の闇にすもの

一.天狗
二.夜叉
三.再会
四.追憶
五.対峙
六.血闘



一.天狗
 

 風もなく、ただ虫だけが啼いていた。初秋の夕刻。遠く西、たれこめる赤黒い暗雲が何度目かの低い唸りを上げた。雑木林を貫く山道の裾に転がる一尺ほどの丸石に付着した血痕を、松田雪之丞貞宗は指でなぞった。乾いていたのは血滴の表面のみで、その石には、松田の指に従い、かすれた黒い線が残った。黒紋付きの羽織に袴という武家風の出で立ちに、手甲、脚絆、編笠を身につけたこの三十がらみの男は、立ち上がって笠の位置を深く直し、全く人気のない夕闇の中を、静かに待った。すると、彼が深い呼吸を二度する間もなく、どこに潜みいたのか、気が付けば忍装束の者共が数人、霞が如く姿を現し、等間隔に松田を囲み片膝をついていた。やはり虫の啼く音のほかは何も聞こえなかった。

 松田は軽く手をかざし、抑揚のない声で下忍に短く命じた。

「まだ遠くはない。さがせ」

 下忍の一人が目だけで頷き、間を取って左右に合図する。

「散ッ!」

 声と同時に彼らの姿は再び音もなく掻き消え、その場には松田だけが残った。口元は硬く結ばれ、何事かの考えが彼の胸中を去来しているらしいことが知れた。松田は、ぽつり、という音を聞いた。笠に雨粒が落ちたのだろう。松田は右手で笠の端を押し上げ、闇に溺れかけていた夕焼けの空を見上げた。西の雲に紫電が走り、間をおいて、雷鳴が地に響く。音は遠いが、しかし確かに近づいてきている。いよいよ小雨が降り出した。と同時に、木々の葉が微かな雨音を歌い始めた。
 

 嵐―――・・・嵐になるな、弥蔵。思えば貴様と初めて会った夜も嵐だった。あの夜の事を貴様は、いまだ憶えているか?
 

 そこまで思い、松田は自分の心に迷いがあることに気が付いた。俺は、弥蔵に逃げおおせてもらいたいのではないか・・・?かつての同胞を手に掛けることを、ためらっているのではないか・・・? いいや、今の俺は松田雪之丞貞宗だ。“天狗の九郎”と呼ばれた伊賀忍残党の俺は、関ヶ原で死んだ。公儀隠密に情けは無用―――家康公が幕府をひらくに当たり、路傍に朽ちゆく運命の俺をお救い下さった相馬様に改めてそう誓ったのは、俺自身ではないか。何を迷う事がある。断ち切れ。迷いは刃を鈍らせる。今、奴は手負いだ。“夜叉霧”の二つ名で怖れられたあの弥蔵が、伏して逃げるだけで手一杯で、残した血に気を払う余裕も無い。奴を案じるなら、一思いに楽にしてやれ。それが、かつての同胞への、最後の情けというものではないか。
 

 松田は脇差の柄をきつく握り締め、改めて決意を固めようとした。笠の闇に隠れた両目から、曇りを拭い去りたかった。そうすることが出来ない理由は、単に自分の追っている賊がかつての同胞だからという事だけではなかった。迷いを断ち切れぬその真の由は、ある女の死。松田は、女の死に顔を思い出した。忘れることなど、どうして出来ようか。忌まわしき記憶の傷跡。彼にとっての永遠の罪であり、罰―――障子戸に飛沫と散った血の一滴までもが目の裏に鮮烈に蘇る。

 松田は奥歯を食いしばり、深くかぶりを沈めて一言、地を這うような低い声で呟いた。

「沙夜、すまぬ。俺は奴を斬る・・・!」

 声は小さく、雨音にかき消されたが、しかし松田の胸に強い炎を宿した。その炎は、かつての同胞への、友情でも、憎しみでもなかった。氷の刃のように冷たく鋭い輝きを放ちながら、火矢よりも熱く激しく燃え盛る、奇妙な炎。何によって自分が突き動かされているのか、松田自身もよく分からなかったが、それでも、松田は迷いを払い捨て、あるいは払い捨てたと思い込むことで自らに割り切りを付け、暗く茜色に染まる山道の奥へと足を進めていった。
 

 風はなかった。音しげく雨が降っていた。雷鳴は次第に近づき、四半刻もせずに嵐は訪れた。



二.夜叉
 

 一刻か、半日か。おびただしい失血のせいだろう、弥蔵は、自分がどれだけの間を逃げ延びているのか、時間の感覚が掴めなくなっていた。夜がまだ明けないことを考えれば、半日ということは有り得ない。しかし、もう二日も寝ずに走り続けたかの様な途方もない疲労が、彼の全身を苛んでいた。目は霞み、足が上がらない。今しがたも反吐を吐いたばかりだ。彼の左脇腹を貫いた松田の一刀は、思ったよりも深手となって弥蔵の動きの枷となった。荒く冷たく降りしきる雨と風が、情け容赦なく体温と体力を奪ってゆく。脇腹の激甚なる痛みは、いつの間にか痺れに変わっていた。感覚が薄れてきている。常人ならば百を数える前に意識を失うだろうところを、弥蔵は恐るべき気力でもって己の両脚を支えていた。
 

 “夜叉霧”弥蔵―――夜叉さながらに猛悪苛烈な殺害(せつがい)の所業と、霧に溶け込む隠れ身の妙から、男はそう呼ばれていた。彼ら伊賀の忍は、「少数にして多大なる威力を持ち、やがては天下取りの脅威となる」と畏れた信長の勢によって攻め入られ、里ごと焼き滅ぼされてその殆どが酷たらしく死に絶えた。辛くも生き残った極わずかの者達は各地に散って潜伏し、許し難き非道に対する相応の報復への機会を、握った拳から血が滴る思いで堪え忍び待ったというが、当の讐敵・信長は彼らの手の及ぶまでもなく謀殺され、彼らの怨念は行き場を失って霧散を余儀なくされた。だが、忍の技までもが霧と散った訳ではない。民草は求めずとも、時代と天地は、常に血を啜りたがって舌なめずりをしているものだ。伊賀忍残党の一部の者達は、名を変え、姿を変えて、凄腕の暗殺集団として闇の世に名を馳せた。中でも弥蔵は、とりわけ超人的な戦闘力の持ち主として引く手も数多の暗殺者であり、かつては九郎もまた同様だった。

「九郎・・・・・・あの“天狗の九郎”に、まさか、このような形で再びまみえる事になろうとはな・・・皮肉なものだ」

 木の陰に寄りかかった姿勢で自嘲気味に笑いながら、呼吸の妨げとなる苛立たしい頭巾を打ち捨てつつ、思わず独りごちていた。鼻筋の通った狐顔に浅く伸びた髭と男らしく太い眉、一重の瞼と、その下の、烈しい光を帯びる眼差しが印象的な男だった。あたりは完全に夜に支配されていた。時折、激しい雷光が一瞬だけ木々の影絵を浮かび上がらせるが、それ以外の時には視覚も聴覚も嗅覚も全く意味をなさず、特殊な訓練によって極限まで研ぎ澄まされたもうひとつ別の感覚―――存在の気配を察知する<裏眼>を持つ彼ら忍の者でなければ、一間先の様子を伺い知ることすら出来なかっただろう。それほどの闇、それほどの風雨だった。

 跫音を立てずに素早く落ち葉を踏み歩き、木の陰から陰へと死角を選んで移動する弥蔵の姿を追っ手の者達が捉えるのに、さして時は要さなかった。弥蔵から付かず離れず、十五間後ろの松の上に一人、同じく、左手は十七間の杉の陰に二人、右手にも二人。彼らの見る限り、弥蔵に自分達の位置を悟られた気配はなかった。そのままの距離を保ちつつ、弥蔵に合わせて彼らも移動する。そうしているうち、弥蔵の移動の間隔が次第に長くなってきた。さしもの“夜叉霧”も、体力の―――いや、体力はとうに限界を超えていた―――気力の限界らしい。迅速な行動が出来なくなったようだ。下忍たちは、月もない漆黒の闇の中、常人には姿影すら見えぬ距離で互いの視線を確認し合い、頷いてから、じりじりと囲むように弥蔵との間合いを詰め始めた。

 間合いが八間を切って、手裏剣の射程に入る。五人のうちで最も手裏の射撃に長ける者が懐の鉄十字に手を掛けた。位置は弥蔵の右後ろ、辰巳の方向。左肩で前のめりに樹幹に寄りかかっていた弥蔵の、ほぼ背後から、その下忍は、標的を確実に仕留めるべく、首筋、頸椎へと狙いを定めた。標的がこちらに気付いた素振りはない。殺(と)れる。闇と風雨を考慮に入れても、充分に奴の肉を裂き脈を断ち、骨を砕いて絶命たらしめられる。確実に殺れる。

 果たして鉄十字手裏剣は弥蔵めがけて一直線に放たれ、賊は血飛沫と共に腐葉土の上に倒れ伏す―――筈だった。

 しかし殺意の十字は、鞘から三寸ばかり抜かれた弥蔵の背の忍者刀によって甲高い金属音と同時に弾かれた。弥蔵は後ろ向きのままだった。下忍たちは眼前の現実に狼狽した。そんな馬鹿な・・・!この距離で、しかもこの風雨の中で、手裏剣が空を切る音を聞き分け即座に反応して防ぐ事など、可能な訳がない―――という事は、投げる前から気付かれていたというのか? 一体いつの間に? いや、驚きはそれだけではない。奴は確かに息も絶え絶えで、まともに動くことすらままならなかった筈だ。にもかかわらず、今、一瞬で刀を引き抜いた所作を、この目では捉えられなかった! あの者は、本当に手傷を負っているのか?

              . . . .   . . . . . .
 そして何より―――奴は一体、何処へ消えた?
 

 手裏剣を刀で弾いたまでは、確かに其処にいた。彼らのうち誰一人として弥蔵から目を離す者はなかったし、その恐怖の現実から離せるものではなかった。周囲の風雨は激烈なものだったが、如何なる状況をも想定して訓練を積んできた彼らが、一度捉えた標的を見失うなど、そう易々とは有り得ない。しかし今、まさに雷光が瞬く間に、弥蔵の姿は其処から、まるで霧のように失せていた。この際になって初めて、彼らは“夜叉霧”の二つ名の後ろ半分に思い当たった。そしてすぐに、先の半分にも自らの死をもって思い当たることになった。

 彼らが必死に辺りを見回しても無駄だった。弥蔵は既に一人の背に影となってぴたりとへばりつき、その後ろから腕を伸ばし、左手でこめかみ、右手で口を覆いながら顎を押さえ、力強く時計回りに捻って、音もなく首の骨をへし折った。それに気付いた下忍の一人が、ちょうど弥蔵の真正面から、姿勢を低く高速で踏み込んできて、両手に持ったクナイで、左右から、鈍い角度で振り上げ斬りかかる。弥蔵は前に跳んで彼の頭を越え、空中、最小限の動きで身を翻して着地、クナイを振り終えて隙だらけの背に向け、鞘走らせて抜いた刀を右袈裟に振り下ろした。刀身が背骨を叩き割った手応えが弥蔵の芯まで響く。

 弥蔵の、想像を絶する程に鋭い動きは少なくとも怪我人のそれではなかった。下忍達は、およそ信じられぬ事ではあったが、弥蔵が手負いであると考えるのを止めた。

 忍の戦闘に余韻は無い。間髪入れずに更にもう一人が、抜き身の忍者刀の柄に左手を添え、えぐり込むように下突きに、空から襲いかかった。弥蔵は瞬時に踏み込みの後足を軸に身体を真横巻きに刀を引き、その撃ち込み点をかわす。下忍の切っ先は弥蔵の肉ではなく、その下にあった泥土を貫いた。弥蔵は身体を巻いた反動を使って剣勢を生み、ゼンマイのように弾けて、地面に刃を突き立ていた下忍の喉笛を、文字通り突き破った。跳ね飛ばされた馘は石のようにゴロリと転がって木の根に当たり、次の雷光がその凄絶な死に顔を浮き上がらせる頃には、真上に向かって黒い血潮を噴き上げる本体が、どさりと音を立てて倒れ落ちた。

 手練れの三人が寸陰の間に殺られたからといって臆する様な者に、忍を名乗る資格などない。忍とは皆、心の死んだ者たち。ただ刃にのみ心を預ける者たち。敵の強弱は問題ではない。死ぬ覚悟は、とうに仕上がっている。残りの二人は、猛然と、左右から同時に弥蔵へ躍りかかった。両斜めから振り下ろされる二筋の剣撃に挟まれ、逃げ場はない。確かに捉えた。しかし彼らが手にしたのは骨肉を破砕した鈍い衝撃ではなく、金属が激しくかち合った鋭い痺れだった。弥蔵が、また消えて失せた。弥蔵のいた空を素通りして、二人の刀が火花を散らしただけだった。弥蔵は、どうやってすり抜けたのか、右から襲い来た方の真横に並んで立っていて、次の刹那、その下忍が弥蔵の方を振り向くことは百万年待ったとしても永遠に出来なくなった。というのは、水平に走った神速の鋼鉄が、彼の馘を一瞬で叩き落としてしまったからだ。

 弥蔵は仁王立ちのまま、刀を握った右手を外側に伸ばしきった姿勢で最後の一人を低く睨み付けた。声もなく斬りかかる敵の刀を、二撃、三撃と柳のようにすらり身を揺らして避け、目をつむり、気を溜めてから、踏み込むと同時に閉じた目を見開き、下忍の心の臓を一突きに刺し貫いた。肋骨を何本か砕き折った感触が、手の内に確かな死を伝えた。貫かれた背からは血煙が噴き出し、弥蔵の手にも、刃渡りを伝って、ちたちたと血が流れて落ちた。弥蔵は刃をねじ込んで肉をえぐり、その死を更に確実なものにしてから、身を返し一気に刀を引き抜いた。支えを失った下忍の死体が前のめりに崩れ、両膝を突き、上体が地に沈んだ。
 

 弥蔵に表情はなかった。ただ眼の中で、烈しい光が、爛々と、凍った炎を巻いていた。

 返り血。降りしきる雨にも劣らぬ程の、大量の返り血。その姿は、まさしく夜叉そのものだった。



三.再会
 

 弥蔵の左脇腹の傷口は、もちろん塞がってなどいなかった。いくらサラシできつく抑えておいたと言っても、立ち回りの間、大きく、速く、激しく、動けば動く程ひどく出血し続けた筈だった。それでも弥蔵が無傷の折と変わらぬ全力で戦えたのは、ただ尋常ならざる精神力によってのみだった。弥蔵には、何としても死に倒れることの出来ない強い理由があった。それは、一人の女の死に深く関わる由。女の名は沙夜といった。天女と見まごうばかりに美しい女だった。
 

 弥蔵は刃こぼれして使い物にならなくなった忍者刀を捨て払い、確か最初に首を折った者が抜刀しなかった(させなかった)ことを思い出し、その死体を探し当て、刀を鞘ごと奪い取った。これで終いではない―――奴が、九郎がまだだ。どうせ今の戦闘も始終を見物していたに相違ない。弥蔵は今度は鞘の方を捨て、立ったまま、刀をだらりと垂れ下げ、雷雨の雑木林を見上げて声を上げ、かつての同胞に呼びかけた。彼の身体は今や、ただ大声を発しただけでも激甚な痛みが止めどなく溢れ出すまでになっていたが、外側だけは顔色も変えずに平然と振る舞った。敵に弱みを曝すなど、忍に限らずとも兵法として下の下だ。

「いつまで隠れているつもりだ、九郎! “天狗の九郎”よ! 姿を現せ!」

 豪雨の闇夜に、力強い声が響いた。しばしの間が過ぎ、一度、閃光に遅れて雷鳴が轟き落ちてから、弥蔵の背後、六間ほどの距離に、不意に男の声がした。

「その名で俺を呼んでくれるな・・・」

 かつてより幾分か老けはしたようだが、聞き覚えのある声だった。弥蔵が振り向くと、武家姿の人影が闇の中にぼんやりと立っていた。時折、蒼い稲光が瞬間だけ男を照らし出す。弥蔵は、にっと笑って、風の噂に聞いていた九郎の経緯を思い出した。脇腹の傷口が疼いた。二刻ほど前、唐突に隠れの宿に踏み込んできた公儀隠密の者によって受けた傷。あの時、姿を見ただけでは分からなかったが、太刀筋は間違いなく貴様のものだった。俺に刀傷を負わせられる者など、戦の失せた今の世では貴様以外にそうそういるものではない―――

「そうか・・・・・・九郎、貴様、伊賀者としての名を捨て、松田家の嫡男とすり替わったそうだな」

「捨てたのではない。死んだのだ。“天狗の九郎”は、関ヶ原の戦場で野に朽ちて死んだ」

 二人は互いに向き合った。紫電の一閃が、姿を、顔(かんばせ)を、まざまざと照らし出した。弥蔵の右手から垂れる刀の刃紋が、冷たく凍り付いた蒼白い光をギラリと放った。松田はまだ抜刀してはいなかったが、いつでも居合いに臨める用意はあった。二人は構えを置かなかった。動こうとしなかった。その様子は、まるで何かを確認し合っているようにも見えた。先に松田が口を開いた。

「―――・・・久しいな、弥蔵。十数年振りか」

 弥蔵は目を伏せて小さく笑った。

「思い出さんか? 貴様と出会うた夜も、こんな嵐だったろう」

「・・・俺も先刻、そのことを思い出していたところだ」



四.追憶
 

 二人が初めて顔を合わせたのは文禄元年、やはり初秋の晩のことだった。当時、二人は数えで十四―――忍としては充分に戦力となる歳だった。時は太閤秀吉の世。朝鮮出兵を良策としない一部の者達が重役の暗殺を企て、二人もその計画に参加した。談合は夜半過ぎ、人気のない山小屋で行われた。火は熾さなかった。野分(のわき)が、立て付けの悪い戸をガタガタと揺さぶる音を、今でも思い出すことが出来る。浄闇の中ぼそぼそと交わされる数人の男達の言葉。その時から二人は互いを意識していた。原因は、やはり一人の女。沙夜もその場に居合わせていた。二人より三つ年上のくノ一だった。

 仕事の後、生き残った二人は、それぞれ沙夜と寝た。互いにその事実は知らず、沙夜だけがそれを胸の内に秘めた。二人にとっては初めての女だった。たとえ唯の錯覚に過ぎなかったとしても、沙夜に対して特別な感情を抱いたことは、自然な成り行きだった。二人は沙夜を愛し、沙夜は二人を愛した。三人は、その後も何かと仕事を共にし、関係はそのまま九年続いた。九郎も弥蔵も、気付かぬ訳はなかったが、敢えて口にすることをしなかったのは、最大の好敵であり最も信頼のおける仲間との奇妙な絆に亀裂が入ることを恐れたからに他ならなかった。

 しかし関係の終わりは唐突に訪れた。沙夜が死んだのだ。九郎はその現場にいち早く駆けつけた。破れた襖に無数の血点が飛び散っていた。血に染まった沙夜を抱き上げ、九郎は今際の言葉を聞いた。心を殺し、人を捨て、ただ忍として生き、とうの昔に枯らした筈の涙が、頬を伝って、沙夜の白い手に落ちた。弥蔵は遅れてやって来た。九郎の胸ぐらを掴み上げ、烈火のように吠えた。拳が唸って九郎を激しく打ちつけた。拳からも血が流れ滴った。やがて弥蔵は、度し難い感情に震える背を向けその場から去り、それきり二人が会うことはなかった。

 弥蔵はその後、それまで以上に苛烈に暗殺の仕事をこなし続けたが、九郎は姿を見せなくなった。まる一年というもの、何をする当てもなく、ただ彷徨った。しかし世は、九郎の忍としての能力を打ち捨て放っておく由もなかった。時は慶長五年―――栄華を誇った秀吉は既に病に倒れ、それによって地位の浮上した家康と、五奉行の一人であった石田三成との対立が表面化し始めていた。石田勢が盟主に立てられた毛利輝元は、来るべき関ヶ原での決戦に向けて九郎に目を付け、金を積み、雇い入れようとした。九郎は沙夜の死以来、戦い殺すことに言い知れぬ深い迷いを覚えていたが、この時、申し出を受け容れた。自らを再び死地に置き身体と心とを激しく苛むことで、一時とはいえ苦悩から逃れられるのではないか。そう思った。

 そして、関ヶ原で九郎は死んだ。

 戦うことに迷い恐れのある者が生き残れる戦場など、ありはしない。身体には幾本もの矢が突き刺さり、目に流れ込んだ血によって赤く汚れた視界の中で、九郎は自らの死を悟った。死。苦悩から逃れるには最良の手だとも思えた。沙夜の待つ地獄へ行こうと目をつむろうとした折、視界に、忍装束の黒い足袋が舞い降りてきた。九郎は震える首を上げ、男を視た。胸には目立たぬ黒で葵の紋が象ってあった。徳川の手の者。九郎は男に向かって、かすれた小声で、死体に何用か、と訊ねた。男はしばし九郎をまじまじと見つめてから自らを相馬と名乗り、冷たい視線に乗せて言葉を続けた。

 貴様、“天狗の九郎”だな。噂は儂も聞き及んでおる。手短に用向きだけ申そう―――儂の下につけ。

 この男は何を言っているんだ、と、初め九郎は思った。相馬が言うには、この戦を分け目に天下は徳川のものになり世は大きく変わる、そのためには一人でも多くの裏方、つまり忍が必要だ、とのことだった。何を馬鹿な、と九郎は答えた。金で流れる雇われの忍とはいえ、そう易々と仕える主を変えるものではない。今の今まで敵として相対していた者ともなれば尚更だ。

 しかし相馬は言った―――世は変わる。絶え間なき戦乱は終焉を迎え入れ、時は、泰平の世へと歩みを進めるだろう。戦によって搾取され、踏みにじられ、殺され、犯され、為す術も無く、ただ小屋の隅で震えながら堪え忍ぶしか出来なんだ民草の哀れな姿を、貴様とて嫌と言うほど目にしてきた筈だ。その民草が心底より求めた平安が、今ようやく訪れる。そして、我が主・家康公こそが其れを成し得る唯一のお方なのだ。公に仕えよとは言わぬ。儂の下につけ。貴様の類い希なる殺しの技は、ただ人に不幸と哀しみをもたらすだけか? そうではない。使い方次第によって、民草の明日を救い希望を創り上げる為に役立てる事が出来る筈だ。選ぶがいい。ここで朽ち果てるか、儂と共に新たなる泰平の世の礎を成すか。頼みはせぬ。貴様の好きにしろ。

 相馬は、若き九郎の眼の中の迷いを見て取っていた。彼の言葉は巧みで、九郎を大いに揺さぶった。自分はこのまま、戦いに迷い、恐れ、何とも知れず死ぬことで目の前の現実から逃げ出してよいものか? そんな自分を、先に待つ沙夜は果たして赦すか? 答えは否だ! 俺は贖わねばならぬ。犯した罪を。沙夜を救えなんだ己の弱さを。九郎は、力の失せていた手を泥土ごと強く握り締め、徳川の忍頭に向け、決然と答えて言った。

 俺の技が、真に人を救うに活きるなら・・・・・・俺は貴方に仕えよう―――



五.対峙
 

 九郎が相馬に誓いを立てた日から十二年が過ぎた。慶長十七年初秋、二人の伊賀忍は、出会いから二十年の数奇な運命を経て再び嵐の闇夜に対峙していた。静かな殺意が、交差する互いの視線を通して行き交った。

 弥蔵は、改めて松田に問い質した。

「聞こう、九郎よ。何故こうも手の込んだ真似をしてまで我らを裏切り、公儀隠密に就いた?」

 九郎が松田雪之丞貞宗とすり替わったのは相馬の下について間もなくのことだった。九郎の名は既に知られていた為に、もし派手に動き始めれば直ぐにでも注目を集めてしまい何かと動きづらいだろうと思われたので、関ヶ原で死んだとした方が都合が良かった。その折、ちょうど九郎と年格好の似た松田家の嫡男に、相馬は目を付けた。彼と彼の親族を、賊による謀殺に偽装して密かに殺め、九郎とすり替え幕府に登用させたのだ。名も地位もあり怪しまれぬ立場というのは内偵に大いに役立った。

「俺は・・・沙夜が死んで気付いた。日々無道な殺戮に明け暮れることが、ひどく虚しくなった。そんな折、相馬様は、生きる頼りを失っていた俺に新時代の礎を成す為に動くという目的を与えて下さった。ここにかつての伊賀忍“天狗の九郎”はいない。今この場には、松田雪之丞貞宗という名の新たな俺が、これまでに犯した赦されざる罪、どう贖おうと贖いきれぬ罪を、死ぬまで贖い続けるべくいるだけだ!」

「・・・・・・」

 弥蔵は聞いても表情を変えず、押し黙ったままだった。松田は地に伏した下忍たちの死体に一瞥をくれ、弥蔵に言った。

「教えてくれ、弥蔵。貴様はこうして、戦うために戦い、殺すために殺し、積み上げた死山血河の果てに何を視る?」

 弥蔵は軽く首を振り、短く答えた。

「何も」

 続きを待つ松田に応えて弥蔵は、しばししてから言葉を繋いだ。

「ただ、果てしなく昏き血の闇があるだけだ。しょせん俺達は其処の住人さ。他に居場所などない。そうだろう」

「違う!」

 松田は声を荒げて否定した。閃く雷光が二人の貌を照らし上げた。

「公儀隠密の動きは全て世の平定の為―――なおも混乱に狂う世に、法と秩序をもたらす為にある!ただ金で雇われ、時代の流れの後先も考えずに殺すだけの貴様とは、志が違う! 俺は、貴様とは違うぞ!」

 聞いた弥蔵は、松田の愚かさを嘲るかのように低く笑い出し、では、と問うた。

「では貴様は、その崇高な志の為に何人を殺した?」

 松田は言われて言葉を飲んだ。この十二年で公儀として手を掛けた者の数は、計り知れなかった。家康の命を狙う者、重役の失墜を期して謀(はかりごと)を巡らす者、私怨による復讐に刺客を向ける者・・・中には、政治的な理由などから、どうしても殺めねばならぬ女子供もいた。松田は、しかし正義の為にと自らに言い聞かせ、情けを殺して刀を振った。そのような事は一度や二度ではなかった。弥蔵の言葉は尚も松田をなじり続けた。

「世の平定に必要だったから殺した?そうではないさ。徳川家にとって邪魔だから消したのだろう! いいか九郎よ。どう言い方を違えようと、俺も貴様も、血に溺れもがく者に変わりない。貴様はその相馬とかいう男の口車に乗せられたに過ぎぬ。九郎よ、貴様は公儀は世の為、人々の正義の為と思い込んでいるようだが、その実は、いいように利用されるだけの幕府の犬さ。俺には、捨てられて死に瀕した野良犬が新たに飼い主を得て、尻尾を振って血泥に汚れている様にしか見えぬぞ」

「違う・・・―――我ら公儀は世を乱す邪を粛正し、民に真の平和と安寧を、夜に怯えることのない世をもたらす為に・・・」

「そして俺を殺すというのか!沙夜を殺した者共のように!」

 弥蔵の声が突然、大きく怒りを放って響き渡った。

「何時の世も権力を持つ者が民を苦しめ殺してゆく!家康が世を変え、真の平和と安寧をもたらすだと?馬鹿を言え!家康とて権力により民を殺す無道に過ぎぬではないか!俺は、沙夜を殺した権力を赦さぬ!力を持つ者がいるが故に、力を持たぬ者が死にゆくしかないというのなら・・・・・・ならば俺はこの身を夜叉と成し、その手に権力を握る者を一人残らず殺し尽くしてくれる!」

 風雨は衰える兆しも無かった。空には稲妻が幾度となく走り、二人の影を明滅させた。弥蔵は手にした忍者刀を逆手に持ち直し、松田に向け、刃を下に、真っ直ぐ腕を突き出し、激しく強い口調で言った。

「抜け、九郎!」

 松田は目を伏せてから、編笠を取り払って捨て、太刀の柄を握り、腰を沈めた。鞘から抜かれ、ゆっくりとその身を曝した太刀の血も凍る冷酷な輝きに、松田の貌が映り込んだ。刀身が鞘を走る色の無い音がした。

 二人の対峙する底なしに深い闇に、雷鳴が不気味に轟いた。



六.血闘
 

 吹き荒ぶ風に乗って雨粒が叩き付けてくる林の中で、相対する二本の刀身が向き合っていた。弥蔵の持つ忍者刀は、刃渡り一尺九寸強。反りは小さく、ほぼ直線に近い。松田の太刀の刃渡りは二尺四寸丁度で、美しく緩やかな曲線を描く業物だ。単純に得物だけで判断するならば松田に有利があるが、短い刀身ゆえの軽さから繰り出される弥蔵の太刀筋の速さは驚異的なもので、一概にどちらが上とも言えなかった。重量の一撃を躱し切れぬならば弥蔵が、神速の連撃に追いつけぬならば松田が、その刃を撃ち込まれることになる。松田は右上段に構え、弥蔵は逆手持ちで、二人とも正面から向き合ったまま円を描くように、じりじりと足で地を摺り間合いを詰めていく。闇が、薄氷のように張りつめた。永遠とも思える均衡を破ったのは弥蔵が先だった。

 雷鳴を合図に低く踏み込み、逆胴を狙う小手調べの一撃を松田の剣が弾き、弾かれた作用を活かし身を独楽のように逆回転させた弥蔵の刀が地を這い松田の向こうずね目がけて斬り払われた。次の瞬間、松田の両足は地から離れて空にあった。弥蔵は大きく一歩とび退き、松田の動きを追って天を見上げた。杉の木を優々と超えて高きに舞う影を、瞬間、雷光が照らし出した。

「天狗の跳び技は健在か・・・」

 呟いて、弥蔵もまた跳んだ。立ち並ぶ木の幹を交互に蹴って松田に追いつき、空中で刃を合わせて交差した。ギイン、と鋭い金属音がして火花が散り、落下してゆく松田の袴が風にバタバタと荒くはためいた。先に着地したのは、やはり弥蔵だった。遅れて松田の太刀が空から襲いかかったが、弥蔵は切っ先を見切って身を後ろに避け、そのまま闇の奥へと走り出した。

 誘い込むつもりか? この俺は易々とかかりはせんぞ―――

 松田も追って走り出し、二人は大きく弧を描いて、やがて並んだ。相手を見据えながら並行して疾走し、どちらも同時に手を懐に入れて手裏剣を取り出し、間に木々を挟んで、それぞれ三連ずつを撃ち合った。弥蔵は三撃とも刀で弾き落としたが、松田の太刀は片手持ちで振るには重く、間に合わず弾き損ねた一撃が袖口の片方を破り散らせて左肩に浅く喰い込んだ。とはいえ、その程度を意に介す松田ではない。二人は次第に距離を近づけ、刃が触れる位置に至って、踏み込み、同時に斬り込んだ。闇夜に再び火花が咲いた。弥蔵は、剣圧の重さに体勢を少し崩したため、二撃目は松田が先だった。逆袈裟に斬り上げる避けづらい太刀筋を、弥蔵は鋼鉄製の手甲で滑らせて凌いだ。ほんの少しでも加減を誤れば腕ごと断ち斬られていただろう。弥蔵だからこそ為せる神業だった。太刀をすかされ、がら空きになった松田の胴に、弥蔵は鋭い回し蹴りを入れて距離を稼ぐ。仰け反りながらも辛うじて振り下ろされた牽制の太刀を、横転して逃げる弥蔵。間合いは五間。二人は呼吸を直し、改めて相手の実力を評価した。
 

 ―――強い。これまでに相対した誰よりも、この者は恐ろしく強い!
 

 松田は太刀を片手構えに切り替え、左手で脇胸の下あたりに手をやった。肋(あばら)が三本ばかり折れていた。先程の弥蔵の一撃は、見た目以上に強烈な蹴りだった。だが弥蔵には脇腹に刺し傷がある筈で、それを考えれば大した怪我ではない。松田は、構えを正眼に戻した。弥蔵も逆手持ちを改め、威嚇するように刀身を前に突き出した。この時すでに弥蔵の失血は甚だしく、もう後どれだけ動けるかも分からぬ程だったが、それでも呼吸を乱してはいなかった。

 しばしの睨み合いが続いた。仕掛けたのは松田だった。真横一文字に薙ぎ払う撃ち込みから切り返しの逆一文字。当然、弥蔵は退いて避け、振り終わりを見計らって剣先の逆方向から松田の首を狙い狩りに刃を向けたが、それも予想の内の松田は首をすくめて太刀筋を逃がし、そのまま跳ね上げて弥蔵の顎に頭突きを喰らわした。強引に上を向かされた弥蔵は、視界を奪われたも同然だった。切っ先を捻って返した松田の二度目の横一文字が、弥蔵の胴を確かに捉えた。

 太刀は振り抜かれた。が、手応えが一つもなかった。“夜叉霧”得意の霧隠れだ。しかし松田は首だけで振り向いてキッと左を睨み付け、その先四間の位置に、闇の中から、すうっと、半笑いの弥蔵が姿を現した。唇が切れて口内に流れ込んだ血を、唾と混ぜてぺっと吐き出し、言った。

「ほう・・・俺の霧隠れを目で追うとはな」

「見くびるなよ。この十数年で腕を上げたのは、何も貴様だけではない」

 言われるまでもなく、弥蔵は見くびってなどいなかった。二人の実力はまさに伯仲していた。勝負が決するとすれば、それは恐らく紙一重の差に過ぎなかったが、しかし“死合い”には、惜敗も、辛勝も無い。ただ生き残った者のみが勝者、死に伏した者のみが敗者となる。戦うことそれ自体に、意味も価値も無い。あるのは、殺し合いという事実だけだ。

 生じた間合いに呼吸を合わせ整えてから、二人は再び、ほぼ同時に斬り込んだ。今度は僅差で弥蔵の太刀が速く、まだ肘の伸び切らぬ松田の刀と刃を合わせ、互いに刃滑りして鍔迫り合いの体勢に入った。普通、鍔迫り合いとなると得物の重量が物を言うが、この場合、有利は弥蔵にあった。肘が伸び切らない松田は思うように力が出せず圧され太刀の重さを活かすことが出来なかったのだ。二人は刃を挟んで鋭く闇を裂くように睨み合い、歯噛みで顎が砕ける程に踏ん張った。その折、弥蔵が、力強く噛み締めた歯の隙間から、荒い息に交えて、強張り震える言葉を洩らした。

「九郎、ひとつ聞く・・・!」

「何だ」

「永らく気にかかっていた事だ。沙夜は、今際に言葉を残したか?」

「ああ」

「・・・・・・何と?」

 松田は、せめぎ合う刃の輝きの向こうに、自分の腕の中、血塗られ震える沙夜の唇の動きを、まざまざと思い出した。

「俺と貴様と・・・二人は、自分のようには死ぬな、と」

 それを聞き、弥蔵は嗤って言った。

「その言葉を守ってやることは、どうやら出来そうにもないな」

「ああ、どちらかが―――」

 松田が言ってとうとう弥蔵を弾いて退かし、二人は距離を直すと、刀の柄を硬く握り直した。鍔がカチリと涼しげな音を立てた。
 

 どちらかが―――どちらかが、死なねばならぬ!
 

 弥蔵が跳んだ。松田も追って跳躍した。飛距離は松田の方が遙かに高い。枝を足場にして弥蔵は横へ跳び松田との距離を急速に縮め、真上から振り下ろしの一撃をくれた。松田は咄嗟に太刀を掲げて防ぐ。重みのない忍者刀の撃ち込みは意外にあっさり弾かれた。そうした空中での激しい交差が幾度か繰り返された後、弥蔵は、着地と同時にぐらりと傾いた。傷口が開いた。まだ空中に留まって落下していた松田は着地点を弥蔵の背後に定めて斬りかかった。太刀は頭蓋を砕き割る筈だった。しかし弥蔵は素早く身を転じて側面に回り込んで避け、姿勢低く松田を狙った。おのれ、演技か!松田が思う頃には弥蔵は刀を振りかぶっていた。着地を狙わせ、逆に相手の着地を狙う。忍の戦闘では常套だったが、高度を極める二人の戦いにおいては、安易であるが故に、まんまと松田の裏を掻く効果を発揮した。

 弥蔵の刃が、松田雪之丞貞宗の喉笛を、一瞬のうちに食い破った。

                        . .. . . . . . . . .
 確かにそう見えた。にもかかわらず、手応えがないのは何故だ?
 

 弥蔵が気付いた時には、既に松田の、踏み込み、体を斜に前のめった太刀が、弥蔵の首筋に張り付くように宛(あてが)われていた。二人は微動だにしなかった。荒れ狂う風雨は、いつの間にか、さも初めから何もなかったという調子で止んでいた。濡れた闇夜が月明かりに照り、かすれる呼吸の音に空気が揺らいだ。

「―――・・・幻術か。話には聞いていたが、これが貴様が天狗と呼ばれた真の所以という訳か・・・見事なものだ」

 普通、幻術の類は時をかけて練るもので、取引を持ちかける際に騙しをくらわす場合などに用いることはあっても、実戦に応用するなど、限りなく不可能に近い。それを可能にした松田の才は、確かに天狗の繰るものに違いなかった。松田は自分の視線を通じて相手の視界に訴え暗示をかけ、相手が、恐れるか望むか、どちらかの映像を数瞬だけ視せる術に長けた。その僅かな時間が、神速に決する忍の戦闘においては何よりも凶悪な武器となって牙を剥いた。いかに心を錆び付かせ精神を戸張に包む忍とはいえ、敵に止めを刺す際に死を期待しない者はない。弥蔵とて例外ではなかった。

 勝敗は決した。それは二人の生死が決したことを意味した。弥蔵の腹に刀傷がなければ、僅か一瞬、踏み込みの速さで松田の先手を打ち、あるいは勝負の行方は逆転していたかも知れないが、それを言ったとしても詮無きことだった。松田は、太刀の刃よりも更に冷たく鋭い視線を滑らせ浴びせかけ、静寂の浄闇を断って訊いた。

「・・・今際に言葉を残すか?」

 弥蔵は小さく目を伏せて、ひとつ息を吐いてから、言った。

「九郎、貴様は―――」

 その時、弥蔵の目が、一瞬だけ、初めて会った十四の頃の目に戻ったのを、松田は知った。

「貴様は、俺のようには死ぬな」

 その言葉を耳にして、松田の中で凍り付いていた筈の九郎が、熱をもって蘇りかけた。しかし、もう松田は九郎に戻ることは出来なかった。退くことのかなわぬ道。昏き血の闇の底へと死にゆく羅刹の道を、松田の歩みは膝深く進み、ただ前へ向かうしかなかった。
 

 一人の女を巡って相対した二人。

 かつては刃を並べて共に戦い生死を預けることの出来た、誰よりも信頼のおける、心を許した唯一の友。
 

 深く視線が交わされた。風が吹き渡って木々をざわめかせた。弥蔵は、垂れ下げていた手の中の忍者刀を握り直して松田に斬りかかろうとした。無駄な足掻きであることは誰よりも弥蔵が一番よく知っていた。しかし、そうせずにはいられなかった。たとえ絶対の死を前にしようと、諦め観念するなどという道は無い。それが忍というものだった。

 次の刹那、月影に照り蒼く冷たい輝きを放つ松田の太刀が鋭く引かれ、中空に弧の軌跡を残して、弥蔵の頸動脈を鮮やかに斬り裂いた。振り抜いて松田は身を返し、弥蔵に背を向けていた。弥蔵の影が力無く崩れ落ちた。呆気のないものだった。十余年の歳月を経て再び交差した二人の運命は、一刀のもとに断ち切られて途絶えた。松田は立ち居を正し、刃を斜め十字に切って刀身の血を振り払い、鞘の鯉口を押さえて、太刀を収めた。言葉はなかった。やがて、編笠を拾い上げ被りを直すと、弥蔵を振り返ることもなく闇に溶け消えて、いなくなった。
 

 月。欠けた月。流れゆく雲間に覗く月だけが、清く白く映えていた。
 


の闇にすもの
DATE:00/02/27(Sun) WRITING and EDITING:Johnnie the Fire
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