ED DOG RUN/

古めかしいハードロックのサウンドが男の狂気を駆り立てる。

殺戮の赤い野犬が血塗られた牙を剥く。

奴の目に闇の灼熱が宿る時、獲物にはもう為す術などありはしない。
悪魔の爪に脳を掻きむしられながら、暴走する死神の跫音を聞け!

MAX300km/hオーバーで吹き荒れる狂熱のクリムゾンウィンド!
超ブッチギリ痛快ロックンロールカーチェイス・・・

NOW,START THE ENGINE UP!


1.RED DOG
2.POLICE DOG
3.RACING DOG
4.CRASH
5.DEATH ALLEY DRIVER
6.HAIR TRIGGER
7.LONG LIVE ROCK’N’ROLL



 
1.RED DOG
 

 ガラガラと音を立ててシャッターが上がると、暗黒のガレージの中に一斉に光が躍り込んだ。斜めにひしゃげた光の長方形が奥へ向かって這うように伸びていき、その直線の一辺が、燃え上がるほど鮮やかな赤い金属のボディをなめていく。見るからに美しく流れるそのラインは、さながら美女の腰つき、あるいは野獣の肢体を想起させるに無理からぬ威力を持っていて、それは確かに現代の4輪の野獣とも言うことが出来た。カマロ。そう呼ばれる獣だ。

「修理のついでにオーバーホールもって話でしたから、もうビンビンに調子よくしときましたよ。いやぁ、こいつホントに大したマシンですよ、ピーキーもいいとこですけどね、へっへっへ」

 シャッターを上げる手回しハンドルを力任せに回し終えた作業服姿の職工の青年が、闇に沈んでいたガレージに今度は人気を躍り込ませた。が、物理的に足を踏み込んだのは、その隣の、いやに背の高い印象の男が先だった。野獣の飼い主。ガレージの中から見たなら、逆光に従ってシルエットのみが浮かび上がったことだろう。こじゃれた黒いジャケットの下に、襟の突き出した、やはり燃えるように赤いシャツをだらしなく着込み、右手はズボンの隠しに無造作に突っ込まれている。顔立ちは日系のそれではあったが、足の長さといい髪の波といい、その姿にはどこかシシリア系マフィアを思わせるような、しなやかな雰囲気がある。降りかかる闇のせいと鼻までかかる前髪のせいで、その目の色を伺い知ることは出来なかったが、それが恐らく乾いた黒炭のような暗黒の塊であるだろうということは容易に想像がついた。

「まあな」

 口の端を曲げて笑う。その足を踏み出す度に軽い金属音がするのは、ベルトに絡みついた銀のチェーンのせいだろうか。雑然としたガレージの中の黒く汚れた油の匂いを吸い込みながら、一歩、また一歩と歩み寄り、今にも唸り出しそうな赤いボディに軽く触れてみる。しばらくぶりだな、相棒。こみ上げる歓びが顔面から外に漏れることを、男は止めなかった。この、ラインも、ミラーも、タイヤも、そして座席も、メーターも、ハンドルも。全てが男の馴染みだった。その新車のような光沢に胸をときめかせることに迷いはなかった。
 

 特別製、右ハンドル仕様のカマロ。当然シボレー社のカタログにそんなものは載っていない。外車の象徴でもある左ハンドルに闇雲な憧憬を抱く者の多い中、しかし男は「日本で乗る分には左ハンドルなんざ意味がない」と考え、青年に言って―――正確には、挑発して―――内装をがらりと左右ひっくり返してしまったのだった。もともとあまり助手席に人を乗せることのない彼は、料金所などで身を乗り出して金を払わなければならないのが我慢ならなかったらしい。しかし、そんな理由でカマロを右ハンドルにしてしまおうと考える男も男だが、そんな理由を聞かされて興が乗ってしまう青年も青年だった。
 

「へっへっへ、お気に召して頂けました? でもね、彼女の声きいたら、もっと気に入ると思いますよ。俺もガキの頃から長いことクルマに触ってきましたけど、こいつくらいイイ音だすヤツは、そうそうなかったですね」

 職工の青年は帽子のてっぺんを片手で押さえ、もう片方でつばをつまんで被り方を調整しながらそう言って、キイを男に放ってやった。半身だけ振り向いて左手を外側に向けそれを受け取ると、すらりと長い足を運転席に滑り込ませる。バドム、とドアの閉まる心地よい低音がガレージの底から響くのを聞き、息をひとつ吐き出して、キイを差し込み、回す。途端、怒りにも似た金属の野獣の吠え声が、皮膚に、臓腑に、脳髄に、激しいキックを入れた。火花が弾けるような昂揚がみるみるうちに魂を支配する。上着のポケットから取り出したしわくちゃのキャスターの箱から一本を口で抜き取って、火を点ける。肺一杯に吸い込んだ紫色の煙は、次の呼吸で薄くなびいて吐き出された。荒々しい排気音が男の全身を包み上げる。いい気分だ。

「へへっ、どうです?」

 片足を外側に放り出す格好で腕を組んでいた職工の青年が自信ありげににやりと笑う。エンジンを掛けっぱなしで運転席を立ち、煙草をくわえたままの男の上着の内ポケットから無造作な札束が手渡されると、職工の青年は待ってましたと指を舐め、ゼロの4つ並んだ日本銀行券の枚数を数え始めた。男はキャスターを口にしたまま言う。

「上々だよ、思った以上だ。また何かあったら頼む」

「へへっ、そりゃもう、こっちからお願いしたいくらいで。おたく、いっつも支払い現ナマだからさ、こっちもやり甲斐ありますよ。ホラあの、小切手だのカードだのってのは、どうにもカネのやりとりって感じがしなくていけねえや。そう思うでしょ?」

「ああ」

 小さな笑いがもれた。男はこの青年がえらく好ましかった。腕がいいからというのも勿論だが、それ以上に、どこか憎めない、邪気のない言いぐさが話し相手を愉しませる素養に満ちている。多少、知性に欠けた節はあるが、それも彼においては魅力に変わりうると思えた。男と青年はお互い名前も知らない程度の関係だったが、それは彼らには必要のないものだったし、どちらも気にした様子ではなかったので、その関係が良好であることに違いはなかった。

「・・・? へへへ、ありがとうございます」

 一瞬表情を変えてから、青年は礼を言った。どうやら札の数が少々多めなのは自分の数え間違いではないらしい、と気が付いたからだ。正当な仕事には正当な報酬が支払われるべきだと男は考えていて、それは青年にとっては勿論、長い目で見れば男にとっても良い結果を生むとも考えていた。意味ありげな笑みを青年に投げつけ、再びシートに体を収めると、ミラーの位置を直し―――本当は整備中に既に青年が調整していたので直す必要は無かったが、多くのドライバーがそうであるように、男はこれが癖だった―――エンジンを吹かす。パワーウィンドウを下げると、青年の方から話しかけてきた。

「これからお仕事ですか?」

「ああ」

「あのう、前から思ってたんですけど、どんなお仕事で? あ、いや、こういう商売、そりゃあ、こっち方面もお相手しますんで、」

 こっち、と言いながら、青年は人差し指で頬に線を走らせて見せた。

 「お客にはあんまり干渉するなって言われてますけど、どうにも、その、おたくはそれともちょっと違うような・・・何て言うか・・・・・・」

 それを聞いた男は小さく笑って、首から上を軽く振ってから、ひとつだけ言葉を選んで、言った。

「殺し屋さ」

 青年は一瞬動きが止まって、納得したのかしないのか、恐らくはしていなかったろうが、外面だけは納得したように、半分開いた口を閉じようともせず、ほんのわずかだけ頭を縦に揺らした。聞き慣れない職業だった。あるいは聞き慣れていたとして、現実感はこの上なく乏しかった。青年の脳裏には、小林旭や赤木圭一郎が去来していた。若い割に、なかなか古風だった。

 反応を期待せずに、男はアクセルをゆっくりを踏み込んでガレージの薄暗い闇から飛び出した。青年の、頭を軽く下げるのをミラーで確認しながら、獲物を求めるように走り出す。雲の切れ間からのぞく強烈な太陽の光が、薔薇とも血ともつかない鮮赤を容赦なく照りつけ、滑る光沢を跳ね上げながらその全貌をようやく顕わにした。男は思う―――まったく、美しいという形容の他に、どうしてこいつを言い表せる?

 カーステレオにディープパープルの『MADE IN JAPAN』を突っ込むと、イアン・ギランが言った。

『...A song called "HIGHWAY STAR"...Yeah,』

 ハイウェイスターと呼ばれる歌。加速する狂気のギターディストーションが、男とカマロの感性を追い立てた。全開のパワーウィンドウから吹き込んでくる乱暴な風に暴れ出す前髪、その風に殴られ色を失って溶け消える紫煙の一線、次第に思い出すように鋭く研ぎ澄まされていく眼光は抜き身の合口のようにギラギラと妖しい光を帯びていた。自慢のイタリア製のサングラスを装着しても、なお、そのギラつきを抑えることは出来そうもない。いや、むしろ一層際立たせてさえいた。

 殺し屋と自称した男。アスファルトの大地を蹴って前のめりに突っ走る車。

 彼らにとって行き先が何処かなんてことは、どうでもいいことだった。
 



 
2.POLICE DOG
 

「馬鹿野郎、もっとスピード出さんか、戸川!」

「け、警部、街中でこれ以上は無理ですっ!」

「甘ったれんな! ぐだぐだヌカしてる間にも奴らとの差は開いてんだよ!」

「だいたい、パトカーじゃコルベットには追いつけませんよ!」

「その辺は根性で何とかしろ!」

「そんな無茶苦茶な!」

 国家権力を象徴する桜田門を実装し、規則正しく白と黒で塗り分けられたその車は、けたたましいサイレンの音と赤色回転灯の光を街じゅうにブチまけながら、しかし車内でもそれに負けないほどの怒号、喧騒が飛び交っていた。乗っている二人の男のうち、戸川と呼ばれた方は、ほとんど半泣きに近い状態で運転している。この男の運転が危なっかしいのは単にスピードのせいだけではないように警部には思えた。本当に運転免許証を携行しているかどうか、そもそも、こいつに対して発行されているかすらも怪しかったが、今はしかしそれどころではない。

 1億数千万の大金を奪って逃走中のコルベットを追えるのは、目下この巡邏中のパトカーが一番手近だったのだ。であればこそ、助手席の一人を路上に投げ捨てるように引きずり下ろしてまで無理矢理に乗り込んだというのに、まさか運転手がこんな奴だったとは・・・。警部の偶然にして大いなる誤算は、今後それが幸いするとは予想もし得ないことだったが、それはそれとして、やはり警部の心にヘビのように絡みつく疑念が、すっくと鎌首を持ち上げた。

「戸川、ちょっと聞くがな」

「い、今は話しかけないで下さいーっ!」

 戸川に余裕はなかったが、警部は彼の要求を無視した。

「おまえ、警邏課に配属になって・・・・・・いや、免許取って何年になる?」

「4月の頭に取ったばかりです!」

 およそ絶望的な回答だった。警部の表情が青ざめて凍り付く。

「って、う、うわーっ! ぶ、ぶつか・・・ああーっ!」

「馬鹿、右だ右!」

 佐川急便のトラックの後面が眼前いっぱいに広がる所を、戸川は間一髪ですり抜けた。上手くすれば、いや下手をすれば彼ら二人は、もう最低6回は死ぬか重傷かというような事態に陥り、その都度ギリギリで回避していたのだった。この戸川、どうやら悪運だけはいいらしい。それは恐らく教習所でもそうだったのだろう、そうでもなければ、こんな男が免許取得など出来るわけがない。少なくとも俺が教官なら、こいつには決して免許はやらない、警部は絶対の確信を持ってそう思った。

 当然、既に無線連絡で署からの応援を要請してはいた。してはいたが、市内ではサミットがどうこうと言って、パトカーは全て出払っているという。くそったれ、小太りのすだれハゲ共の護衛なんざ知ったことか、どうせ奴らはてめえんところの金でいくらでも護衛つけられるじゃねえか。こっちはそれどころじゃねえんだよ! 警官としてではなく、いち労働者としての毒づきは至極もっともではあった―――言葉遣いはともかくとして―――が、今も昔も役所というものは得てして権威や権力にはとことん弱い存在で、彼は本意不本意に関わらずその組織の端末の一員なのだ。歯噛みして甘んじるしかない自分の境遇を哀れに思う暇すらない。くそったれ、これが給料に見合った仕事か? 警部は、これまでにも何度か転職を考えていたが、それでも未だに警部と呼ばれる立場を続けているのは、犯罪者へのただならぬ執念からだった。

 くそったれ共! 俺だってなあ、1億数千万、欲しいんだよ畜生め! それを、てめえらみてえな、薄汚ねえ手段であっさり手に入れちまおうなんて考えのクソ野郎ばっかりが美味しい目を見るなんざ許されてたまるかってんだ! いいか、この野郎、俺はな、地獄の果てまで追っかけたって絶対に貴様ら取っ捕まえてふん縛ってやるから、覚悟しときやがれってんだ、このクソボケ共!

 警部の怒りの高まりを、突然、戸川の声が遮った。

「け、警部、俺、もう、ダメそうですーっ!」

「おい馬鹿野郎、運転中に目をつぶるな戸川ー!」

「だって・・・だって・・・・・! あーっ、ぶ、ぶつかるーっ!」

「―――ッ!」

 とりあえず、このままいくと、彼らの方が先に地獄の果てまで辿り着いてしまいそうだった。絶望のドライブは、続く。
 



 
3.RACING DOG
 

 爆音を上げながら、アスファルトを削り取らんばかりの猛烈なスピードで風を切り裂いて疾走する濃紺色に輝くコルベット。その座席では二人の若い男女が、やはり声を張り上げていた。もっともそれは怒号でも罵声でもなく、うすっぺらな歓喜と嘲りじみた笑い声だったのだが。とにかくその二人は相当にハイではあったのだ。

「はっはーっ! のろまなサツなんかにゃ俺の走りは捕まりゃしねえぜ、そうだろカズミ?」

「あはは、こんなスピードについてこれるのなんてハッキネンでもなきゃ無理〜!もう、惚れちゃうぞ、このぉ!」

 そういってカズミは助手席から左腕の肘で男を小突いた。男も合わせて品無く笑ったが、すぐに真面目な顔になって言う。

「・・・バカ、惚れ直す、だろ?」

 カズミもカズミで途端にとろんとした目つきになり、甘えるように男の肩にもたれかかると、

「ケンジ・・・あんたって、最高にいいオトコだよ・・・・・・」

 と言って、ケンジの首筋に女らしい、肉感的で厚ぼったい唇を這わせた。肌を唇と舌で吸い上げる甘ったるい音は、二人にとって自分の足音と同じくらい聞き慣れたものだった。ケンジは高速道路でもないのに100km/hをゆうに超えるスピードを出していたが、女の行為に特に迷惑する風でもなく、余裕の表情でハンドルを切る。運転の下手は奴は20km/hでも事故るが、本当に上手い奴なら200km/hでも事故らない。それが彼の考えだ。制限速度? あんなの、自転車か何かのだろ? と、いつだったか彼は言ったことがある。実際、彼と彼のコルベットはあまりに速すぎて、警察にナンバーをまともに観察させる暇すら与えてはやらなかったので、速度違反で捕まったことは一度もなかったし、勿論これからも捕まる予定はない。

 おもむろに無人の後部座席、と呼べるほど広いものではなかったが、とにかく後ろを見やり、アタッシュケースの存在を確認するケンジ。1億。このカネが、今は全部俺達二人のものだ。

「カズミ、このカネさえありゃ俺達どこへでも行けるぜ、お前の好きな所どこでもだ。どこがいい? カナダか? スイスか? しばらくモルジブあたりでバカンスってのもいいかもな」

 カズミの答えは焦れっぽい。

「もう・・・ホントは分かってるんでしょ?」

「何が?」

 男はわざととぼけた仕草をしてみせる。

「ケンジと一緒なら、どこだっていいわよ・・・・・・愛してる・・・」

 脱力したように彼の首から肩に腕を回し、カズミは、耳元に舌が触れそうなくらい近づいて、鼻にかかった声を吹きかけた。

「俺もだよ、ハニー・バニー」

 首を彼女の方に軽く傾けて、ケンジは言った。が、すぐに言った自分がおかしくなって、思わず吹き出してしまった。つられてカズミも笑い出し、二人は声を上げて笑った。カズミが、ひきつる肺を我慢しながら、なんとか感想を吐き出した。

「あははははっ、え、映画みたい! あははっ」

 この時、間違いなく彼ら二人は幸福の絶頂だった。この時の彼らに、数秒後に犯したほんの些細な過ちが、取り返しがつかない程の恐怖をもたらすことになるなどとどうしたら考え及んだだろう。彼ら二人はこの先、今日という日が人生最良の日などではなく、最低最悪、思い出すのも忌まわしい日だったということを、イヤと言うほど思い知ることになるのだった。
 

 それはほんの少しの油断、悪ノリしたカズミがあらぬ方向に手を伸ばしたせいで、ケンジのハンドリングが一瞬だけおろそかになったとき。折しも交差点は赤信号で、右手からの直進車と、彼らは、思いも寄らない凶暴な挨拶を交わしてしまう羽目になったのだ。避けきれない、と思うか思わないかのうちに、完全に減速しきらないまま、激突。瞬間、丸太で殴られたような鈍い衝撃が車内に走り、二人の胃袋を殴りつけた。先に音を上げたのはカズミの方だった。

「きゃあ! な、何? 何なのよ、もう!」

 軽い目眩に歪む顔に手を当て、かぶりを振って体の中の衝撃を外に逃がそうとする様は、濡れた犬のするそれと似ていたかも知れない。やがて彼女は眉尻を下げてケンジの表情をのぞき込む。

「クソッ、少しばかりドジったか! おいカズミ、そんな心配そうな顔すんなって。カスっただけだ、まだ全然走れるぜ!」

「ケンジぃ・・・」

「へっへっへ、きっと俺達には幸運の女神様が爆笑しながらついてまわってんだろうな!」

 ・・・彼らはまだ知らなかったのだ。今さっきぶつかったのが、この世の死神だったことを。
 



 
4.CRASH
 

(1)

 予想だにしなかった突然の衝撃に驚いたのは、何も二人だけではない。実際、事実上の被害者である彼は、激突の一瞬前まで確かに気分よく愛車を走らせていたわけだし、唐突にこうも手痛い事態に巻き込まれるなどというのは、それこそ理不尽と言うほか無かった。暗く退屈なガレージの檻からようやく抜け出してからまだ小一時間も経たないうちに、カマロの左のヘッドライトは火花と破片を八方に飛び散らせ、見るも無惨な傷跡を用意せざるをえなくなったのだ。運転席の男は、後輪の中間点と前輪の中間点とを結ぶ直線を後方に数m伸ばした地点を円の中心として、きれいに63度だけ、手荒く右方向へ転回させられた。勢い余って体をドアに叩き付けることでようやっと衝撃を押し殺す。鈍重な痛みがのしかかってくる。激突の衝撃がまだ車内のあちこちを駆け巡っているのが分かる。

 カーステレオから流れるディープパープルのサウンドが一瞬飛んで、すぐに持ち直した。男はというと、ハンドルに両手をだらりとかけてうつむいたままの姿勢で十数秒の沈黙を要した。前髪は重力に抗おうともせずに垂れ、その眼の色は闇の奥深く埋もれている。愛車に激突したと思われる車輌が慌てて逃げ去るらしい音を、彼はぼんやり聞いていた。

 しばらくして、男の肩が小さく震え始める。それはさながら噴火直前の火口の予震。折しも荒っぽいBGMが徐々に調子を上げ始め、呼応するかのように、彼の胃袋の底の底からドス黒い憤怒の渦がこみ上げてくる。やがて、男の目に入る世界の全てが真っ赤に支配され、ゆっくりと、十分な溜めを伴ってゆっくりと頭をもたげた時。

 その眼の中では、確かに地獄色の灼熱が、生け贄を求めて燃え盛っていた。

 唐突にヒステリックなホイルスピンの叫声が空気をずたずたに引き裂き、それと同時に交差点の時間は彼と彼の愛車をおいて凍り付く。野獣の足取りは猟犬のそれへと変貌し、男はアクセルを目一杯に踏み込みながら、再びキャスターをくわえ、火を探した。それは勿論、怒りを鎮めるためなどではなかった。
 

(2)

 男がうつむいている間も世界は目まぐるしく状況に変化を与えた。逃げ去るコルベット。追っていたのはパトカーか。男にとって後者は知覚の対象にすらならない。通り道にある石ころ同様、なんら意味をもちえるものではなかった。しかし当然、警部と戸川の二人にとっても、その赤い追跡者ははじめ、やはり知覚の対象外だったのだ。その存在に気が付いたのは運転席の制服姿。

「けっ、警部っ!?」

 戸川の声が裏返る。どうせまた、ろくでもないことを言うに違いないと警部は決めつけ―――確かにそれはろくでもないものだったかもしれないが―――乱暴な態度でもって、ぶっきらぼうな返事を吐き捨てた。

「何だよっ」

「いえ、なんだか、後ろからものすごいスピードで追い上げてくる車輌が・・・」

 ちらちらとミラーを確認しながら戸川が最後まで言い終わらないうち、その謎の車輌は猛然と、おおよそ信じられない速さでパトカーの右手をかすめ、爆音を従えてするりと抜き去っていった。あまりのことに二人の網膜には、鮮烈な、赤い色覚の残影だけしか残らない。目が点になるのを体験し、やがて脳にその情報が染み込み出すと、驚愕と脅威とが瞳孔の中心から銀河の外側に向かって放射され始める。阿呆のように開ききった口がその事実を物語った。戸川が台詞の続きを繋ぐ。

「車輌が・・・車輌・・・・・・に、もう、追い越されました・・・」

「なっ、何だありゃあ!? おい、あれ・・・150km/hくらい出てんじゃねえのか!?」

 警部の予想は果たしてその通りだった。時速にして164km。安全運転を心懸けているドライバーなら、高速道路でもなかなかお目にかかれたものではない速度だ。目の前を、ひょいひょいと障害物を縫うように華麗に追い抜いて、その赤い塊はすぐに見えなくなった。

 警部は有り体に言って混乱した。事件に際しての冷静な判断力の剣によって彼は警部の地位を確保していたが、今回ばかりは無理からぬ事だと自分に言い訳した。何はなくとも状況を整理する必要があったが、とりあえず警部はそれを保留して、

「何だかよく分からんが、とにかく追え!」

 かなり大雑把に適当な指示を飛ばす。もっとも、確かにそれ以外に彼らに出来ることなど有りはしなかったのだが。

「だーっ! もう、どうにでもなれーっ!」

 戸川は吹っ切れた。アクセルペダルのストロークをセーブするのをやめたのだ。彼の脳裏に女の子の顔が浮かんでいた。付き合い始めて5ヶ月になる由美子ちゃん。海辺をドライブしたいという彼女のために泣く思いをして取った運転免許証が、まさかこんな余計な災いまでも呼び込むとは。ごめんよ由美子ちゃん、俺、もう君に会えなくなるかも知れない。君の作ってくれたミネストローネスープ、めちゃくちゃ美味しかったよ、ありがとう・・・。

 戸川のもとに唐突に降って湧いた不幸は、まだまだ終わりを告げる素振りはなかった。当然のように、不運も。
 



 
5.DEATH ALLEY DRIVER
 

(1)

「ね、ねえっ、ちょっとっ!」

 カズミが、男好みのするラインを突き出す上半身をぐるりひねって後ろに向け、自慢の唇の下から緊張した声で呼びかけた。

「なんだよ、パトカーは振り切ったか?」

 希望的観測を、果たして彼女は即座に打ち消した。

「そうじゃなくて、なんかスッゴイ速い車が追っかけてきてるよ!」

 聞いたケンジは鼻で笑って、

「バカ言えよカズミ、俺のコルベットに追いつける車なんて、F1でも持ってこねえと無理ってもんだぜ?」

 と軽口を叩き、笑いながらミラーに目をやる。刹那、ケンジの笑いは石のように水気を失った。

「カッ、カマロ!?」

 左側のヘッドライトの辺りがぐにゃりひしゃげていたが、というより、それをひしゃげさせたのは他でもない彼のコルベットだったが、その流線型のフォルムは間違いなくカマロのシルエットだと認識された。薔薇の様な、あるいは、血の様な赤色の。

「・・・バカな・・・バカ言えよ、おい! 何なんだ、何なんだよ! なんで追ってきてんだよ!? くそっ、一体どうなってやがる!?」

 男が取り乱す様を女は心配顔で見守っていたが、彼女はなけなしの勇気を振り絞って男を安心させようと努力した。

「だっ、大丈夫だよケンジ、言ってたじゃん、わたしの好きなとこに連れてってくれるって。嘘じゃないよね、ケンジは嘘なんかつかないもん。えっと、それに、ケンジの運転に追いつける車なんていないよぉ。わたし達、誰にも捕まんなくて、遠くの国で一緒に暮らすんだよ、ケンジと一緒に。それで毎日好きなコトして、すっごい幸せな生活するの。わた・・・わたしと・・・ケンジ、で・・・」

 最後の方は、溢れるほど目に溜まった涙を、そして涙でくちゃくちゃになるだろう自分の顔を、彼に見せないように下を向いて、もう声にはならなかった。男は何も言わなかった。カズミがひたすら愛しく思えた。自分の方がずっと気が小さくて不安なくせに、それを表に出すまいと努めて明るく振る舞ってくれる彼女。この車内にずっと明るい雰囲気があったのは彼女のおかげだった。

 突然ケンジは片手で彼女を抱き上げて、半ば強引に舌と舌とを絡ませた。カズミがびっくりしたのは一瞬で、すぐに目を閉じ、安心して彼に身を任せる。あいにく運転中だったのでいつものような長いキスは出来なかったが、今はそれでも十分だった。

「心配すんな、カズミ」

 彼が何度目かのその台詞を言うと、高速の乗り口が近づいてきた。恐らくは最高速で勝るコルベットに好都合なサーキット。ハンドルをきつく握り直し、ここにきて初めて彼の目に本気の色が拡がった。くそったれ、何が何でも逃げ切ってやるぜ。
 

(2)

 ぶっ潰す。俺の。俺のカマロを。しかも修理から帰ってすぐの、新車同様に生まれ変わった俺のカマロの完璧すぎるボディを、こうまでひでえ傷物にしてくれやがって。野郎、ふざけるのも大概にしておきやがれ。絶対に許さねえ、ぶっ潰す!

 男の激憤の爆発は、まるで原子核分裂さながら、ほとんど無制限な連鎖反応を引き起こし続けていた。フロントガラスの向こう側、数十m先でちらつく青黒い高級車の影。あの影を八つ裂きにしてやる。それが然るべき代償だ。向こうの都合など知ったことではない。ぶっ潰す。とにかくぶっ潰す。彼の内の凶悪な暴力性が愛車本来のそれとシンクロする。エンジンは絶え間なく咆哮を上げ続け、マフラーは悪魔の炎を吐き出した。地を這う赤い弾丸はじりじりと確実に獲物との距離を縮めていく。

 前方をひた走る獲物の挙動の目的に、男は気が付いた。 高速だと・・・?逃げられるとでも思っていやがるのか。面白れえ、せいぜい足掻いて絶望を味わいやがれ。死神の不景気なツラを拝ませてやる・・・。それは果たして笑みと呼べる代物だったろうか、口元が狂気の形に歪み、いやに鋭い犬歯が姿を現した。その最も原始的な剣に刻まれていた色は、断固たる復讐の決意。

 ようやっとCDが一回りして、再びイアン・ギランがハイウェイスターの名をコールする。それを聞いて男は、

「・・・おあつらえむきだぜ」

 誰に言うでもなく言葉を洩らし、突如ハンドルを豪快に切り、手慣れた手つきでギアをいじって、後輪に悲鳴を上げさせながら車体を横滑りにドリフトさせる。高速の乗り口をぶっちぎって突っ走る二台のマシンは、新たな、そして恐らくは最終的な激闘の舞台、高架上へと向かう。容赦なくギラつく太陽が、風に命じて遮る雲を押しのけさせた。男は中指でサングラスの位置を直す。漆黒のレンズを囲む円い金ぶちの上を、光沢が妖しくなめた。
 

(3)

 空に向かって果てしなく伸びる4車線の道路。超高速で疾走する鋼鉄の狂気の塊がふたつ。車体を交互に左右にぶれさせ、その二台はタイヤ痕の黒い糸で、アスファルトに不揃いな二重螺旋の軌跡を縫いつけていく。やがて、螺旋の交差する間隔が徐々に長くなってゆき、二台の加速は絶頂に達する。ケンジは速度計に一瞬だけ目線をくれてやった。黄色い針は、「280」と数字の書かれた地点を遙かに振り切って、それ以上は正確な速度を計測することは不能だった。

 レッドゾーン。

 喉が、唇が、目が乾き、代わりに、背中と、額と、手のひらとにべったりと汗をかく。
 あごの先から鼻の頭から、大粒のしずくが滴り落ちる。
 搭乗者の躰に容赦なく叩き付けられる重力が、くまなく全身の筋肉を強張らせる。
 噛み締めた奥歯にはひびが入るかとさえ思える。
 意識していないと呼吸をするのも忘れてしまいそうになる。
 視界のあちこちでやかましく火花が散る。
 耳はもう何も聞くことができない。
 ハンドルからビリビリと伝わる強烈な震動が、いつ車体がひっくり返っても何ら不思議はないことを主張する。
 それは、1000分の1秒たりとも気を抜くことを許されない、恐怖の神が支配する地獄の領域。

 カズミは助手席で小さくなっていた。目もまともに開けていられない。肉体は震えを通り越し、あとは、そう、たとえ彼女が普段から信心のない人間だとしても、残されているのは神様に向かって「助けて」を連発するだけしかなかった。男の方はといえば、口の奥で神様の代わりに彼女の名前を繰り返していた。カズミ、カズミ、カズミ。

 明暗を分かったのは一瞬。ケンジのハンドリングが汗で滑った1cmの差を、見逃す男ではなかった。手負いの赤い野獣は牙を剥き出し、今にも噛み付きそうに前へ出る。アクセルはだいぶ前からベタ踏みだ。果たしてコルベットの左後ろに食いついて、今度はじわじわと鼻先を揃えていく。ついにカマロはコルベットを真右に捕らえた。いわゆるドア・トゥ・ドアという状況だ。その折、ケンジは異変を察知した。

 こ、こいつ・・・ッ! 気でも違ってやがるのか!?

 真紅のボディが、濃紺のそれに接触すべく、徐々に幅を寄せてきていたのだ。コルベットは右へ逃げたが、すぐに中央分離帯が彼の逃げ場を絶望的に遮った。緊張に耐えかねて、ふたつの車体で挟まれた空気がチリチリと焼け付いたように思えた。このスピードで接触だと?正気の沙汰じゃねえ!どっちも死ぬぞ、おい、やめろ!彼の絶叫をよそに、男はハンドルをゆっくりと右へ寄せる。一瞬ケンジは目だけを左にやって男の形相を見た。それは少なくとも人のものではなかったし、獣のそれでもなかった。とにかく、悪魔とか、死神とか、この世ならざる禍々しい何かに違いなかった。脳ではなく、臓腑がそれを理解した。

 鼓膜の奥にこびりつく不快な金属音がして、想像以上の衝撃が3人を直撃する。ケンジは気を失うかと思った。後輪がグリップを失って不自然に車体がぶれる。コルベットは、中央分離帯とカマロの間で、濃いオレンジ色の火花を豪快にまき散らしながら、ピンボールの玉になった。平衡が保てない。この状態でタイヤが宙に浮き上がらなかったのは、奇跡以外の何物でもなかった。グリップは失ったままだったが、しかしやがて落ち着きを取り戻しはじめ、敗北を悟ったケンジは愛車に減速を命じた。合わせてカマロも減速する。しかし減速しながらも、赤い猟犬の苛烈な攻撃衝動は少しも減じていなかった。カマロは左へ向かって一度大きく距離を取ると、次の瞬間、ハンドルが、めいっぱい右へと振り切れた。

 うそだろ・・・ケンジの口がそう動くのを、男は見たような気がする。どうでもいいことだった。男の頭には、その時、たったひとつの言葉しか存在しなかったからだ。

「くたばりやがれ!」

 激突。赤い火の玉が獲物を貫いた。とどめの一撃にしても派手すぎだった。コルベットの左のドア部は、まるで何か尋常でないもの、巨大な怪物に思い切り殴られたとでも言うようなひしゃげ方をしていた。再び激しくグリップを失い、あとは物理法則に従うがまま、大げさにぎゅるぎゅると回転しだす高級車。いや、その鉄塊には、既にその高貴な威厳も神聖な風格も、微塵たりとも備わってはいなかった。フェンスに激突してようやく運動エネルギーを使い切ったらしい、その有様はひどく惨めなものだった。

 ケンジは、今度こそ気を失っていた。
 



 
6.HAIR TRIGGER
 

(1)

 わたし、まだ生きてる・・・?

 カズミは信じられなかった。体中の感覚が、がくがくと音を立てて震えている。脳が、爪先が、しびれたように動かない。唇もやはりぶるぶると震え、あごの付け根には力が入らず、奥歯と奥歯とが、がちがちと小刻みにぶつかった。何も考えられない。寒い訳でもないのに、彼女は両手で自分の肩を抱いていた。身体の節々が金切り声を上げるように痛みを訴えていたが、見たところ特に大変な怪我はなく、恐らくは、ひどくても軽い打ち身程度ですんだらしい。そうだ、ケンジはどうしたろう? 大丈夫だよね、死んだりなんかしてないよね、ケンジ、ケンジ! ケンジがいなくなっちゃったら、わたし・・・!

 おそるおそる運転席に顔を向けると、そこにはケンジがいた。ぴくりとも動かなかった。

「ケンジ・・・? ねえ、ケンジ・・・」

 彼女の心を不安の黒雲が支配して、希望の光を遮った。まさか、まさか、そんな。嘘だよ。嘘だって言ってよ。今なら初めての嘘も許してあげるよ。ねえ。返事してよ。彼女は震える手を伸ばして彼の頭にそっと触れた。ぬるっとした感触。血だった。カズミは自分の手に着いたそれを見て卒倒しそうになった。もう、どうしていいかわからなくなって、ぼろぼろと涙がこぼれ出して止まらなかった。カズミは男に顔を近づけた。別にキスをすれば生き返ると思ったわけではなかったけれど、それさえも信じたい心境だったに違いない。ほっぺたに触ると、ケンジは温かかった。死んでいるだなんて思えなかった。

 当然だ、死んでなかったのだから。その微かな呼吸に気が付くと、彼女の顔は満開のひまわりみたいになった。彼はどこかに頭をしたたかぶっつけて脳震盪を起こしていただけだったのだ。彼女はといえば、今度はよりいっそう大粒の熱い涙がぼろぼろとこぼれ出して止まらなくなった。てのひらで拭っても拭っても、あとからあとから流れ出してきて、とうとう彼女はびしょ濡れになってしまった。ケンジが生きているというだけで、後はもう何も要らないとさえ思った。結局、彼女にとって大金を手に入れる事それ自体はどうでもいい事だったのだ。ただ、ケンジと一緒にいたかった。その為の1億だった。

 カズミは泣きながら、途中、幾度もの嗚咽と短い安堵の言葉をまじえ、彼の名前を呼び続けた。涙が止まることはなかった。
 

(2)

 目的を果たし、制止の命令を受けてついに動くのをやめた猟犬の運転席で大きく息を吐き出したのは、その激闘の勝利者だ。濃紺の塗装がまるで化け猫か何かに爪を立てられたようにボロボロに剥げ落ちた鉄塊から、彼の位置する地点は20mほど離れていた。キイをひねってエンジンに休息をくれてやり、自分も外気を吸おうとしてドアに手を掛けたが、ガチャガチャとつまらない音がするばかりで一向に開くつもりはないらしい。激突でひしゃげたせいか。やれやれだ。男の長い足がフットペダルのそばを離れ、狂暴な性質を顕わにした。聞き分けのないドアに凄まじい勢いで足蹴を見舞い、力任せにこじあける。

 車内から彼がのそりと姿を押し出した途端、額を、頬を、高架に吹き荒れる強風が激しく撫でた。

 外宇宙に向かって遮る物無く突き抜ける蒼い空を仰いで、カマロの赤色に腰をあずけ、左足はくの字、右足をまっすぐに投げだし、男は首だけで軽くうつむくと、右手で覆って風を防ぎながら、またもキャスターに火を点ける。カルチェのライターが、カキン、と耳に心地いい音を弾いて蓋を閉じた。向こうに転がっている「かつてコルベットだったもの」を見やり、ざまあみやがれ、いい気味だぜ、と男は思う。人差し指と中指との間深くに煙草を挟んで吸う仕草は、往年の映画スターを真似たものだった。

 さて、と。半分程まで吸った煙草をボードの灰皿で押し潰してから、首をぐるりと大げさに回してゴキゴキと音を出す。左手でうるさい前髪をかき上げる。サングラスの位置を直す。男は、蒼い鉄塊へ向かって悠然と歩き始めた。ばっ、と音を立てて上着の前身頃を背中の方に押しやると、吹き渡る疾風が上着全体をばたばたとはためかせる。真紅のシャツの襟も裾も、同じく風に殴られた。そのまま流れるように両手を隠しに突っ込む。アスファルトに照りつける恒星の直射光が陽炎を作り出し、歩く男の足元をゆらめかせる。カズミはその姿を目撃した。すらりと背の高い黒と赤の色覚が風になびく。それは、正しく悪魔を連想させた。

 どうしよう、どうしよう。あの男はきっとケンジにひどいことをする。彼女の直感がそう言った。

「ケンジ、起きてよねえ、ケンジってば!」

 気を失って前のめりに潰れていたケンジをシートに引っ張り戻してもたれかけさせ、カズミは、彼のシャツの襟元を両手で掴み上げて、助手席からケンジの目を覚まそうと頑張った。しばらく揺り動かすと彼は微かに唸るような声を上げはしたが、まだ意識は完全には戻っていないようだった。カズミは、ゆったりと静かに迫り来る男とケンジとを交互に見比べた。焦燥が彼女の喉元をからからに渇かせる。背中に凍り付く気配がびりびりと走り、はやくケンジを起こさなきゃと、彼の体をべらぼうに揺すり始めた。男はどんどん近づいてくる。

「ケンジ、ケンジ、ケンジぃっ!」

 遅かった。ケンジの顔に影が伸びてきて、カズミはその存在を知ることになった。ウィンドウのすぐそばに立つ黒い人影。その左手がジャケットの内側に滑り込み、次に現れたときには鋼鉄の殺意の塊を伴っていた。拳銃!カズミの、滑るような肩が恐怖でびくっと跳ね上がった。彼女の先入観が、それは人殺しの道具だと訴えた。とっさにカズミはケンジをかばうように抱きしめる。彼氏の胸に顔を埋めてぶるぶると震える女の様子を見て、外の男はサングラスの下でちょっと困った顔をした。

 ああ、何も問答無用でいきなり撃ち殺そうって訳じゃなくて、ドアが開きそうにもなかったから台尻をハンマー代わりにしようと思っただけなんだがな。と言ったところできっと彼女は信用しないだろう。じっさい男はこれまでカネにならない殺しはしなかったし、相手が汚物にも劣る下衆な悪党ならいくらでも殺したが、そうでもない者を無闇やたらと殺すことは嫌っていた。自分では誇りある殺し屋のつもりだったのだが、しかし突然に銃を目の当たりにして、男をそう判断できる人間がいるとは思えなかったのも、また事実だった。

 まあいい。男は半分だけ濃紺の塗装に背中を向けて予備動作を作り、水平に空気を真っぷたつに斬ってウィンドウを叩きつけた。蜘蛛の巣のようなひびが入る。次は、左足が前蹴りの形でぶち込まれた。粉々のガラス片が派手に飛び散り、カズミの肌はその雨にさらされた。もう悲鳴も上がらなかった。黒い腕がぬっと伸びて女をやさしく押しのけ、ケンジの胸ぐらを掴み上げると、その脱力した全身を豪快に外に引きずり出した。望まずアスファルトと激しくランデブーしたケンジは痛みに気付いて目を開く。まだ胸ぐらを掴んだままの黒い腕は彼を軽々と持ち上げ、ひるがえって、かろうじてコルベットと認識されるそれの側面、出来損ないのクレーターのようなへこみに向かってなげやりに放った。ケンジは肺が潰れる音を聞いた。かはっ、かはっ、とかすれる咳を強制され、呼吸がしばらくできなかった。

「まあ、俺も大人げねえとは思ったんだがな、人の愛車にタックルくれて挨拶もナシに逃げるってのは、さすがにどうかと思う訳なのよ。それは分かるだろ? 話こじれさせるつもりはねえから手短に言うけどな、おい、弁償くらいしてくれるよな? ・・・聞いてんのか? 返事くらいしろよ、お前」

 まだ脳の機能は完全に回復してないらしく、にじんだ視界で黒い男が話すのをぼんやり聞いていたケンジは、腹に革靴の爪先が突き刺さったのを知覚した。訳も分からず、どうしようもない恐怖と苦痛の放射能が彼の全身に降りかかる。一握りだけ残った力を振り絞って、なんとか言葉を口からこぼれ落とせた。

「何なんだ、あんた・・・何なんだよ・・・」

 それだけだった。二発目の蹴りが入って、ケンジは強引に沈黙させられた。サングラスの奥で冷たい炎がくすぶった。

「おい、俺がいつ質問していいなんて言った? 訊いてるのは俺なんだよ、お前じゃねえ。カネ持ってんのか?どうなんだよ、おい」

 怒気も顕わに、しかし淡々と、男の声は放たれた。カズミは恐怖で動けなかった。パトカーのサイレンが聞こえだしたのはその時だ。彼女にとって、ついさっきまで恐怖の対象でしかなかったその音が、今は天使の鳴らす鐘の音にも聞こえた。
 



 
7.LONG LIVE ROCK’N’ROLL
 

(1)

 問題の地点から、かなり余裕のある間隔をおいてパトカーが停まり、開け放たれたドアから壮齢の男が勢い良く躍り出た。その反対側からも青い制服を着た新米らしい男が出てきたが、こちらはどうやら、勢い良く、とは言えないようだった。

「よーし、そこまでだ!」

 壮年の男が、相当の場数を踏んだと思われるドスの利いた声を張り上げる。黒い手帳にへばりついた天下御免の桜田門を見せつけつつ、強風にはためく背広を引きずるように事故現場に駆けつける警部と、後を追うどこか情けない様子の若い警官は、戸川。ここまで辿り着く間に精神をすり減らし過ぎたらしい、小走りなのに、足取りにさっぱり生気が感じられない。ある程度まで近づいてから、警部はもう一度、声を荒げた。

「動くな、警察だっ!」

 が、言われた男は臆する様子もさらさら無く、ぐるり振り返って伸ばした手の中のブローニングハイパワーを内側に斜めに傾けながら銃口を真っ直ぐ二人に向け、さも面倒くさそうにそっくり台詞を返した。

「動くな、殺し屋だ」

 そう言うと男は、駆け寄ってくる二人の足元めがけて一発だけ9mmパラベラム弾を撃ち込んだ。瞬間、音と衝撃に驚いて二人は跳び退き、額面通り、「だるまさんがころんだ」になった。着弾点を見れば、削ったようにえぐられたアスファルトがその銃がモデルガンではないことを雄弁に物語る。二人はゆっくりと、肘を直角に曲げて手のひらを上に持っていく。高速道路上にふたつのトーテムポールが出来上がった。定めた狙いから1mmも動こうとしない銃口に怯えながら、状況が理解できず引きつり顔の若い巡査が、ゆきずりの上司に向かって声をひそめてまくしたてた。

「何なんですか、警部、一体これは何なんですか? あ、あの人、なんで銃なんか持ってるんですかー?」

「分からん! 分からんが逆らうな!」

 警部の命令は的確だった。いくら男が無闇に人を殺すのが嫌いと言っても、警察という存在はやはり面倒くさかった。いっそ殺してしまった方が後ぐされは無くて済むが、後味はあまりよろしくないだろう。まったく面倒なことだ。これというのも、足元に転がるこの兄ちゃんがもたもたしやがるからだ。胸がむかむかした。ところで、何かが男の脳をかすめた。そういやこいつ、俺より先にパトカーに追われてなかったか?何か警察に追われるような真似したのか?男は自分の過去をさっぱり棚に上げて思った。

「刑事さんよ、この男、いったい何やらかしたんだ?」

 彼は素朴な疑問をこらえなかった。この男、と言ったときに銃口をふらりとケンジに向ける。警部はあわくって答えた。

「いや、だから、そいつが大金を奪って逃走するところを我々が追ってて・・・え、なに?君、知らなかったの?」

 警部はてっきり、男も事情を知っていて、そのカネを目指してコルベットを追っていたんだと解釈していたのだ。というよりはしかし、まさか「愛車を当て逃げされた腹いせ」だけでここまでするとは、少なくとも常識的な思考を持つ警部にはそもそも思いもつかなかったに違いない。男は、警部の台詞から抜き出して繰り返した。

「大金?」

 ケンジを見たが、彼から答えは期待できそうもない。カズミを見てやった。男の視線が向けられると彼女はびくりと身震いして顔面が恐怖の色で塗りたくられた。本来ならウィンドウがあるべき場所に男は肘をかけ、腰の曲がった姿勢で女に言った。

「どこにある、それ」

 震える唇がなにがしかを言おうとしたらしいが、言葉に聞こえるような音は出てこない。カズミは後部座席に目をやるのがやっとだった。つられて見れば、そこには銀色のくすんだ光沢をじわりと放つ、頑丈そうな金属製のアタッシュケース。

「悪いけど君、それ、ちょっと取ってくれ」

 敵意のない声は、まるで友人に話しかけるようなものでカズミは肩透かしを食ったが、言われるままにするしかなかった。差し出すと、男は運転席のシートにそれを置いて、開けるように女に言った。開いて中にあったものは、間違いなく万札の束。あますところなくぎっしりと詰められていた。男は口笛を吹いた。そこから無造作にひょいひょいと三つ四つ束を抜き出して、束の一つを上から二、三枚めくり、番号不揃いなのを確認し、うなずいて、上着のポケットに放り込む。カズミは唖然とした。いや正確には、その男とケンジとを除いて、その場にいる全員が唖然とした。

 な、何なの?

 答えてくれる者はいなかった。事態が飲み込めない。しかし男は全てを無視し、てくてくと歩き出す。再び上着をなびかせながらさっさと自分の愛車に戻り、閉まりの悪いドアとしばしの格闘を繰り広げた後、聞き慣れない奇妙な爆音を轟かせ、地平の彼方に向かって真っ直ぐに走り去っていってしまった。あっという間もなく点になる赤い車。

 誰も何も言わなかった。誰も動けなかった。長い長い沈黙の水面に最初に小石を投げ込んだのは、戸川だった。

「あのう、警部?」

「・・・・・・」

「ええっと、あの・・・」

「やめとけ戸川、俺は今、話しかけられても会話を成立させる自信がねえ」

「いえあの、ほら、あの車。なんかこっちに戻ってきてませんか?」

「・・・なに?」

 戸川は目が良かった。点になったと思ったはずの傷だらけのカマロは確かにスピンターンしてこちらに向かってきていた。二人の目の前で、耳を切り裂くようなブレーキ音を響かせ停車して、ドアを乱暴に蹴破って、男は再び彼らの前に現れ、カズミのいる車の方へ歩き出した。二人がまだトーテムポールのままだったのを目にすると、男は惜しげもなく苦笑した。歩きながら、ご苦労さん、と片手を上げて声を掛ける。彼が10分前までケンジが座っていた場所に手を突っ込むと、果たして札束の山はまだそこにあった。男が言った。

「悪い、やっぱり、あと二つ三つもらってくわ」

 そこから先は、さっきとほとんど同じだった。さすがに、もう二度と彼が戻ってくることはなかったが。
 

(2)

 結局、何が何だったのか、ちっとも訳が分からなかったのだ。とにかく警部はめでたく犯人二人を逮捕できたし、1億数千万も、まあ若干は減りはしたが回収できたし、戸川も、由美子ちゃんに生きてまた会うことができたのだった。しかし、このあと警部がいくら調べたところで、殺し屋と自称したあの男に関しては、素性も、行方も、ようとして知れなかった。地平線に消えた謎の男は、あの後どうしたかといえば、まあ恐らくはカーステレオに合わせて“SMOKE ON THE WATER”でも歌いながら愛車を転がしたんだろう。その程度のことしか言えない。

 ただ、ひとつだけハッキリ言えることがあるとすれば、半日も過ぎぬ間にボコボコになって帰ってきたカマロを見て、あの職工の青年が果たしてどんな顔で男を迎えたのか、さぞ見物だったに違いない、ということだった。
 


ED DOG RUN/
DATE:99/11/14(Sun) WRITING and EDITING:Johnnie the Fire
BELONGING:[ Committee for Eating 3 Owans of MESHI with Gal games ]