六.血闘
吹き荒ぶ風に乗って雨粒が叩き付けてくる林の中で、相対する二本の刀身が向き合っていた。弥蔵の持つ忍者刀は、刃渡り一尺九寸強。反りは小さく、ほぼ直線に近い。松田の太刀の刃渡りは二尺四寸丁度で、美しく緩やかな曲線を描く業物だ。単純に得物だけで判断するならば松田に有利があるが、短い刀身ゆえの軽さから繰り出される弥蔵の太刀筋の速さは驚異的なもので、一概にどちらが上とも言えなかった。重量の一撃を躱し切れぬならば弥蔵が、神速の連撃に追いつけぬならば松田が、その刃を撃ち込まれることになる。松田は右上段に構え、弥蔵は逆手持ちで、二人とも正面から向き合ったまま円を描くように、じりじりと足で地を摺り間合いを詰めていく。闇が、薄氷のように張りつめた。永遠とも思える均衡を破ったのは弥蔵が先だった。
雷鳴を合図に低く踏み込み、逆胴を狙う小手調べの一撃を松田の剣が弾き、弾かれた作用を活かし身を独楽のように逆回転させた弥蔵の刀が地を這い松田の向こうずね目がけて斬り払われた。次の瞬間、松田の両足は地から離れて空にあった。弥蔵は大きく一歩とび退き、松田の動きを追って天を見上げた。杉の木を優々と超えて高きに舞う影を、瞬間、雷光が照らし出した。
「天狗の跳び技は健在か・・・」
呟いて、弥蔵もまた跳んだ。立ち並ぶ木の幹を交互に蹴って松田に追いつき、空中で刃を合わせて交差した。ギイン、と鋭い金属音がして火花が散り、落下してゆく松田の袴が風にバタバタと荒くはためいた。先に着地したのは、やはり弥蔵だった。遅れて松田の太刀が空から襲いかかったが、弥蔵は切っ先を見切って身を後ろに避け、そのまま闇の奥へと走り出した。
誘い込むつもりか? この俺は易々とかかりはせんぞ―――
松田も追って走り出し、二人は大きく弧を描いて、やがて並んだ。相手を見据えながら並行して疾走し、どちらも同時に手を懐に入れて手裏剣を取り出し、間に木々を挟んで、それぞれ三連ずつを撃ち合った。弥蔵は三撃とも刀で弾き落としたが、松田の太刀は片手持ちで振るには重く、間に合わず弾き損ねた一撃が袖口の片方を破り散らせて左肩に浅く喰い込んだ。とはいえ、その程度を意に介す松田ではない。二人は次第に距離を近づけ、刃が触れる位置に至って、踏み込み、同時に斬り込んだ。闇夜に再び火花が咲いた。弥蔵は、剣圧の重さに体勢を少し崩したため、二撃目は松田が先だった。逆袈裟に斬り上げる避けづらい太刀筋を、弥蔵は鋼鉄製の手甲で滑らせて凌いだ。ほんの少しでも加減を誤れば腕ごと断ち斬られていただろう。弥蔵だからこそ為せる神業だった。太刀をすかされ、がら空きになった松田の胴に、弥蔵は鋭い回し蹴りを入れて距離を稼ぐ。仰け反りながらも辛うじて振り下ろされた牽制の太刀を、横転して逃げる弥蔵。間合いは五間。二人は呼吸を直し、改めて相手の実力を評価した。
―――強い。これまでに相対した誰よりも、この者は恐ろしく強い!
松田は太刀を片手構えに切り替え、左手で脇胸の下あたりに手をやった。肋(あばら)が三本ばかり折れていた。先程の弥蔵の一撃は、見た目以上に強烈な蹴りだった。だが弥蔵には脇腹に刺し傷がある筈で、それを考えれば大した怪我ではない。松田は、構えを正眼に戻した。弥蔵も逆手持ちを改め、威嚇するように刀身を前に突き出した。この時すでに弥蔵の失血は甚だしく、もう後どれだけ動けるかも分からぬ程だったが、それでも呼吸を乱してはいなかった。
しばしの睨み合いが続いた。仕掛けたのは松田だった。真横一文字に薙ぎ払う撃ち込みから切り返しの逆一文字。当然、弥蔵は退いて避け、振り終わりを見計らって剣先の逆方向から松田の首を狙い狩りに刃を向けたが、それも予想の内の松田は首をすくめて太刀筋を逃がし、そのまま跳ね上げて弥蔵の顎に頭突きを喰らわした。強引に上を向かされた弥蔵は、視界を奪われたも同然だった。切っ先を捻って返した松田の二度目の横一文字が、弥蔵の胴を確かに捉えた。
太刀は振り抜かれた。が、手応えが一つもなかった。“夜叉霧”得意の霧隠れだ。しかし松田は首だけで振り向いてキッと左を睨み付け、その先四間の位置に、闇の中から、すうっと、半笑いの弥蔵が姿を現した。唇が切れて口内に流れ込んだ血を、唾と混ぜてぺっと吐き出し、言った。
「ほう・・・俺の霧隠れを目で追うとはな」
「見くびるなよ。この十数年で腕を上げたのは、何も貴様だけではない」
言われるまでもなく、弥蔵は見くびってなどいなかった。二人の実力はまさに伯仲していた。勝負が決するとすれば、それは恐らく紙一重の差に過ぎなかったが、しかし“死合い”には、惜敗も、辛勝も無い。ただ生き残った者のみが勝者、死に伏した者のみが敗者となる。戦うことそれ自体に、意味も価値も無い。あるのは、殺し合いという事実だけだ。
生じた間合いに呼吸を合わせ整えてから、二人は再び、ほぼ同時に斬り込んだ。今度は僅差で弥蔵の太刀が速く、まだ肘の伸び切らぬ松田の刀と刃を合わせ、互いに刃滑りして鍔迫り合いの体勢に入った。普通、鍔迫り合いとなると得物の重量が物を言うが、この場合、有利は弥蔵にあった。肘が伸び切らない松田は思うように力が出せず圧され太刀の重さを活かすことが出来なかったのだ。二人は刃を挟んで鋭く闇を裂くように睨み合い、歯噛みで顎が砕ける程に踏ん張った。その折、弥蔵が、力強く噛み締めた歯の隙間から、荒い息に交えて、強張り震える言葉を洩らした。
「九郎、ひとつ聞く・・・!」
「何だ」
「永らく気にかかっていた事だ。沙夜は、今際に言葉を残したか?」
「ああ」
「・・・・・・何と?」
松田は、せめぎ合う刃の輝きの向こうに、自分の腕の中、血塗られ震える沙夜の唇の動きを、まざまざと思い出した。
「俺と貴様と・・・二人は、自分のようには死ぬな、と」
それを聞き、弥蔵は嗤って言った。
「その言葉を守ってやることは、どうやら出来そうにもないな」
「ああ、どちらかが―――」
松田が言ってとうとう弥蔵を弾いて退かし、二人は距離を直すと、刀の柄を硬く握り直した。鍔がカチリと涼しげな音を立てた。
どちらかが―――どちらかが、死なねばならぬ!
弥蔵が跳んだ。松田も追って跳躍した。飛距離は松田の方が遙かに高い。枝を足場にして弥蔵は横へ跳び松田との距離を急速に縮め、真上から振り下ろしの一撃をくれた。松田は咄嗟に太刀を掲げて防ぐ。重みのない忍者刀の撃ち込みは意外にあっさり弾かれた。そうした空中での激しい交差が幾度か繰り返された後、弥蔵は、着地と同時にぐらりと傾いた。傷口が開いた。まだ空中に留まって落下していた松田は着地点を弥蔵の背後に定めて斬りかかった。太刀は頭蓋を砕き割る筈だった。しかし弥蔵は素早く身を転じて側面に回り込んで避け、姿勢低く松田を狙った。おのれ、演技か!松田が思う頃には弥蔵は刀を振りかぶっていた。着地を狙わせ、逆に相手の着地を狙う。忍の戦闘では常套だったが、高度を極める二人の戦いにおいては、安易であるが故に、まんまと松田の裏を掻く効果を発揮した。
弥蔵の刃が、松田雪之丞貞宗の喉笛を、一瞬のうちに食い破った。
. .. . . . . . . . .
確かにそう見えた。にもかかわらず、手応えがないのは何故だ?
弥蔵が気付いた時には、既に松田の、踏み込み、体を斜に前のめった太刀が、弥蔵の首筋に張り付くように宛(あてが)われていた。二人は微動だにしなかった。荒れ狂う風雨は、いつの間にか、さも初めから何もなかったという調子で止んでいた。濡れた闇夜が月明かりに照り、かすれる呼吸の音に空気が揺らいだ。
「―――・・・幻術か。話には聞いていたが、これが貴様が天狗と呼ばれた真の所以という訳か・・・見事なものだ」
普通、幻術の類は時をかけて練るもので、取引を持ちかける際に騙しをくらわす場合などに用いることはあっても、実戦に応用するなど、限りなく不可能に近い。それを可能にした松田の才は、確かに天狗の繰るものに違いなかった。松田は自分の視線を通じて相手の視界に訴え暗示をかけ、相手が、恐れるか望むか、どちらかの映像を数瞬だけ視せる術に長けた。その僅かな時間が、神速に決する忍の戦闘においては何よりも凶悪な武器となって牙を剥いた。いかに心を錆び付かせ精神を戸張に包む忍とはいえ、敵に止めを刺す際に死を期待しない者はない。弥蔵とて例外ではなかった。
勝敗は決した。それは二人の生死が決したことを意味した。弥蔵の腹に刀傷がなければ、僅か一瞬、踏み込みの速さで松田の先手を打ち、あるいは勝負の行方は逆転していたかも知れないが、それを言ったとしても詮無きことだった。松田は、太刀の刃よりも更に冷たく鋭い視線を滑らせ浴びせかけ、静寂の浄闇を断って訊いた。
「・・・今際に言葉を残すか?」
弥蔵は小さく目を伏せて、ひとつ息を吐いてから、言った。
「九郎、貴様は―――」
その時、弥蔵の目が、一瞬だけ、初めて会った十四の頃の目に戻ったのを、松田は知った。
「貴様は、俺のようには死ぬな」
その言葉を耳にして、松田の中で凍り付いていた筈の九郎が、熱をもって蘇りかけた。しかし、もう松田は九郎に戻ることは出来なかった。退くことのかなわぬ道。昏き血の闇の底へと死にゆく羅刹の道を、松田の歩みは膝深く進み、ただ前へ向かうしかなかった。
一人の女を巡って相対した二人。
かつては刃を並べて共に戦い生死を預けることの出来た、誰よりも信頼のおける、心を許した唯一の友。
深く視線が交わされた。風が吹き渡って木々をざわめかせた。弥蔵は、垂れ下げていた手の中の忍者刀を握り直して松田に斬りかかろうとした。無駄な足掻きであることは誰よりも弥蔵が一番よく知っていた。しかし、そうせずにはいられなかった。たとえ絶対の死を前にしようと、諦め観念するなどという道は無い。それが忍というものだった。
次の刹那、月影に照り蒼く冷たい輝きを放つ松田の太刀が鋭く引かれ、中空に弧の軌跡を残して、弥蔵の頸動脈を鮮やかに斬り裂いた。振り抜いて松田は身を返し、弥蔵に背を向けていた。弥蔵の影が力無く崩れ落ちた。呆気のないものだった。十余年の歳月を経て再び交差した二人の運命は、一刀のもとに断ち切られて途絶えた。松田は立ち居を正し、刃を斜め十字に切って刀身の血を振り払い、鞘の鯉口を押さえて、太刀を収めた。言葉はなかった。やがて、編笠を拾い上げ被りを直すと、弥蔵を振り返ることもなく闇に溶け消えて、いなくなった。
月。欠けた月。流れゆく雲間に覗く月だけが、清く白く映えていた。
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