望とを、荒いだ呼吸に虚しく吐き出しながら、怪人は卑屈に脅えきった目で俺を見上げる。もはや戦意は完全に喪失していた。
鋼鉄の爪を剥く俺の右手が、怪人の頭部を握り潰さんばかりに容赦なく鷲掴み、腰を沈め、左手の拳を深く構えて顔面に狙いを付けた。至近距離から凝然と睨む俺の血の色の両眼に怪人は身を震わし、全身で戦慄した。
放たれた俺の声は、燃えるように冷たかった。
「質問は二つある。一つは、お前らが一体何者か。もう一つは、お前らのアジトが何処にあるかだ。答えろ」
―――蜂女との戦闘から二日後、俺は再び怪人と接触した。それが、このカメレオン男だ。今度は連中からの一方的な接触ではない。ヘルファイアの紅眼は、連中が人型であるときでも、その中に邪悪な闇の存在があることを感じ、視ることが出来た。それによって俺は、この男を見つけ出し、こうして追いつめたのだ。
雪崩のように全身を飲み込もうとする恐怖と苦痛の炎熱に呼吸を乱しながらも、男は立場を無視して俺に脅しをかけた。
「ヘルファイア、貴様・・・・・・俺達を本気で敵に回すというのか? 貴様ごときに、万に一つの勝ち目も無いぞ・・・!」
言い終わるよりも早く、握った異形の拳が怪人の焦げた腹を深くえぐった。鈍重な打撃音が響き怪人は言葉と呼吸とを一気に失い、俺の腕には、内臓を確実に破裂させた手応えが衝撃となって伝わる。
「誰が無駄口を叩けと言った? もう一度だけ言う、質問に答えろ。三度目は、無い」
再び構え直された左拳は今度は手首から直角に四本、鋭く黒金の剣を剥き出し、ドリルさながら凶暴な空裂音を放って高速回転させ、絶対的な殺意を表明した。内臓破裂のせいだろう、大量に血を吐き、異形の顔面を泣き崩れるように歪ませて怪人は俺から視線を背け、震えながら首を振って言葉を躊躇する。
「い、言えるものか・・・・・・言えば、俺は殺される」
「その前に俺が殺す。少しでも長く生きていたいのなら、お前に選択の余地は無い。三秒やる。よく考えろ」
怒りの炎を宿して冷厳と言い放つ俺に、あさましく慈悲を乞おうとする怪人の視線は既に目に入らない。たかだか三秒の猶予で自らの生命に関わる選択について深く考えられる筈もなく、それは男の判断力を奪うには効果的だった。
「三」
死への秒読みは無慈悲に開始された。左手のドリルが猛々しく回転を増せば、鼻先にまで迫り来る鋲の剣の先端が、それによって訪れるだろう残忍な苦痛の襲来を、確実的予言として男に突きつける。
「二」
目を逸らし身をよじったところで逃げ場はない。どうすることも出来ない恐怖が、男の全てを支配する。そして、怪人が意を決して口を開こうとした、まさにそのとき―――その側頭部に、空を破り裂いて鋭く放たれた赤金の鋲の剣が一瞬で突き立てられ、怪人は血を噴き上げながら絶命して地に倒れ伏した。
俺は強く覚えのある炎を感じた。深く、暗く、遠く、俺を導き、俺の身を灼き焦がそうとする暗黒の火焔。ゆっくりと身を起こし、影を睨む。距離にしておよそ十数歩―――見間違える筈もない。そこにいたのは、奴だった。
「その問いには、俺が答える」
俺よりも一回り大きく、暗黒の鎧の膚で身を覆った肉体、血よりも紅い仮面、そして深奥な闇色の両眼。鈍色の殺意を孕んだ残忍な声が、俺の身を苛むように鋭く痛みすら覚えさせる。薄闇を裂いて正面から激突する、紅と黒、ふたつの視線―――・・・それは、敵意では、ない。怒りでも、憎悪でもない・・・だが何故か俺は、恐らく初めて奴の姿を目にしたときから、いつか真っ向から対峙せねばならない、という宿命めいたものを、強く感じて止まなかった。怒りよりも遙かに烈しく、そして血よりも深く、赤く、熱い、焼けた鉄のような闘志が、剛炎と化して俺の心を燃え上がらせる。
緊張が空気を灼き焦がし、俺は噛み締めた奥歯からギリと軋音を漏らして、確かめるように奴の名を口にした。
「・・・デスファイア」
傲然と見下ろす暗黒の焦熱。
決然と睨め上げる紅蓮の灼熱。
二つの炎が、そのとき、抜き身の剣となって向き合った。
(2)
山中でデスファイアと接触した数時間後、俺は八王子の高尾山麓へ向けてバイクを飛ばしていた。剥き出したバルブが銀に光沢を放つ、水冷V型四気筒1200ccエンジン。肉食獣の咆哮にも似た重低のエギゾーストサウンドが、夜の山道に深く響き渡る。ヤマハ VMAX―――総排気量1197cm3、最高出力140psという数字は、国産では最大級のモンスターバイクであることを誇示する。かつて俺がヘルファイアではなかった頃には2.3mにも及ぶ車体をやたら大きく感じたものだが、今なら丁度いい。太い車輪が力強くアスファルトを蹴りつける。その振動は昂揚となり、次第に俺の炎を熱くする。
『・・・かつて一人の科学者がいた。その男は、ある裏切りから全てを失った。地位、名誉、財産・・・そして、正義と、誇り―――やがて男は、狂気に堕ちていった。だがそれは、この世界が狂わせたのだ。狂っていたのは、彼ではなく、世界だ』
闇夜を切ってVMAXを疾走らせながら、俺はデスファイアの言葉を思い出していた。
『男は、自ら審判を名乗った。自らと同じく、この世界に裏切られ、捨てられた者たちを集め、かつての研究の成果として有していた技術を用いて、それぞれに<裁き>のための力・・・超越的な知覚/戦闘能力を与えた。俺や、お前のようにな』
つづら折りに曲がりゆく山道のアスファルトを吹き抜ける冷たい夜風が俺の炎を薙いで熾す。首に巻き付けた黒いマフラーは長く後ろへと靡き、バタバタと乱暴にはためいて躍る。闇を斬り裂く風、紅く燃える炎熱の姿影―――それは叙情となって俺の決意を物語った。
『覚えがないか? だろうな・・・。お前は一度、我々の組織に身を置いてはいたが、例の事故によって生じた脊髄への損傷が、それらの記憶に障害をもたらした。いや・・・お前は恐らく、佐倉綾子と出会うことによって、狂気の闇へと陥る激しい怒りと憎しみの記憶を、無意識のうちに分離して封印したのだ。お前が現実に絶望し、全てを諦め死をすら望みながら、なお自らの命を絶つことがなかった理由は、それだ。お前の中のヘルファイアは、しかし着々と憎悪を蓄積させていき―――・・・臨界に達する刻を、心待ちにしていたのさ』
ハンドルを握る両手に力が宿り、拳の先から鋭く空を裂く金属音と共に黒金の鋲が剥き出す。ハイビームのヘッドライトが、まるで砕氷船のように、暗黒の闇夜を裂いて進んでゆく。もう二度と、戻ることは無いかも知れない道を。血塗られた戦いへと向かう悲壮なる決意の道を、俺に前に、照らし、示して。
『組織の名は、【カウンター・ソドム】―――かつて天の火で焼き滅ぼされた背徳の都市が、今度は逆に、世界を焼き滅ぼすために・・・。この世界の理不尽を、どうしても受け容れ認めることが出来ず、虐げられ、蔑まれ、裏切られ、殺されて、背徳と悪意に堕ちざるを得なかった、憐れなる者たちのために・・・!』
俺は、気付くのは遅すぎた。身を暗黒に堕とし、異形と為り果てた俺の力は、ただ壊し、燃やし、殺すためのものだ。この姿では、もう人として誰かを幸せにしてやることなど出来はしない。だが、それでも、出来ることはある。俺にしか出来ないことが。俺が、やらなければならないことが。俺の胸に、熱く、綾子の笑顔が燦然と燃えているのを感じる。決意の炎に、今や迷いの揺らぎは微塵もない。守る。信じるものを、信じ抜くために。俺の胸に燃える炎を、裏切らないために。
『我々の本部は、八王子の高尾山麓にある。お前なら近くまで来れば感じるはずだ―――果てしなく強大な、暗黒の存在を』
冷たい夜風が、高く闇を煌々と照らす蒼い満月の光を運ぶ。いななくVMAXを停め、またがったまま、俺は丘の上から横付けにその屋敷を見下ろした。森深い山の中、そこには不自然なほど巨大な洋館風の施設が、ぼんやりと照明の中に浮かび上がっていた。空気越しに皮膚に伝わる黒い障気は、かつてどの怪人から感じたものよりも、深く、暗く、遠く、何より邪悪だった。それは俺に確信として根を下ろす。生死を賭して戦うべき場が、滅ぼすべき敵が、今、俺の目の前にあることを知らしめる。そして今この時こそ、俺が、たった一人でも戦わねばならない刻だ、ということも。
『何故そんなことを俺に教える。お前は一体、俺に何をさせたいんだ・・・?』
アクセルを大きく噴かしてから、道のない斜面を屋敷に向けて真っ直ぐに駆け下り、俺はデスファイアにそう言ったことを思い出した。敷地内への侵入者を報せる警報が、けたたましく山中に唸りを上げる。俺に対し明確な敵意を持った無数の気配が、ざわざわと俺を取り囲んでいくのが分かる。
姿勢を前傾に、アクセルを全開まで解き放って加速する。傾斜が緩くなるのとほぼ同時に、エンジンの回転が6000を超えて<Vブースト>が起動すれば、排気の咆哮はVMAXの本来もつ悪魔のように暴力的な本性をさらけ出し、野獣のそれから、まるで怪物の雄叫びへと飛躍的に凶暴さを増して変貌する。急激な加速に空気が身体を殴って叩きつけ、周囲の情景が一瞬で後方へと流れて消えていく。視界が激しく狭窄する。加速がヘルファイアの感覚を鋭敏に研ぎ澄ます。
『言ったろう、俺はお前を戦士として仕上げる、と。組織への建前上、表向きは、お前を闇に堕とし仲間に引き入れるために動いているように見せてはいたが―――俺の真の目的は、ヘルファイア・・・お前と戦うことだ・・・! お前なら、お前の炎ならば、あるいは・・・』
速度を落とさず、ほとんど最高速に近い状態で目いっぱい前輪を持ち上げ、背の排出口から瞬時に猛烈な爆発を噴き上げ、ロケットさながら車体ごと空中に飛んで鉄柵を越え、邸内へ着地と同時にタイヤを横滑りさせ、後輪で大きく砂塵を巻き上げる。間髪を入れず放たれた数匹のドーベルマンが襲いかかり、車上の俺の腕に、脚に、鋭く牙を立て噛みついた。肉が裂け血が噴き出たが、俺は構わずにエンジンを噴かし、再びVMAXを疾走らせる。遅れて邸内から現れた戦闘員たちが配置を整え、それぞれ手にした銃を俺に向け発砲する。絶え間ない銃弾の雨の中、俺はドーベルマンを引き連れながら戦闘員の一人に向かって突進し、またがったまま左手を伸ばして黒金の鋲を剣に変え、擦れ違い様に、その馘を一刀のもとに斬り落とした。向き直るために大きくハンドルを切り再び車体をドリフトさせながら、今度は、ドーベルマンの噛みついている口の中で瞬時に鋲を突き出し、頭蓋ごと串刺しにして全て振り払う。
『デスファイア・・・お前は・・・―――』
闇夜を断ち裂き、睨み流れる獰猛な紅い炎の両眼が、十数の戦闘員を射すくめる。俺はVMAXの車上から鋭く手を振りかざし、俺を囲む全員に向け、連中が引き金に指をかけるよりも速く、背から剛炎の餓狼を解き放ち、薙ぎ払った。その炎は、爆炎だった。戦闘に臨んで、俺の炎が、今までになく激しく爆発しているのが分かる。燃えているのは、俺の命だ。轟く火焔の唸りが戦闘員の断末魔すら遮って、黒々と闇天を焦がし、地を震わせる。もう誰も、俺の炎を止めることは出来ない。
鋼鉄の咆哮と共にVMAXを鋭く翻し、フルアクセルでガラス張りの中央エントランスを突き破り、ついに屋敷内に侵入する。中には、緩くスロープを描く大きな階段があった。感じる。この先に、世界の全てを飲み込もうとする巨大な闇がある。そう思ったときには、俺は後ろからの銃撃を振り切り、アクセルを引き絞って前輪を持ち上げ、VMAXで階段を駆け上っていた。
『―――・・・その問いへの答えは、後の楽しみに取っておくことだ』
駆け上がった先は回廊になっていた。幅にして10mはあるだろう、天井は高く、太く柱と窓の立ち並ぶ回廊・・・その向こうには、背から高々と蠍(サソリ)の毒針に似た尾を持ち上げる赤い甲殻の怪人の姿が確認できた。遠く、俺を睨め付け、
「貴様がヘルファイアか・・・・・・ここから先は、通すわけにはいかん!」
吼えるような怒声で言い放つ。アクセルを噴かし、怪人へ向け全開に加速する。エンジンが咆哮を轟かせ、マフラーは火炎を吐き出した。距離は高速で縮まっていく。避けもせず、正面から迎え撃つ構えを取る蠍男の気迫が、VMAXの吼え声にも負けじと烈しく空を震わせる。突進しながら、再び背から長く爆炎の尾を引いて加速を生み、激突する寸前に俺は前輪を高く持ち上げ、蠍男の上体を狙った。激突の衝撃が握った両のハンドルから直接に伝わる。怪人は腕を防御の形に交差し、踏ん張った両足から煙を噴き数m押し戻されながら、総重量で300kg近いVMAXの前輪を、完全に受け凌いだ。
組んだ腕の隙間から鋭利に覗く殺意の視線が俺を射抜き、受け止めた腕でそのまま前輪を掴み、体勢を右に薙ぎ、怪人は、車体ごと俺を回廊に叩き伏せた。すかさず追い打ちの一撃―――背に伸びる長く巨大な毒針が、まるで上半身全体で殴りつけるように振り下ろされる。俺は間一髪、身を翻して避けたが、黒く輝くVMAXの車体は、無惨にも紙細工さながら易々と引き裂かれ、一瞬おくれてエンジンが閃光と共に爆発、炎上する。俺は膝を突き立て、燃え上がる炎の向こうに、ゆらりと立ち上がる蠍男の赤い甲殻の影を視る。互いに向き合う視線が、心を限りなく闘争へと駆り立てていく。
『待っているぞ、ヘルファイア。お前との果てしない死闘の刻を・・・そして俺を燃やせ、灼き尽くせ! お前の炎で、俺に、真の燃焼を与えろ・・・!』
跫音に振り返ると、そこには更に三体の怪人が俺を取り囲んでいた。腕の下に蝙蝠(コウモリ)のような皮膜の翼を持つ者、烏賊(イカ)のような白い触手を肩から幾本も生やした者、豹柄の毛皮に身を包んだ牙の鋭い細身の者・・・・・・それぞれの異形が、それぞれの構えで、俺の周りを、じりじりと円を描きながら間合いを計る。大窓の下でVMAXを覆う炎がカーテンに類焼し、やがて回廊の絨毯にも燃え移っていく。俺は立ち上がり、身を開いた構えで応じる。状況は四対一。
「ヘルファイア・・・我々に刃向かうとは、愚かな男だ・・・・・・その死を以て<ジャッジメント>様に捧げよ!」
蝙蝠男が口火を切った。腕に皮膜を引き連れた黒い拳が唸り、俺は避けながら上体を低め、カウンター気味に腹部へと異形の拳を叩き込む。衝撃の手応えを拳に確かめる間もなく、蠍男の丸太のように強靱な尾での薙ぎ払いの一撃が俺の背を捉えて烈しく打った。痛みは痺れとなり、俺の動きを制限する。急ぎ視線を振り向けば、二撃目が大きく尾を上げ、空を断つ振り下ろしの針で俺を貫こうとしていた。咄嗟に右へと身を返して躱し、そのまま勢いを殺さずに横巻きに回転し、右の肘から下、剛炎を伴って外側に鋭く伸ばした黒金の剣で、目標を見失って回廊に突き立てられた尾を、水平真っ二つに断ち斬る。
腕を振り抜いた俺の背の向こうで怪人が野太い悲鳴を上げた。一瞬後、俺の左手首から剣のドリルが高速回転を始め、振り向き様に蠍男の胸部を引き裂き、ずたずたに甲殻を破壊して、肉と心臓とを一気に貫いた。ドリルの内側の拳が怪人の背にまで貫徹して至る。噴き上がる血飛沫が俺の紅い鎧を上塗って染め上げ、炎の紅眼を激昂に燃え走らせる。
―――・・・まず一人。残す敵は、三人だ。
生を失って、うなだれる死体から、深く血に染まった左拳を引き抜き、無造作に蠍男を回廊に転がし、俺は残りの三人と対峙した。短くドリルが回転し鋲の剣に付いた血を振り払う。今度は、俺が先手を打って出た。一瞬で踏み込み、烏賊男に間合いを詰めて速攻を仕掛ける。右肘からの剣で殴るように斬りかかり、虚を突いて怪人の左肩から生える触手を数本ばかり叩き落としたが、烏賊男の動きは存外に機敏で、以降ことごとく俺の斬撃を躱してのけた。そのとき俺は烏賊男の触手にばかり気を取られ過ぎ、背後からの豹女の接近に無警戒だった。肉食獣特有の爪が殺意を持って剥き、俺の背の膚を斜めに斬り裂き肉を開く。流血は激痛となり、炎となって俺の全身に行き渡る。翻り、俺は豹女と撃ち合う。黒金の剣と獣爪との斬撃の応酬。斬り弾いて豹女を倒れ伏す頃には、燃え移った炎は既に回廊を舐めるように走り、炎熱と爆風だけが背景の全てとなっていた。
豹女と交戦している隙、烏賊男は俺から距離を取り、機を見計らって、ここぞとばかり無数の触手を伸ばして、俺の身動きを封じ込めた。すかさず即座に身を起こし、高く跳躍して両の爪を振りかざす豹女。その牙の剥く口元に浮かぶ凄惨な笑みが、灼熱の恐怖と苦痛に歪むまで、二秒は要さなかった。
腰を沈め、神速で俺は全身の鋲を全開まで突き出し、烏賊男の触手をずたずたに裂き、同時に背からの轟炎の波濤を空中の豹女へと放つ。毛皮は一気に火炎に包まれ、撃墜した豹女は燃えながら、のたうち回って悲鳴を上げる。しかし尚も立ち上がり、その炎に包まれた爪で殴りかかる豹女。斬撃は甚だしく精彩を欠いてはいたが、迫力は倍以上―――なりふり構わぬ蹴撃が遂に俺を捉え、脇腹を横薙ぎに蹴り上げて、俺は身体ごと弾き飛ばされた。飛ばされながらも、壁に激突する直前で翻って深く両足を突き立て、そのまま三角飛びの要領で轟炎を噴き上げ反動を付けて、豹女の頭部に必殺の飛び蹴りを喰らわして沈めた。轟爆する火柱が、その頭蓋を跡形もなく消し飛ばす。
着地して、なお残る加速に開いた両足で横滑りに床を削らせようやく減速し、片手を突いて残る二人を睨む。後は烏賊男と、もう一人・・・
しかし気が付けば、蝙蝠男の姿が無い。回廊が炎に包まれる中で見失ったか。どこへ身を隠した・・・? だが見回したところで、その姿を見出すことが叶わないのは当然だった。蝙蝠男は、そのとき回廊内にはいなかった。烏賊男が目眩ましの墨をつぶてと化して吐きかけ俺の視界を奪えば、研ぎ澄まされた俺の知覚は、何か大きなものが窓を割って俺に向かってきたのを感じた。その速度は凄まじく、避けることも出来ずに俺は攻撃を真っ向から喰らい、床に烈しく叩き伏せられた。
やはり、と言うべきか、蝙蝠男には高速飛行能力があった。墨で視覚を奪われた今の俺には、その姿を捉えることは、どうやら出来そうにもない・・・―――ならば、攻撃目標を変えるまでだ。俺は集中し、烏賊男の邪悪を感じた。正確とは言い難いが、恐らくは距離にして十数歩程度の位置。鋲の剣の届く距離ではない。踏み込んで斬りつけたとしても先刻同様、避けられるだけだろう。ましてや視界のおぼつかない今なら尚更だ。だが、蝙蝠男の次の攻撃まで余裕はない。どうする・・・?
そのとき、回廊が炎熱に燃える轟という音に混じって、幾つもの渇いた跫音が慌ただしく俺を取り囲んだ。同時に、何か銃火器を扱う時のような小さく金属のぶつかる無数の音・・・どうやら振り切った戦闘員が遅れて駆けつけたらしかった。見えはしないが、それぞれの銃口の刺すような殺意が俺を射抜いているのは感じる。
「無駄な抵抗もこれまでだ、ヘルファイア。観念するんだな」
戦闘員の円を割って俺に近づいてきたのは、烏賊男の気配だった。再生した触手が空を切って不気味な唸りを上げている。とどめは自分で刺すつもりか。状況は困窮していたが、それでも俺は、反撃の機、怪人の接近と油断とを伺い待っていた。
「これで終わりだ・・・! 死ね!」
とりわけ太い二本の触手が炎熱に焦げる空を裂き、きつく俺の首に巻き付いた。ギリギリと締め上げながら空中放電する程の強烈な電撃を放って俺の意識を遠のかせる。俺は地鳴りのような咆哮を上げながらも、訪れた僅かな勝機を逃すまいと、決死の覚悟で怪人の触手を掴み手繰り寄せようとした。予想外の事態に狼狽した怪人の声が聞こえる。
「何? しぶとい奴め、まだ悪あがきする気か・・・!」
言葉に続いて更に電圧が倍増し、俺の全身から力という力が抜けそうになった。だが俺は、こんなところで力尽き倒れる訳にはいかない。それでも燃え上がる誇りを、ありったけ掻き集め、俺は命を焦がし吼えながら全力を振り絞って触手を手繰り、とうとう怪人の背に腕を回し密着した。この距離ならば、無視界だろうと関係ない。全身から壮絶なまでに噴き上がる灼熱の剛炎に伴われ、殺意の具現と化して突き出す無数の鋲の剣が、烏賊男の全身を串刺しに灼き貫いた。
遅れて反応した戦闘員たちが手にした機関銃を俺に向け発砲したが、そこには既に俺の姿はなく、銃弾の雨は、立ち尽くしていた烏賊男を撃ち抜いて蜂の巣にし、完全な死をもたらしただけだった。気付いた戦闘員の一人が慌てて声を上げる。
「よせ、撃つな! 奴は上だ!」
俺は烏賊男に鋲を突き立てるなり即座に天窓近くまで跳躍し、予想される銃弾を躱していた。声に反応した戦闘員が、上空で身を縮めながら落下してくる俺に発砲する。だが、遅れた反応で咄嗟に照準した程度で急所に命中させる難易度は高く、当たったとしても、紅い膚ではなく、防御の形態を取っていた黒金の鎧に激しく弾かれるだけに終わった。
「き、効かないッ!?」
その効果は戦闘員たちを困惑させるに十分だった。猛々しく狂い咲く銃火の嵐を抜けて俺は姿勢を低く着地、そのまま流れるように、戦闘員に襲いかかった。視界はまだ回復していないが、銃声のした位置は把握していた。左手首から突き出す四本の鋲を拳の方に曲げず真っ直ぐに伸ばし、その状態でドリルの時と同じ要領で高速回転させる。見た目には円盤状のカッターとなり、剣は戦闘員たちの身体を、一人目は肩から脇腹にかけて、二人目は首を、三人目は胴体を、四人目は両腿を一気に、全て輪斬りにして落とした。炎熱に狂う回廊に、断末魔と血飛沫が噴き上がって地獄色の彩りを添える。
これで残るは、蝙蝠男ただ一人―――・・・!
目を拭ったが、完全な視界の回復には、まだ少しかかりそうだった。俺は集中し、邪悪の存在を探る。蝙蝠男は、回廊の端に立っていた。その鬼気迫るほどの闘気は、視界など無くても皮膚に感じる。次の一撃に全てを懸けるつもりか。ならば、応えは正面から迎え撃つまでだ。
「ヘルファイア! 貴様は俺が殺す!」
回廊を覆い包む火の手は、もはや天窓にさえ届くほど高く伸びていた。蝙蝠男の接近を感じる。ただ翼を羽ばたいての飛行ではない、俺と同じように、背の排出口からジェットを噴いて加速している。二つの燃える咆哮が、刹那で距離を詰めていく。全て一瞬での事だった。蝙蝠男の爪が剥き、俺の首を狙う。俺は直前で身を返して避け、すんでの所で致命傷は逃れたが、それでも爪は首の左側の肉を数cmほど引き裂き血煙を上げた。俺は躱した腕を左手で鷲掴みに引き下ろし、そのまま勢いを使って体勢を巻き、がら空きだった蝙蝠男の腹を右拳で鋭く撃ち上げ、そこから更に拳勢を強め、身体ごと柱に渾身で叩き付けた。突き立てた拳から水平に起きる轟爆の火柱が、怪人の腹に致命的な風穴を開けた。
どさりと音を立てて身を落とす蝙蝠男には、まだ息があった。俺は左手で男の顔面を掴み、とどめを刺すべく、うつむきながら片手で高く全身を持ち上げた。ゆっくりと俺が顔を上げれば、ようやく視界の戻った両眼が、殺意の紅蓮を放って怪人を睨む。死を目前に、かすれるような呼吸に交え血を吐きながら、男は叫びに近い声を絞り出した。
「き・・・・・・貴様、何故そうまでして戦える・・・? 仲間も、見返りもなく・・・たとえ戦い、勝利を納めたとしても、その手に得るものなど何一つとして有りはしないというのに、何故・・・―――何故だ! 一体、何が貴様を支えているというのだ!?」
「・・・・・・」
俺は答えず、再び手首から、金属が空を裂く鋭い音と共に四本の鋲をドリル状に伸ばした。そのうち一本が男の喉笛を突き破り、確かな絶命の手応えを俺に与える。ドリルを回転させれば剣は怪人の首の肉と骨を強引に砕き断ち、首から下を、重力に無抵抗なまま回廊に捨て落とした。俺の手の中には、凄惨な死に顔を浮かべる蝙蝠男の頭部だけが残る。
ドリルが回転を止め、俺は身じろぎ一つせず、闇よりも深く冷たい炎の声で、残った怪人の顔に最後の言葉を吐きかけた。
「―――地獄で喚いていろ」
言い終わると同時に左手に力を込めると、蝙蝠男の頭部は、瞬間、燃え盛る爆炎と共に粉々に爆ぜて散った。
炎熱の回廊での戦闘を終え、ヘルファイアの炎に衰えはない。さらなる灼熱と光輝が宿ってさえいた。歩みゆく足元に、強く炎が漲ってゆく。感じる。この鋼鉄の扉の向こうに、果てしなく深い暗黒の炎がある。奴が、いる。闘争への宿命が、俺の背に轟然と燃え上がる。俺は両開きの扉に手をかけ、意を決して押し開いた。
.. . .. . .. . .. .
部屋は広く、まるで戦うために造られたような印象さえ与えた。薄暗い照明、不気味なほど静まり返った静寂が奇妙なまでに昂揚を掻き立てる。奴は、部屋の中央、俺に背を向ける形で、立て膝のまま地に片拳を突き立て、まるで神に祈りでも捧げるような荘厳さすらたたえて、うつむき、凝然としていた。開いた扉の軋る音と、その向こうで燃える炎の放つ逆光が部屋に差し俺の入場を報せれば、まるで黒い炎が闇を舐め燃え立つように奴は立ち上がり、大きな背を向けたまま、仁王立ちで、静かに言った。
「・・・待ちくたびれたぞ」
その残忍な声は、僅かだが、しかし確かに喜悦を含んで放たれた。俺が数歩を進むと後ろで鉄扉が自動的に閉まり、その大げさな閉鎖音が退路は既に無いことを示す。そんなものは初めから期待してはいない。奴の姿を目にして、俺の炎が灼々と血の色の業火を上げて燃え盛る。奴も今、同じ炎を感じている筈だ・・・深く、暗く、遠く、果てしなく燃える闘志の焦熱を。
受けた傷の痛みは熱に消し飛び、限りない生命の燃焼を感じる。この戦いは、どうあっても避けることの叶わないものだと、俺の炎が悲鳴を上げている。かつてない程の昂揚に、炎が躍る―――光でも闇でもない、渇いた感情・・・・・・どこまでも純粋な闘志の中で、血みどろの輪舞を、炎が、踊る。
静なる対峙に声を発したのは俺が先だった。奥歯を噛み締め、低く、唸るような声。それは戦士の声だった。
「デスファイア・・・決着を―――」
ゆっくりと放たれる俺の言葉の、続きを繋いだのは奴だ。半身で首を振り向きながらのその言葉には、笑みすら感じられた。
「ああ、今こそ、決着を付ける刻が来たようだな」
デスファイアが全身を振り向いたそのとき―――暗黒と紅蓮と、交錯する二つの強靱な視線が、炎の死闘の始まりを告げた。
(3)
空気が、熱い。灼々と熾る二つの剛炎に挟まれ、まるで空間が蜃気楼のように揺らぎ、歪んでいくのが分かる。俺も奴も、構えを置いてはいないが、しかし死闘の火蓋は既に切って落とされていた。ゆっくりと地を擦るように足取りを運び、互いに絶えず位置を移動しながら、向き合う二つの弧は円を描いて次第に間合いを詰めていく。
「ヘルファイア、感じるだろう、俺の渇きを。俺の炎は、俺に痛みと渇きしか与えはしない。お前に分かるか・・・砂漠よりも果てしない永遠の枯渇は絶えることもなく身を焦がし続け、死の終焉すら視えない底なしの暗黒だけが、俺の周りにある全てだ・・・。俺の中に残されたものは、ただ、どこまでも渇き切った、痛みと、怒りと、憎悪のみ―――」
デスファイアは床を蹴って立ち止まり、応じて俺も踏み足を強める。かち合う視線が、斜めに薄闇を裂いて行き交う。
「もはや、俺の渇きが癒えることはない。癒すつもりもない。俺が欲するものは、安易に甘えた癒しなどではない―――この渇きすらも凌駕して、俺を完全に灼き尽くす真の燃焼だ・・・! さあ、俺を灼け、ヘルファイア! お前の力で!お前の炎で!お前の闘志で! 俺を暗黒から解き放て! この俺に、敗北と死の絶望を視せてみろ・・・!」
動かずに、小さく目を伏せ、俺は応えて言った。
「・・・・・・初めてお前と出会ったときから、俺の炎が、こう悲鳴を上げている。俺がお前と交えるべきは―――」
言いながら、きつく握り締めた両手が、轟然と炎を噴き上げる。俺は、その燃える右拳を胸の前に掲げ、
「言葉よりも、拳の方が相応しい、と」
それを聞いた奴が、血よりも紅い仮面の下で微かな笑みを浮かべたことを俺は知った。
「いいだろう・・・・・・ならば俺も、全力で応えるまでだ」
次の瞬間、俺は左手の、奴は両手の、手首から突き出す四本の鋲の剣が拳先に向け鋭く伸びて空を裂き、必殺のドリルを形づくった。金属が回転を早めていく音が凶暴に鳴り響き、互いの全身から噴き上がる、暗黒と紅蓮、二つの剛炎の熱を激しく強める。対峙する視線は炎の銃弾となって互いを撃ち抜き、一撃目の踏み込みの機を、低く重ねる呼吸の中に伺い待った。
やがて、刃のように研ぎ澄まされていく緊張が、ついに極限の高みに達した時―――俺の炎が神速で牙を剥いた。
振りかぶった右の拳が燃えながら疾走し、刹那で距離を縮めて、弓弦から弾かれた矢となって放たれ、デスファイアの胸板に直撃した。撃音と共に打点から噴き上がる剛烈な炎の柱が、その衝撃の度外れた威力を証明する。しかし、撃ち込まれた黒い巨体は一撃に動じる様子もなく、ただ両足を開き腰を落としただけで、防御の姿勢すら取らずに、俺の鉄拳を受け止め、凌いで見せた。拳から剥く黒金の鋲が奴の黒い鎧の膚に食い込んで血を滴らせる。闘気に満ちた静寂の空間に軋音を噛み締めた歯の向こうから低く響くのは、デスファイアの鈍色の声。
「この程度ではないだろう、ヘルファイア・・・。こんな拳では―――」
言い終わる前に、瞬きより早く奴の左の膝が俺の右腕を激甚に突き上げて弾き、そのまま勢いを生んで地を蹴って跳び、中空で右の後ろ回し蹴りから左の巻き蹴りまで、すべて一瞬のうちに連続した動作で繰り出した。丸太より太いその脚で繰り出される蹴りの威力は凄まじく、まるで黒い烈風が吼えるようでもあった。咄嗟に下げて脇を締め盾にした右腕の、防御の形を取った黒金を砕き割り、俺の身体ごと弾き、数mも後方まで、足の裏で地を削って後ずさらせた。
再び生じた間合いに、奴が言葉の続きを繋ぐ。
「俺を斃すことなど、出来はせんぞ」
俺よりも一回りは大きな巨躯から、暗黒に燃え見下ろす奴の両眼が、俺に挑発を突き付ける。睨め上げ、決意の灼熱を宿す俺の紅い視線の刃が、えぐるように貫き返す。
「・・・なら、確かめてみるか?」
「来い」
そして唐突に、攻撃力の応酬が始まった。拳を放てば蹴りが飛び、蹴りを躱せば剣が剥いて膚を裂く。一瞬の油断が致命の一撃を招く死の応酬―――それは舞踏にも似ていた。互いの動きを読み合い、流れに合わせて、相手よりも素早く、鋭く、強く撃つ。時には自らに有利の機を引き寄せるべく、誘いの一撃を織り交ぜ次の動きを導き、あるいは退いて体勢を整え直し機を伺う。全ての動きは流れの上に連続し、攻撃が烈しく空を吼えさせる低い音、そして肉や剣が重く鎧を打つ防御音だけが、闇に沈んだ室内に間断なく唸りを上げる。
連撃は、ほぼ互角だったが、しかし圧されているのは俺だった。一撃の重み、迫力、鋭さ、流れの運び、すべて奴が一枚から二枚は上手であるというのは、認めざるを得ない事実だ。だがそれは、この戦闘に臨む前、あの<始まり>の夜に片手でねじ伏せられた時から、既に承知していたことだ。俺の力では、もしかしたら、敵わないかも知れない相手。だが、だからといって恐れ戦わないのでは、目の前に道を切り拓くことなど出来る筈がない。
一機、俺の必殺の左が、体勢を崩したデスファイアの喉笛めがけ殺意の光沢を鈍く放った。俺は奴の動きの隙を捉えた筈だった。しかし、それが罠だと気付くには、数十分の一秒ばかり遅かった。デスファイアの黒い右腕が、避けられ肘の伸びきった俺の左を外側から巻き込むように固定して自由を奪い、そのまま身体を巻いて俺を地に伏せ込ませようとする。これ以上の体勢の利を取られまいとして俺は咄嗟に空いた右手と右膝を突いて抗い、強引に立ち上がって向き直り拳を見舞った。片腕を取られたままの一撃に大した効果が期待できる訳もなく、あっさり奴の空き手に防御で受けられるに終わったが、この一撃は、少なくとも気合では圧し負けないための俺の決意を証明する一撃だった。数秒の膠着で睨み交錯する視線の炎が、鋭く互いの実力を評価する。
「いい拳だ・・・―――だが、まだだ! まだ、お前の真の力は発現してはいない」
言うと同時に、奴の左の膝から赤金の鋲が二本、一瞬で太く突き出して伸び、えぐるように俺の右腿に深く突き立てられた。鋲の剣は鎧の膚を貫き、肉を破り、骨を削って、切っ先を腿の裏側にまで覗かせた。俺は喉元を焼こうとする悲鳴を噛み殺すだけで手一杯で、たまらず膝が重く地に落ち、情けなく痛みに震えて立ち上がることさえままならない。デスファイアは俺を見下ろしたまま、わざと右腕を解き、一歩下がって、一言みじかく吐き捨てた。
「立て」
挑発。俺の決意と正義がこの程度で挫けるようなものなら、初めから、この死闘に臨む資格など有りはしない。厳然と実力の差を見せつけながら、それでも立ち上がるのが当然だと言わんばかりに、奴の暗黒に燃える視線が俺にそう叩き付けてくる。
剣に貫かれた右腿は炎のように激甚な痛みを噴き上げ、燃える血を溢れ出して止まろうとする様子も見せない。だが、それでも俺は立ち上がる。綾子が俺にくれた炎の勇気は、もう何物も恐れはしない。痛みも、流血も、死すらも恐れない。腿を撃ち抜かれた程度で立ち上がれなくなるほど脆弱な俺は、あの日、野獣としてのヘルファイアと共に死に絶えた。俺は立ち上がる。立ち上がらねばならない。たとえこの身が朽ち果てようと、心だけは、絶対に倒れはしない。それを証明するために、俺は立ち上がる。戦うために、信じるために―――何度でも、何があっても。
震える膝を押して立ち上がる俺の足元には、滴る血溜まりが池を作っていた。痛みに喘いで荒れる呼吸を必死に抑え、紅々と燃え走る両眼が低く真っ直ぐ暗黒の影を貫いて離さない。俺の命が、灼熱となって闇を灼き裂くべく背に燃え上がる。
「そうだ、それでいい・・・・・・まだ死闘は始まったばかりだ」
傲然と歩み寄り、右手のドリルを解除して、奴は俺の暗黒の仮面を鷲掴みに持ち上げ、間を置かずに、丸太のような黒い脚で俺を烈しく蹴り上げた。宙に浮き、地に叩き付けられて、俺の全身が痛みに悲鳴を軋ませる。再び倒され、なお立ち上がろうと拳を突き立てる俺の眼前に、一気に追って踏み込み、容赦なく放たれる奴の異形の拳が腹部に深くえぐり込む。拳から剥き出した鋲が鎧と化した腹筋を突いて裂き、熱血を迸らせる。ぐったりと力無くうなだれる俺の胸に奴は追い立てるように右手の獣爪を突き立て、肉を掴んで俺の身を軽々と空に持ち上げた。流れて落ちる黒い血が、紅い身体を切り裂くように伝っていく。
圧倒的とも言える戦闘力の差に俺は為す術もない。だが、そのとき優位に立った奴の眼に僅かばかり油断の色が流れ込んだのを、俺は見逃さなかった。一瞬の隙をつき必殺のドリルを奴の左肩に全力で食らいつかせ、背から猛然とジェットを噴き上げ、デスファイアの身体ごと一気に圧して突き進む。遅れて奴も反応し、やはり背から暗黒の火焔を吐いて踏み足を強め身を押し止めようと抵抗したが、既に加速を始めていた俺の勢いを殺すには至らず、肩の肉は、無慈悲なまでに高速で回転するドリルに激しく暗黒の血流を飛沫と散らせ、燃え盛り狂奔する二つの剛炎に触れては黒く蒸散していく。激突し拮抗する俺と奴との力の均衡が、じりじりと次第に奴の踏み足を後退させ、遂には猛烈に弾け、十数m先の石壁へ向けて、炎を噴くデスファイアの背を激烈に叩きつけて軋ませた。
粉々に砕ける石壁の破片が、渇いた破砕音と共に、一瞬、殺意に行き交う視線の中、ゆっくりと叙情に散っていく感覚・・・なおも嵐となって容赦なく回転する黒金の剣が、奴の肉を食い破り、壁にまで突き立てられる。
轟然と燃える炎をも灼き尽くすほど壮絶な咆哮に、そのとき空間すらが煮えた。
ずたずたに左肩の肉を引き裂かれながら、デスファイアの闘志は、萎えるどころか更に熱くたぎる。砕ける石壁に押し付けられた奴の背から暗黒の爆炎が轟烈に反撃の唸りを上げて爆ぜ、刹那、一瞬の機を衝いて生じた反動から、恐らく常人ならば即死も免れない程の前蹴りを放ち、食らいついていた俺を弾いて後方に引き離す。俺は弾かれながら中空で翻り、なお殺しきれずに残った勢いに踏み足を削るように滑らせ着地する。その折、腿に突き刺さったままの鋲の剣から、激痛と一緒に血潮が噴いて溢れた。折れそうになる姿勢を必死に起こし、俺はデスファイアを睨む。
ガラガラと崩れる石壁の破片の中から、暗黒の巨体が、ゆっくりと身を持ち上げた。左肩は無惨にも断ち裂かれ、黒い泉のように溢れ出す大量の流血を伴い不自然に腕を垂れている。殺戮の鋼鉄に骨は粉々に砕け、恐らく奴の左腕は、もう指を動かすことも出来ないだろう。奴の戦力を大きく削いだことは間違いない、と俺は思った。デスファイアはゆらりと一歩を踏み出し、苦痛に呼吸を荒げたまま暗黒の視線を伏せる。そして―――・・・
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決死の咆哮を上げながら空いている右手で左腕を掴み、強引に肉を引き千切って捨てた。
筋繊維が断ち切れていくブチブチという気味の悪い音は、俺の思考を射すくめるには十分だった。まさか、自分から腕を引き千切って捨てるなど、想像を絶する苦痛に対してさえ奴の覚悟は恐れることをしない。それは俺に畏敬すら抱かせた。
デスファイアの、狂気にも近い悲壮の笑い声が、薄闇に低く静かに散っていく。
「まるで鏡だな・・・・・・」
言葉と同時に轟と音を上げ奴の身体を包み込む、果てしない暗黒の炎。剥き出した左肩の肉を灼き焦がし、燃え上がる闇色の火焔の爛とした輝きが、俺に何かを思い出させようとする。
「ヘルファイア、俺とお前は、鏡に写った実像と虚像だ。俺が実となればお前は虚となり、お前が実となれば俺が虚となる・・・。俺はお前の<写し>・・・そして、お前は俺の<写し>だ。そう・・・この腕も―――」
奴の身を包み上げる暗黒の炎は、渦を巻きながら次第に集約し、腕の影を象って、黒く、紅く、まるで凝固していくように、奴に新たな左腕をもたらした。その光景は、俺が蜘蛛男に右腕を奪われ、この身を闇に堕とした時と全く同じものだった。
「これも、お前の<写し>だ、ヘルファイア・・・!」
息苦しく焦熱の潮流が場を支配し、かすれる呼吸の揺らぎに張りつめた緊張が戦慄き震える。ずしりと重く踏み出すデスファイアの足が、一歩ずつ俺との距離を縮め、その度に緊張の度合いは高まっていく。視線に衝突する、炎の闘志。
「この鮮烈な痛み、久しく感じることの無かった灼熱・・・! これこそが、俺が求めていた炎だ。俺が求めた燃焼だ! ヘルファイア! お前の炎は、まだ更に膨れ上がる筈だ! 燃やせ! 燃え盛る紅蓮の炎で、地獄すら灼き裂いて俺に死を視せろ!」
奴の黒い巨体が猛然と闇の爆炎を巻き上げ、同時に飛んで、身を返し高く天井を蹴り反動を用意する。背から吐き出される剛炎がデスファイアの全身を一個の黒い火の玉と化し、地に膝を突く俺めがけて直線に狙いを定めた。来る。焦熱に揺らぐ空気が、放たれようとしている必殺の一撃の波濤を皮膚を通して知らしめる。
奴の咆哮が聞こえる。どこまでも果てしない荒涼無惨な闇の底、昏く煮えたぎる痛みを感じる。それは狂奔する怒りと憎悪、そして、自らの暗黒の炎のために、干涸らびて渇き切った一握りの哀しみ・・・―――わずかに残ったその哀しみを、振り切り、捨て去るように、デスファイアの渾身の飛び蹴りは放たれた。
十字に交差した俺の両腕が蹴り足を受け止め、打点から轟爆する暗黒の火柱の透徹を何とか防ぎはしたが、両腕の骨が不気味に軋んでヒビ割れていく感覚が俺の背骨にまで響いた。踏み締めた両足を中心に石床がクレーターのように砕けへこみ、脚さえも砕ける寸前で耐え、腿に突き刺さったままの鋲の剣からは、止めどなく血が溢れ出し意識を遠のかせようとする。狂熱に踊る炎と叫び、激突する力と気迫、全ては凶暴な破壊の渦に巻き上げられ、闇の虚空へ散っていく。
俺の腕は既に限界を超えていた。骨は粉々に砕け筋肉を裂き、感覚は薄れ消えかかり、ぼんやりと、ただ炎のような激痛だけが灼々と感じられる。あとは気力だけで保たせているに過ぎなかった。そして遂に、防御は腕ごと砕け散り―――・・・
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闇色の炎の柱が、俺の左胸を背まで完全に貫いて風穴を空けた。
そのとき感じたのは、凄まじいばかりの衝撃だけだった。身体を床に叩き付け、無数に飛び散る石床の破片が音もなく舞い上がる。痛みはない。それは、まるで死神の大鎌が振り下ろされるように、静かに、冷徹に、俺の心に襲いかかってきた。
―――死。
俺の命を支えていた心臓は、デスファイアの暗黒の業火に灼かれ、塵となって消えた。俺は死を悟った。砕けて散った破片の瓦礫に仰向けに埋もれたまま、俺の身体は指一本たりとも動かせはしなかった。感覚が、消えていく。デスファイアの声が聞こえない・・・目を開けているのに、視界が、段々と暗く閉じていく。天窓を越して見上げる満月が、闇夜に蒼く煌々と照り輝いている筈なのに、俺には、すぐに視えなくなってしまった。
俺は、このまま死ぬのか・・・? 死んでいいのか・・・?
そのとき、失われて暗黒の底に沈んでいた俺の視界に、綾子の笑顔が浮かんで輝いた。綾子、綾子、綾子―――・・・あの空に光る月を、今、綾子も視ているのだろうか。病院のベッドの上で、まだ俺を信じてくれているのだろうか。俺のために、月に向かって祈りを捧げてくれているだろうか。だとしたら、俺は、綾子のために、いったい何をしてやれる・・・? 異形の闇に身を堕とした俺は、もう彼女に笑顔の輝きを与えてやれはしない。愛することも出来ない。抱きとめることも、触れることも、側にいてやることも・・・何一つとして出来はしない。だが、それでも一つだけ―――綾子の生きるこの世界を、邪悪から守ることは出来るかも知れない。そう信じたからこそ、俺は死をすら恐れることもなく、この死闘へと臨んだのではなかったか・・・?
俺は、死ぬ。
何よりも確実な死が、今、俺の目の前に、ドス黒く淀み佇んでいる。
. . .. . .. ..
―――だが、それがどうした・・・?
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その程度のことで、俺の決意が、綾子への想いが、挫けることの言い訳になるか・・・!?
俺の正義が、燃え上がる。倒れて動かなくなった俺の指が僅かに動いたかと思えば、力強く拳を握り締め、次の瞬間、全身から轟然と巻き上がる紅蓮の爆炎が、俺の身を瓦礫から起こし立ち上がらせた。正義が、燃える。襲い来る死をも凌駕し、俺の正義が灼熱に渦を巻き、天空を突き破って剛炎の柱を月へと向け、俺を炎熱の中空に浮き上がらせる。夜空を焦がし業熱する<原初の火>の中で傷口は浄化再生され、新たな炎が俺に心臓をもたらし、背から噴き上げる爆炎は、俺が今までに発したあらゆる炎よりも熱く、激しく、猛烈に燃え立ち、まるで荘厳に迸る紅蓮の翼を象るように広げられ、天を衝く火柱と相まって巨大な炎の十字となり、神聖さすらたたえ掲げられた。
俺を見上げるデスファイアの全身が、俺の炎の燦然たる輝きに照らされる。その声は、興奮の色さえ帯びていた。
「これが・・・―――これが、お前の真の力か、ヘルファイア! この力が、この炎が、この光が、遂に俺を・・・!」
言うなり、奴の全身も暗黒の剛炎に猛然と燃え、狂奔する二つの炎熱が、苛烈な潮流を巻き起こし空間に対決する。
地を蹴って飛び上がり、俺へと向け闇の塊となって直線で突進してくるデスファイア、対して、紅蓮に輝く炎の翼を大きく闇に翻し、必殺の一撃に身を構え迎え撃つヘルファイア・・・―――暗黒と紅蓮、向き合う轟炎の激突が、そこにある全てを燃やし、灼き焦がして、超常の渦に炸裂した。弾け散る光と闇の奔流に、何もかもが飲み込まれていく。
―――死闘の決着は、すべて炎の中に。
(4)
それは一瞬だった。
荒れ狂う火焔の嵐が俺と奴とを包み込み、世界の全てが炎の洪水に押し流される中、俺は、微かに逆流する記憶を感じた。痛みと、渇きと、哀しみの記憶。息の詰まるような暗黒に支配された虜囚の記憶。俺が堕ちていた、もう一人の俺の記憶・・・
<いつまで殺し続ける・・・?>
黒い腕が無惨にも人々を殺め、陵辱していた。幾つもの悲鳴と残虐な血飛沫を上げ、目の前を無数の死が過ぎ去っていく。
<いつまで目撃し続ける・・・?>
もう一人の自分によってもたらされる死は、すべて苦痛と、恐怖と、絶望に満ちていた。暴走する自分を止めることが出来ない。心が狂い、歪み、ねじ曲がり、麻痺していくのを、止められない。殺戮は、快楽。それは憎悪を満たすもの。
<ああ、渇く・・・渇く・・・・・・血によって贖われねばならない・・・罪人共の、悪意に染まった血によって・・・!>
信頼は砕かれ、正義は奪われ、愛は失われた。残されたものは、痛みだけ。生まれるものは、怒りだけ。憎悪が俺を支える。一つの死は更なる血を求める。殺し続けることでしか生きられない。しかし、こうなったのも、すべては・・・!
<俺を殺したのは誰だ・・・? 貴様等だ・・・! 殺してやる・・・俺の憎悪で、何もかも灼き尽くしてやる!>
果てしない暗黒が、思考を狂わせ、心を染め上げていく。これは裁きだ。奪われた正義は戻らない。もう戻せない。だからこそ、背徳と悪意に身を堕としてでも、この世界に報復を知らしめねばならない。俺の力で、裁かねばならない・・・!
<・・・だが、俺もまた罪人・・・・・・あまりに深い罪の償いは、何によって為されるのか・・・?>
ほんの僅かだけ死に切れなかった最後の正気が、身を切るような哀しみの悲鳴を上げる。誰にも届くことのない声は、止むことのない苦痛となって、自分だけを苛んで責め続ける。だが、もう堕ちてしまった。遅すぎた。運命を振り切ることは出来ない。
<生きることが、罪。贖う術など有りはしない。罪に相当する罰が存在しないという現実が、俺にとっての最大の罰・・・!>
世界は、贖いの叶わぬ程に深すぎる罪で溢れている。贖いとは赦免。たとえ人から赦されようと、自分の犯した罪を自ら赦すことなど、どうして出来ようか・・・? 甘えた癒しなど、死に絶えてしまえ! そんな欺瞞は、罪より重い悪でしかない!
<贖うことが叶わぬのなら・・・・・・せめて、これ以上の罪を止めることは、出来る筈だ・・・>
最後の正気を振り絞り、肉体の支配を、僅かだが取り戻す。かつて導き、一度は消えた希望は、新たな炎を宿した。俺を止められる唯一の炎、唯一の正義。真の強さに目覚めた力。悪意の暗黒に堕ちることのなかった、もう一人の俺―――・・・
<―――ヘルファイア! 死闘の中に俺を灼き、憎悪を闘志に昇華しろ・・・! 俺を、殺せ・・・!>
炎の嵐が過ぎ去り、闇が再び静寂を取り戻す頃には、立っていたのは俺だけだった。震えて崩れ折れようとする脚を叱責し、突き刺さったままの鋲の剣を、一気に引き抜いて捨てる。溢れ出す血と痛み、炎のような熱が、ついに俺の膝を砕いて地に突き立てる。落ちた俺の視線が、砕けた石片の瓦礫に横たわる黒い身体を見つけた。立ち上がり、にじるように歩み寄って、俺はデスファイアの声を聞いた。
「八坂・・・」
. .. ... .. . . . .. ..
聞こえた声は、デスファイアのものではなかった。
「俺だよ。伊達だ」
それは、俺の知っている声、知っている名前だった。あのとき確かに、俺の目の前で撃たれ、死んだ筈の―――・・・
「せ、先輩・・・!」
血を噴き痛む脚をも忘れ、俺は駆け寄り、その身体を静かに抱えて首を起こした。デスファイアの紅い仮面は半分が割れ砕けて落ち、その顔は、焼け爛れ血に染まってはいたが、間違いなく俺の知る伊達先輩だった。苦痛に喘ぎ、片目も灼け潰れている。それは正視に耐えない程ひどく痛々しい状態だったが、それでも俺は目を逸らすことが出来なかった。
「―――・・・先輩・・・どうして、こんな・・・?」
俺の疑問に、先輩の答えは、弱々しく、かすれる声で返された。痛みが、音を通じて伝わるほどの悲痛な声だった。
「・・・・・・あのとき・・・撃たれた俺は、ICUに担ぎ込まれた。そして、そこで【カウンター・ソドム】と接触した・・・。連中は既に、あらゆる場所に勢力を伸ばしていたんだ・・・病院内も、例外ではなかった。警察組織に入り込み、お前に理不尽な処置を与え闇に導き陥れようとした者達と、同じようにな・・・」
「まさか、じゃあ、あの件にも連中が絡んでいた・・・? はじめから・・・?」
「・・・・・・奴らは、俺の全てを知っていた・・・そのとき俺が、家族を盾に脅され、発覚した上司の汚職を黙認するよう迫られていたことを、知っていた。奴らは言った―――お前の信じた正義は死んだ、と。その通りだった・・・俺の正義は、もう、殺されていた」
「・・・・・・」
先輩の焦げた唇が震え、やり場のない怒りが、突き破かれた天窓から差し込む月明かりの闇に、虚しく散っていった。
「奴らは俺に選択を迫った。普通の手術ならば、命はない。このまま死ぬか、それとも復讐と裁きのための力を得るか。俺は、愚かにも迷わなかった。ただ、醜く狂った怒りと憎悪に衝き動かされ、肉体改造を受け容れ、この身を悪意の暗黒に堕とした」
デスファイアの拳が強く握られた。それは、先輩の深い苦痛と後悔を物語る。咳き込み、黒い血を吐いて、先輩は続けた。
「八坂・・・・・・すまない。お前をヘルファイアへと導いたのは、俺だ・・・。俺は、お前を、怪物に変えてしまった」
「ち、違う! それは・・・先輩のせいなんかじゃ・・・」
首を振り、俺は慌てて言った。
「俺が異形に身を堕としたのは、すべて俺の憎悪のせいだ・・・・・・先輩が、一人で抱え込むような事じゃない・・・!」
そのとき、俺の仮面の紅い目元から、ひとすじ涙が伝い、デスファイアの胸に落ちた。それを見て、先輩の焼けた貌に、ふっと優しい笑みが浮かんだのを、俺は知った。
「・・・・・・涙、か・・・―――そうか、お前は、涙を取り戻したのか・・・」
残った先輩の片目に、ひとすじ微かな輝きが流れ込み、小さく宿った。それは、異形や、怪物の目では、なかった。間違いなく人の、人間の眼差し・・・―――かつて俺が尊敬した、伊達先輩の目に、戻っていた。
「お前は、お前の正義を、お前だけの正義を見つけたんだな。俺が見失い、二度と手に入れられなかったものを、お前は、その手に掴んだんだ。どうした・・・・・・涙を拭え。そして、俺を殺せ。止めを刺すんだ。まだ泣くには早すぎる・・・すべてを終えてから、好きなだけ泣けばいい。お前には・・・やらなけれなばならない最後の闘いが、残っている」
「そんな、先輩・・・! 俺には、先輩を殺すなんて―――」
「やるんだ!」
吐血を散らすほど強い声で、先輩は俺の腕を掴み、言った。その覚悟は、もはや揺るぎなかった。
「今お前が殺さなければ、デスファイアの炎は再び揺り返し、今度は俺の正気を完全に奪う! そうなる前に俺を、せめて最後ぐらいは、人として死なせてくれ・・・! すべては手遅れなんだ・・・・・・俺は、お前のように、正義を、涙を、取り戻すことは、もう出来ない・・・俺を殺せ、八坂! 迷っている時間はない! 奴は、<ジャッジメント>は、封印の発動を―――」
言いかけたとき、建物全体を揺るがす波濤が部屋を震わせ、バラバラと砕け散った石片を落とした。俺の中のヘルファイアが、恐ろしい邪悪の胎動を感じている。生じた不吉な予感は、すぐに確信へと変わっていった。何よりも昏く深い暗黒の底で、煮えたぎる地獄の闇―――すべての元凶が、今、動き出そうとしているのを、感じる。
「この震動は・・・」
首を振り向き見回し、気配を探ろうとする俺に、先輩の声が急を告げる。
「始まったか・・・・・・もう、【ゴモラ】の発動は止められない・・・! 八坂、早くしろ・・・! 感じているだろう、奴の狂気を止められるのは、お前しかいないんだ・・・・・・行け! 早く俺を殺して、奴を―――」
「先輩、でも・・・―――うわっ!」
俺の言葉を遮って、地鳴りを伴う震動が部屋を大きく傾いで揺らがせ、砕けて崩れる石塊が雨のように降り注ぎ、俺は思わず一歩とびのいた。まだ低く重い地鳴りと石片の雨の続く薄闇の中、巻き上がる砂塵を払ってみると、そこには、巨大な石塊の下敷きになって動かなくなったデスファイアの身体が、血に染まってあった。
「・・・・・・―――ッ!」
うつむいて歯噛みし、俺は目を伏せ、深い自責と怒りとに打ち震えた。こぼれた涙が一滴、砕けた石床に落ち、弾けて散った。この涙は、俺自身の不甲斐なさだ・・・! 決断を迷うな! 痛みを恐れるな! 俺は腕で大きく涙を拭い、振り切った。もう、涙は流さない。そうだ、今は涙よりも、血を流すべき刻だ・・・!
握り締めた拳が、炎に燃え上がる。俺は振り向き、先輩に背を向けて、最後の闘いへの一歩を決然と踏み出した。
次の部屋には、闇に浮かぶ無人の玉座と、その奥に地下直通のエレベーターが設置されていた。震動に歪み、軋んだ鉄扉の隙間に手を入れ強引にこじ開けると、どうやらエレベーターは既に最下層まで降りていた。迷うことなく孔に飛び降り、途端、紅蓮の火球と身を化して高速で一直線に降下する。50mもの距離を経ただろうか、最下に留まっていたエレベーター筺の上部を一撃で透徹し、爆炎の中に轟然と着地して、ゆっくりと視線を上げ、俺は再び、決意のもとに鉄扉をこじ開けた。
そこにあったのは、まるで地下とは思えぬ巨大な空間だった。何かの建設現場か、あるいは遺跡発掘現場のような、幾重にも折り重なる鉄骨の足場が、無数に、そして複雑に入り組み、ものものしい雰囲気を醸していた。何かの金属のような青黒い壁が非常灯の赤い明かりに照らされ浮き上がり、虚無的なまでに空間の広がりを誇張する。俺は金網状の足場に躍り出て、奥に浮かび上がる巨大な培養槽を視た。薄緑色に透き通る液体で満たされた槽の大きさは縦横に40〜50mは下らない。
. ..
. .. . . . . .. .
だが、恐るべきは、その中にあったものだった。そこには、地獄が胎動していた。
異形にして巨大な肉の塊が、胎児のように頭を下に膝を抱えて、培養液の羊水の中に浮いていた。屹立すれば軽く100mを凌駕するだろう巨体は、首や背や胸部に繋がれたパイプのような管から送り込まれる何かによって鼓動を強め、その震動は凄まじく、気を抜けば足元も危うい程だった。石片や砂塵が、震動の度に舞い落ちてくる。俺は、眼前の巨大な邪悪の存在に戦慄し、闇の恐怖に震えた。こんなものが動き出せば、もはや人類に為す術はない・・・ヘルファイアには、この邪悪が人類の持ちうる最強の暴力手段である核攻撃にも怯むことなく、己の破壊衝動を満たし続ける絶対的な暴虐と殺戮の王子であることが、ひしひしと感じられていた。いや―――それも全ては現段階での話だ。これがもし、今ここにある以上に成長するものだとしたら・・・・・・地球上の主要都市を全て殲滅し終えるのに、恐らく、一週間も必要としないのではないか・・・?
まるで鬼神か仁王のように、しかめつらしく、そして阿修羅のように傲岸不遜な顔つきで、今にも閉じられた両目を開き、培養槽を打ち壊し立ち上がりそうに激しく胎動を繰り返す邪悪の王子を俺が見上げたそのとき、もう一つの巨大な邪悪が、ゆっくりと降臨してくるのを感じた。全身を頭まで深く暗黒色のローブに包み込み、闇の奥に燃え盛る二つの濃緑の眼光をギラリと凄美に走らせ、無重量であるが如く闇に浮遊するその邪悪は、鋭く片手をかざしたまま、俺の頭の中に、身体の中に、直接、重く低く鳴り響く、ざらついた山彦のような声で、荘厳に舞い降りてきた。
『・・・―――畏れよ、悔いよ、改めよ! 我が名は【審判】なり! 悪意に腐り、理不尽に狂い、背徳に汚れたこの世界に、是正の裁きを下す者! 破壊の浄化をもたらす者! 愚昧なる全ての悪よ、過てり神の子らよ! 自らの罪の深さに、嘆き、おののき、絶望に喘ぐがいい! 我が名は審判! 人を捨て猛悪と化した異形の者! この世に地獄をもたらす者! 神を殺す者!』
俺は、その存在に、言葉に出来ない息苦しさを感じた。重く肩に背にのしかかる闇色の重圧に、内臓を鷲掴みに握られているような気がした。
「・・・・・・お前が<ジャッジメント>か・・・!」
この男が、すべての<始まり>・・・・・・この男の狂気によって、俺も先輩も、憎悪のために異形へと身を堕とし、暴力の暗黒に飲まれなければならなくなった。そして今、この男たった一人の狂気によって、世界は、人知れず沈黙のうちに未曾有の危機に瀕している。何としても止めなければならない。そして止められるのは、いま、俺だけしかいない。
<ジャッジメント>は、俺の頭上から見下ろすようにして言葉を続けた。
『おおヘルファイアよ、新しき我が子よ、父なる我に牙を剥くか。正義のために戦っているつもりか・・・? 哀しきかな、愚かしきかな。しょせん正義など、罪深くも矮小なる者共が自らを正当化するために弄する小賢しき幻の理に過ぎぬというが、まだ分からんのか・・・? 正義など!信頼など!愛など! この狂える世には、はじめから存在しなかったのだ! 去ね、おぞましき偽善の牙め!害獣め! 貴様の剣刃が照らすは、正義という名の自己欺瞞に過ぎぬ! おお、道を過てり我が子よ、悲しむべき子よ、我が怒りに灼かれよ! 裁きの雷廷に裂かれよ! 死をもて罪に報いよ! 改めよ! これより我が手の下に神は死に、世界は死に絶える・・・―――手始めに、まず貴様から死を与えてくれよう、ヘルファイア』
かざした手の指先から、ほとばしる黒い稲妻が収束して放たれ、闇の雷撃となって俺の身を烈しく苛んだ。全身を八つ裂きに引き裂かれるような焦熱の苦痛は想像を絶する凄まじさで、俺は声もない悲鳴を上げ、両膝が重々しく地に落ち、狂ったように身を悶え震わせるしかなかった。砕いたガラスの破片を飲まされているような、ちょくせつ死を連想させる息苦しさが俺を全力で死の淵に誘っていた。傷口から溢れ出す流血は焼け焦げ、鎧と化した皮膚さえも薄黒く炭化し始める。
『我は裁く者、断罪の剣なり! おお、自ら偉大なる善を僭称する浅ましき者よ、嘘と不義と矛盾の王よ、神よ! 恥じよ! 貴様が作り給うた世の、果て無きまでに醜きことを知り、己が罪の深さの程を思い知れ! そして見よ! 今こそ我は反逆の闇を起動する! この世の全てを破壊する! かつて貴様が理不尽に焼き滅ぼした我が同胞、ソドムとゴモラの名に於いて―――真に焼き滅ぼされるべきは、悪なる神よ、貴様だということを、これより知らしめてくれる!』
かつてない強大な邪悪の攻撃に、俺は為す術もなく倒された。放電は止み、一瞬でプラズマ化した空気がパリパリと乾いた音を立て静まっていく。俺は死力を振り絞り、膝を突き、拳を突き立て、震えながら、俺を飲み込む闇の中に立ち上がった。
「俺の・・・」
言葉は、知らぬ間に出ていた。命が燃え、決意が燃え、そして正義が燃えていた。
「俺の正義は、いちど死んだ・・・・・・俺は、かつて信じた正義に裏切られ、献じてきた世界に殺され、捨てられた」
再び放たれた禍々しき暗黒の電撃が俺の言葉を遮り、ほとんど絶望的な殺意の潮流を浴びせかける。
『正義など幻だ! 正義など無い! なればこそ、我は悪をも超える猛悪によって世の罪を裁かねばならぬ! ひとたび起動すれば、何人にもゴモラの暴虐を止めることは叶わぬ! 地獄の蓋は開かれる! 平等なる死の裁きは、全ての悪に訪れる!』
苦痛の海に溺れるような気がした。遙かに意識が遠のいていく。ゆっくりと、静かに、確実に、迫り来る死の跫音を感じる。目は見えなくなり、皮膚は感じなくなり、何も匂わず、何も聞こえなくなり始めていた。<ジャッジメント>の悪逆なる声が、まるで砂漠の彼方から聞こえてくるように、遠く、小さく、頼りないものに感じられた。
『正義など、ただ勝者の属性に過ぎぬ!正義など、ただ愚かなる者共の偽りと傲慢に過ぎぬ! 正義など無い!正義など!』
また電撃は止み、俺は今度は立ち上がることに酷く難儀した。奴の姿が視えない。感覚が途切れかかっている。息苦しい・・・熱い・・・耐え難い痛み、耐えられない渇き、俺を苛む悪意の暗黒・・・だが俺は、それでも立ち上がる。それでも、信じる。
「・・・―――俺は、正義を失った・・・そして何も感じなくなった。感情が、壊れてしまったように・・・何も、何も感じなくなった。この世に、正義なんてものは無い。信じられるものなんて無い。そう思った。だが―――」
三度目の電撃が苛烈に俺の身を引き裂いていった。両腕と両足をはじめ、全身の肉が千切れるように悲鳴を上げ、ついに膚が、刃物で切り刻まれるようにずたずたに断ち裂かれ、黒く焦げていく血飛沫を散らせた。俺には、もう咆哮すらも無かった。まるで壊れた人形のように、手足を振るってばたつかせ、電撃に弄ばれて、捨てられ、地に身を投げるように伏せた。呼吸も止まっていたかも知れない。
. . .. . . . . .. ..
それでも、俺は立ち上がった。肺を動かし、心臓を揺り起こし、炎と燃える血を全身に巡らせて、立ち上がった。
「だが、綾子は、俺を信じると言ってくれた・・・俺は・・・俺は、応えなければならない・・・守らなければならない・・・綾子の笑顔を、優しさを、温もりを、信頼を・・・! 俺は、もう二度と、信じるものを裏切らないと誓った・・・! 俺の正義は―――」
かすれる声が、闇を裂いて響いた。そのとき俺を支えていたのは、異形と化して超越的な力を持ったヘルファイアの身体でも、決意に燃える気力でも、なかった。それは、俺の胸に燦然と輝く、綾子の笑顔だった。全身から噴き上がる紅蓮の爆炎は轟然と暗黒を砕いて走り、ゴモラの胎動に震える闇を打つ。背からは巨大な炎の翼が巻き起こり、凶暴な嵐のように、空気を潮流で薙ぎ払って灼熱に渇かせた。それは、ヘルファイア最後の闘気。残された全ての力を爆発させて、俺の命が燃えた。
剛炎が闇を焦がして渦を巻き、絶叫する電撃が闇の龍となって炎を破り裂く。
『正義こそ忌むべきもの! 正義こそが罪、正義こそが悪! ヘルファイアよ、我が子よ、貴様の正義は狂っている! 貴様の正義は壊れている! 人間の正義など、全て欺瞞と打算の上にしか成り立たぬ! そんなものは正義とは呼べぬ! そんなものは、信じるに値せぬ! 正義など幻だ! 正義など無い! 罪は裁かねばならぬ! 裁かれねばならぬ!』
<ジャッジメント>の闇の邪悪が膨れ上がり、俺の炎を飲み込むべく、その禍々しい口を大きく開いた。
「俺の正義は・・・今、俺の感じている、この正義は―――!」
炎の翼が折れ、俺を抱き、覆った。やがて俺の全身が、紅く発光し始める。何か高周波のような、耳をつんざく音が聞こえる。発しているのは、俺だった。紅い光が闇を斬り裂き、太陽のように烈しく輝いて、俺に底知れぬ力を漲らせる。それは、闇を討つ力。悪意を砕き、灼き払う、正義の炎。光が、強く拳に宿る。俺は翼を広げて高々と宙に舞い上がり、振りかぶって、かつてないほどに猛烈を極める必殺の一撃を放った。拳が、一筋の光条となり、燃える翼が唸りを上げて、俺を<ジャッジメント>に向けて轟然と突進させる。放たれる闇の電撃を弾き返し、嵐のように吹き荒ぶ暗黒の奔流を断ち裂き退け、ついに俺の拳が奴を捉えて、そのまま直線上、胎動するゴモラの培養槽の強化ガラスを叩き砕き、そしてゴモラの巨体をも串刺しに突き貫いた。剛爆する火焔が、溢れ出る培養液を蒸発させていく。<ジャッジメント>が、初めて叫びを上げた。それは最後の叫びでもあった。
『馬鹿な・・・! 有り得ぬ! 正義など・・・・・・正義など・・・ッ!』
「―――この正義は・・・この正義は、幻じゃない!」
人間の正義は、弱く、脆い。時には、挫けることだって、ある。だが、正義は、決して幻なんかじゃない。それは確かに実在するものだ。感じることの出来る力だ。そうだ・・・・・・正義とは、外から与えられて信じるものじゃない。自分の内側に感じるものだ。一握りの勇気によって目覚める炎だ。それは誰もが持っている。それぞれに一つずつ、それぞれの正義が、必ず、ある。
たとえ正義を殺され、奪われ、捨てられ、見失ったとしても・・・・・・信じてさえいれば、必ず―――・・・!
紅い光条が、巨大な邪悪を貫いた。<ジャッジメント>は身体を壁に叩き付け、クレーターのように金属壁を大きくへこませ、俺が突き立てていた拳を静かに引くと、ゆっくりと姿勢を崩し、どさりと地に伏した。振り向けば、むりやり培養槽から外に放り出されたゴモラが、のたうつように巨体を足掻き、みるみるうちに肉を腐らせ、身を崩していった。起動が早すぎたのか・・・しかし何にしろ、これで全ては終わった。<ジャッジメント>の野望は、完全に、潰えた。
剛炎の翼が消えて収まり、全身の発光も戻って、やっと俺は充足に膝を突き、血を噴く身体を休ませたかった。ヘルファイアの壮絶な死闘は、遂に終息を迎えた。身体から全ての力が抜けていくように感じた。静寂に冷えた薄闇が、心地よかった。
だが、その安息は基地の自爆を告げる無機質な警報とアナウンスによって無惨にも一瞬で引き裂かれた。低く、地の底から唸る亡者のような笑い声に振り向けば、そこには、うつぶせに倒れ込んだ<ジャッジメント>が、自爆の作動を示していた。
『ヘルファイア、貴様も道連れだ・・・! 我は死のうとも<闇>は決して死なぬ・・・<闇>ある限り、我が分身は何度でも世に現れる・・・! 世界には、まだ我ら【カウンター・ソドム】の支部が、いくつもある・・・・・・貴様の負けだ、ヘルファイア!』
悪意に満ちた嘲りの狂笑が、暗黒に吸い込まれていった。けたたましく鳴り響く警報のブザー音と赤色灯の回転が、事態が逼迫していることを急き立てる。やがて一部が爆発し、炎上を始めた。ぐらつく足場に、砕けた天井の破片が大小を問わず降り注ぐ。早く脱出せねば、さしものヘルファイアといえど、命の保証はないだろう。ましてや今、俺の身体は、疲労と失血と外傷とで、ほとんど瀕死に近いと言っても間違いではない程だ。デスファイアによって貫かれた右腿も、一向に流血の止まる気配がない。果たして無事に脱出することが出来るだろうか。いや、考えている暇はない。とにかく、足を引きずってでも脱出しなければ・・・
しかし、そのとき、俺の前に立ちふさがる影があった。流血に染まる腹を両腕で抱え、苦痛に息も絶え絶えだが、それでも、その暗黒の視線には鋭く鮮烈な闘志が生きていた。それは俺と全く同じ姿、闇色の身体に、血よりも紅い仮面の男―――
「どこへいくつもりだ・・・? この通り、俺は生きている・・・・・・まだ決着はついてはいないぞ・・・!」
「せ、先輩・・・!」
目を伏せたデスファイアの笑い声が、爆発の轟音なり響く地下層に、低く唸った。
「・・・いま俺を支え、立たせているものが、果たして、伊達慎太郎なのか、デスファイアなのか・・・・・・それは、俺にも分からない。だが、そんなことは最早どうでもいい―――【カウンター・ソドム】も、人としての過去も、もう俺には関係ない」
次の瞬間、全身から烈しく燃え上がる暗黒の剛炎。その炎は、かつての全力と比しても決して色褪せるものではなかった。
「八坂・・・いや、ヘルファイア! これが、俺とお前の運命だ。それは炎の中にしかない・・・炎の死闘の中にしか、俺もお前も、運命を見出すことはない・・・! さあ、俺と闘え! これが最後の死闘だ・・・俺達に相応しい、炎熱の闘場だ・・・!」
「・・・・・・・・・!」
灼熱に燃える紅い視線を鋭く返し、俺もまた、闇に紅蓮の炎を巻き上げた。爆炎と瓦礫に燃え落ちる死の地下層―――二つの異なる炎が、剛熱の戦士が、再び向き合い、その視線を交わした。絶望的な死と炎と破壊の支配する空間が、二人の魂の激突に果てしなく灼熱する。死闘の行方は、やがて、燃え盛る炎の中へと消えていった―――。
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