5.DEATH ALLEY DRIVER
(1)
「ね、ねえっ、ちょっとっ!」
カズミが、男好みのするラインを突き出す上半身をぐるりひねって後ろに向け、自慢の唇の下から緊張した声で呼びかけた。
「なんだよ、パトカーは振り切ったか?」
希望的観測を、果たして彼女は即座に打ち消した。
「そうじゃなくて、なんかスッゴイ速い車が追っかけてきてるよ!」
聞いたケンジは鼻で笑って、
「バカ言えよカズミ、俺のコルベットに追いつける車なんて、F1でも持ってこねえと無理ってもんだぜ?」
と軽口を叩き、笑いながらミラーに目をやる。刹那、ケンジの笑いは石のように水気を失った。
「カッ、カマロ!?」
左側のヘッドライトの辺りがぐにゃりひしゃげていたが、というより、それをひしゃげさせたのは他でもない彼のコルベットだったが、その流線型のフォルムは間違いなくカマロのシルエットだと認識された。薔薇の様な、あるいは、血の様な赤色の。
「・・・バカな・・・バカ言えよ、おい! 何なんだ、何なんだよ! なんで追ってきてんだよ!? くそっ、一体どうなってやがる!?」
男が取り乱す様を女は心配顔で見守っていたが、彼女はなけなしの勇気を振り絞って男を安心させようと努力した。
「だっ、大丈夫だよケンジ、言ってたじゃん、わたしの好きなとこに連れてってくれるって。嘘じゃないよね、ケンジは嘘なんかつかないもん。えっと、それに、ケンジの運転に追いつける車なんていないよぉ。わたし達、誰にも捕まんなくて、遠くの国で一緒に暮らすんだよ、ケンジと一緒に。それで毎日好きなコトして、すっごい幸せな生活するの。わた・・・わたしと・・・ケンジ、で・・・」
最後の方は、溢れるほど目に溜まった涙を、そして涙でくちゃくちゃになるだろう自分の顔を、彼に見せないように下を向いて、もう声にはならなかった。男は何も言わなかった。カズミがひたすら愛しく思えた。自分の方がずっと気が小さくて不安なくせに、それを表に出すまいと努めて明るく振る舞ってくれる彼女。この車内にずっと明るい雰囲気があったのは彼女のおかげだった。
突然ケンジは片手で彼女を抱き上げて、半ば強引に舌と舌とを絡ませた。カズミがびっくりしたのは一瞬で、すぐに目を閉じ、安心して彼に身を任せる。あいにく運転中だったのでいつものような長いキスは出来なかったが、今はそれでも十分だった。
「心配すんな、カズミ」
彼が何度目かのその台詞を言うと、高速の乗り口が近づいてきた。恐らくは最高速で勝るコルベットに好都合なサーキット。ハンドルをきつく握り直し、ここにきて初めて彼の目に本気の色が拡がった。くそったれ、何が何でも逃げ切ってやるぜ。
(2)
ぶっ潰す。俺の。俺のカマロを。しかも修理から帰ってすぐの、新車同様に生まれ変わった俺のカマロの完璧すぎるボディを、こうまでひでえ傷物にしてくれやがって。野郎、ふざけるのも大概にしておきやがれ。絶対に許さねえ、ぶっ潰す!
男の激憤の爆発は、まるで原子核分裂さながら、ほとんど無制限な連鎖反応を引き起こし続けていた。フロントガラスの向こう側、数十m先でちらつく青黒い高級車の影。あの影を八つ裂きにしてやる。それが然るべき代償だ。向こうの都合など知ったことではない。ぶっ潰す。とにかくぶっ潰す。彼の内の凶悪な暴力性が愛車本来のそれとシンクロする。エンジンは絶え間なく咆哮を上げ続け、マフラーは悪魔の炎を吐き出した。地を這う赤い弾丸はじりじりと確実に獲物との距離を縮めていく。
前方をひた走る獲物の挙動の目的に、男は気が付いた。 高速だと・・・?逃げられるとでも思っていやがるのか。面白れえ、せいぜい足掻いて絶望を味わいやがれ。死神の不景気なツラを拝ませてやる・・・。それは果たして笑みと呼べる代物だったろうか、口元が狂気の形に歪み、いやに鋭い犬歯が姿を現した。その最も原始的な剣に刻まれていた色は、断固たる復讐の決意。
ようやっとCDが一回りして、再びイアン・ギランがハイウェイスターの名をコールする。それを聞いて男は、
「・・・おあつらえむきだぜ」
誰に言うでもなく言葉を洩らし、突如ハンドルを豪快に切り、手慣れた手つきでギアをいじって、後輪に悲鳴を上げさせながら車体を横滑りにドリフトさせる。高速の乗り口をぶっちぎって突っ走る二台のマシンは、新たな、そして恐らくは最終的な激闘の舞台、高架上へと向かう。容赦なくギラつく太陽が、風に命じて遮る雲を押しのけさせた。男は中指でサングラスの位置を直す。漆黒のレンズを囲む円い金ぶちの上を、光沢が妖しくなめた。
(3)
空に向かって果てしなく伸びる4車線の道路。超高速で疾走する鋼鉄の狂気の塊がふたつ。車体を交互に左右にぶれさせ、その二台はタイヤ痕の黒い糸で、アスファルトに不揃いな二重螺旋の軌跡を縫いつけていく。やがて、螺旋の交差する間隔が徐々に長くなってゆき、二台の加速は絶頂に達する。ケンジは速度計に一瞬だけ目線をくれてやった。黄色い針は、「280」と数字の書かれた地点を遙かに振り切って、それ以上は正確な速度を計測することは不能だった。
レッドゾーン。
喉が、唇が、目が乾き、代わりに、背中と、額と、手のひらとにべったりと汗をかく。
あごの先から鼻の頭から、大粒のしずくが滴り落ちる。
搭乗者の躰に容赦なく叩き付けられる重力が、くまなく全身の筋肉を強張らせる。
噛み締めた奥歯にはひびが入るかとさえ思える。
意識していないと呼吸をするのも忘れてしまいそうになる。
視界のあちこちでやかましく火花が散る。
耳はもう何も聞くことができない。
ハンドルからビリビリと伝わる強烈な震動が、いつ車体がひっくり返っても何ら不思議はないことを主張する。
それは、1000分の1秒たりとも気を抜くことを許されない、恐怖の神が支配する地獄の領域。
カズミは助手席で小さくなっていた。目もまともに開けていられない。肉体は震えを通り越し、あとは、そう、たとえ彼女が普段から信心のない人間だとしても、残されているのは神様に向かって「助けて」を連発するだけしかなかった。男の方はといえば、口の奥で神様の代わりに彼女の名前を繰り返していた。カズミ、カズミ、カズミ。
明暗を分かったのは一瞬。ケンジのハンドリングが汗で滑った1cmの差を、見逃す男ではなかった。手負いの赤い野獣は牙を剥き出し、今にも噛み付きそうに前へ出る。アクセルはだいぶ前からベタ踏みだ。果たしてコルベットの左後ろに食いついて、今度はじわじわと鼻先を揃えていく。ついにカマロはコルベットを真右に捕らえた。いわゆるドア・トゥ・ドアという状況だ。その折、ケンジは異変を察知した。
こ、こいつ・・・ッ! 気でも違ってやがるのか!?
真紅のボディが、濃紺のそれに接触すべく、徐々に幅を寄せてきていたのだ。コルベットは右へ逃げたが、すぐに中央分離帯が彼の逃げ場を絶望的に遮った。緊張に耐えかねて、ふたつの車体で挟まれた空気がチリチリと焼け付いたように思えた。このスピードで接触だと?正気の沙汰じゃねえ!どっちも死ぬぞ、おい、やめろ!彼の絶叫をよそに、男はハンドルをゆっくりと右へ寄せる。一瞬ケンジは目だけを左にやって男の形相を見た。それは少なくとも人のものではなかったし、獣のそれでもなかった。とにかく、悪魔とか、死神とか、この世ならざる禍々しい何かに違いなかった。脳ではなく、臓腑がそれを理解した。
鼓膜の奥にこびりつく不快な金属音がして、想像以上の衝撃が3人を直撃する。ケンジは気を失うかと思った。後輪がグリップを失って不自然に車体がぶれる。コルベットは、中央分離帯とカマロの間で、濃いオレンジ色の火花を豪快にまき散らしながら、ピンボールの玉になった。平衡が保てない。この状態でタイヤが宙に浮き上がらなかったのは、奇跡以外の何物でもなかった。グリップは失ったままだったが、しかしやがて落ち着きを取り戻しはじめ、敗北を悟ったケンジは愛車に減速を命じた。合わせてカマロも減速する。しかし減速しながらも、赤い猟犬の苛烈な攻撃衝動は少しも減じていなかった。カマロは左へ向かって一度大きく距離を取ると、次の瞬間、ハンドルが、めいっぱい右へと振り切れた。
うそだろ・・・ケンジの口がそう動くのを、男は見たような気がする。どうでもいいことだった。男の頭には、その時、たったひとつの言葉しか存在しなかったからだ。
「くたばりやがれ!」
激突。赤い火の玉が獲物を貫いた。とどめの一撃にしても派手すぎだった。コルベットの左のドア部は、まるで何か尋常でないもの、巨大な怪物に思い切り殴られたとでも言うようなひしゃげ方をしていた。再び激しくグリップを失い、あとは物理法則に従うがまま、大げさにぎゅるぎゅると回転しだす高級車。いや、その鉄塊には、既にその高貴な威厳も神聖な風格も、微塵たりとも備わってはいなかった。フェンスに激突してようやく運動エネルギーを使い切ったらしい、その有様はひどく惨めなものだった。
ケンジは、今度こそ気を失っていた。
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