魔法少女 ストレガソニア(1)
−大怪獣空中決戦−

1.魔法少女、大地に立つ
2.魔女のゆかいななかまたち
3.そのトイレ掃除中につき
4.存在の耐えられない軽さ
5.振り返れば魔女がいる
6.大怪獣空中決戦
7.200本以下の煙草
8.彼女について彼が知っている二、三の事柄



1.魔法少女、大地に立つ
 

 西暦2015年。東京、日本橋。

 バベルの塔さながらに太陽を目指し突き立てられた超高層ビル群は反射光に目映く輝き、十字に交差した横断歩道を進むスーツ姿の人々は足早に過ぎ去ってゆく。止まることなく流れ続ける人の大河の中にあって、しかしその少女は両の足をしっかと踏みしめ、これでもかと背筋を伸ばし腕を組んでいた。

 まだあどけなさを残す口元に似つかわしくない不敵な笑みを浮かべ、目の端の軽く吊り上がった猫目は熱い妖気に彩られた野望の光をはらむ。長すぎない睫毛、高すぎない鼻梁、赤すぎない頬色。プラスチック製の赤いボール飾りがふたつ付いたゴムで頭の両脇にまとめ上げられた緑なす黒髪は濡れたカラスの艶をたたえて、吹き荒ぶビル風にバタバタと煽られてもなお美しさを失いはしない。膝まで覆って余りある黒いソックスが瑞々しいふくらはぎのラインを強調し、胸の前で結んだ大きな黄色いリボンが黒系で統一された服の上に浮かび上がる。肩の部分の膨らんだ、カジュアルなドレス調のその服の袖には五茫星の彫られた銅製ボタンが縦にふたつずつ、また、同じく黒色のスカートの丈は膝上13.5cm。下に着たブラウスの白い襟と裏返った袖の部分、年代物のナイキのエアマックスと胸のリボン、それから、肌の露出する顔と手と太股の一部を除いて、彼女はほとんど真っ黒だった。

 背中に背負ったコンパクトな革製の四角い鞄は相当使い込まれた色合いを帯び、それに斜めにくくりつけられた1.5m程の棒状の包みの下からは麦わら状の細い何かがごっそりと束になってはみ出していて、一目見ればそれがホウキであるらしいということは分かる。が、ただのホウキではない。もちろん普通に掃除に使う事もできるが、彼女にとってのそれの主な用途とは、またがって空を飛ぶ事だ。

 魔女、というものが、かつてヨーロッパにはいたそうだが、実は彼女がその魔女なのである。服装を黒でまとめているのもそのためだ。魔女は黒い服を着る。イタリアはフィレンツェに中世より昔から代々続く由緒正しい魔女(Strega)の家系に生まれ育った彼女は、小さい頃からそう教え込まれてきていたので、今やそのことに関して疑いを持つことすらない。ホウキを持っているのも同じ理由からだった。
 

 立ち並ぶビルの中でもとりわけ頭ひとつ飛び抜けた影を鋭く睨め上げ、少女は桜色の唇を静かに開いた。

「あれね、テスタロッサ」

「・・・・・・」

 彼女の右後ろに付き従って頭を垂れていたその犬も、やはり、全身が真っ黒い。テスタロッサと呼ばれたその犬は少女と目を合わせようとはせず、頭を垂れたまま沈黙を守り通そうとした。そんな小さな抵抗が無意味なことは、誰よりも彼が一番よく知っている。案の定テスタロッサの顔の前に突き出た形のいい口は、ぐるり振り返った少女の左手で鷲掴みに掴まれた。

「返事くらいしたらどうなのよ、ええ?」

「むぐぐ・・・す、すいま・・・・・・」

 口をむんずと掴まれていては返事など出来よう筈もないが、少女は当然それを承知で言うのだからタチが悪い。

「大体ねえ、魔女の使い魔って言ったら普通ネコかカラスかヘビでしょうが。なのに、なんであんたは犬なのよ?わたしは本当は可愛いネコを使い魔にしたかったのよ、わかる?それなのにお母様ったら勝手にあんたを連れてきて、この子は6400匹に1匹の逸材だわーとか何とか言って、その日のうちに<専属使い魔契約>の儀式までしちゃってさ。ちょっとテスタロッサ、聞いてるの?聞いてるなら返事しなさいって言ってるのよ。使い魔にとって主人は絶対なんでしょ、テ〜ス〜タ〜ロ〜ッサ〜!」

 掴んだ左手をぶんぶんと上下に振ってそう言う彼女の目の奥には嗜虐の炎がちろちろと舌を出している。涙目で耳を伏せ哀願の意を訴えるテスタロッサの態度は、いつものことだが、彼女に更なる嗜虐の愉しみを与えるに過ぎない。ただ、彼女はひどく気まぐれで、今回はテスタロッサいじめもすぐ飽きたらしい、さっさと手を離してくれた。反動でテスタロッサは情けなく尻を地についてしまって、それから彼は再び、権力者の暴政に対してささやかなレジスタンスを試みた。

「そう言われましても、ソニアお嬢様、俺が犬に生まれついたのは何も俺のせいじゃ・・・」

「ふうん、口答えするんだ?」

 抗議の声を最後まで聞くことなく、小悪魔的な見下ろし型の視線で少女は問いかけた。問いかけと言ってもほとんど脅迫に近かったが、言われてテスタロッサはびくっと黒い肩を跳ね上げ、飛び上がって器用に前足を振って見せ、反抗の意思のないことを大慌てで表明する。

「いやいやいや、そっ、そおいう訳では、あの、全然ないんですけどっ!」

 少女は同じ姿勢を保ったままで、今度は疑いの眼差しを送りつけた。テスタロッサが汗をかけるとしたら、この時きっと首筋の後ろ辺りを伝う嫌な汗をかいたに違いない。答えを待つ静寂の時間が異常に長く感じられ、ようやく少女は口を開く。

「まあ、いいわ。今日はこんなとこで油売ってる暇は無いんだから。さっさと行くわよ」

 主人の思いもかけず優しい言葉に安堵し、テスタロッサはつい気を抜いてしまった。

「へ〜い」

 全くやる気を込めずに返事を返す使い魔に気付いて、じろりと睨みを利かせる少女。テスタロッサは、しまった、という顔を引きつらせ、そのまま数瞬だけ時間が止まる。二秒後、少女の怒りが炸裂した。右手の指をパチンと鳴らすと、テスタロッサの首輪から蒼い電撃の閃光が放たれて、同時に犬特有の甲高い悲鳴が上がる。ひっくり返り、ぶすぶすと黒い煙をくすぶらせる彼の腹に軽く足を乗っけてぐりぐりと踏みつけ、改めて主従の関係を再認識させながら、ソニアはぴしゃりと言って聞かせた。

「返事はハッキリ<はい>か<イエッサー>のどっちかだって言ってあるでしょ?」

「・・・す、すいません、お嬢様・・・」

「ったくもう。ほら、いい加減バカやってないで仕事に取りかかるわよっ」

「い、イエッサー」

 返事を聞き届けるなりソニアはうなずき、くるりとひるがえって目指すビルの入り口へ向け大股で歩き出した。世界に名だたる帝友グループ本社ビル。彼女が勝手にライバルだと思い込んでいる多国籍大企業だ。・・・ということは、そう、彼女も零細ながら会社を一つ持っているのである。その企業内容は、まあ追って説明するとして、とにかく彼女、ソニア・ペトラルカ15歳は、野望に燃える若き女社長だったのだ。その力強い足取りには遙か遠く地平の彼方を見据えた確かな決意がみなぎっていた。
 

 と、不意に彼女はぴたりと立ち止まり、右手の親指と人差し指で作ったL字を整ったあごの前へと持っていき、少しうつむいて考え込み始めた。いつにない真面目な顔つきで思案する主人を不審に思ったテスタロッサは前に回り込み、見上げておずおずと問うてみる。

「どうしたんです、お嬢様?」

「テスタロッサ」

「はい?何です?」

「・・・やっぱり、返事は<アイアイサー>か<アラホラサッサ>の方がいいかしらね?」

「・・・・・・」

 知るか、そんなことっ! と彼は喉まで出かかったが、それを口にすることはどうしても出来なかった。



2.魔女のゆかいななかまたち
 

 21世紀初頭、以前から深刻なエネルギー枯渇に悩まされていた人類は、各国各機関において無限のエネルギーを手に入れるべく超伝導技術実用化の研究開発に心血を注いでいたが、権威的研究者の相次ぐ死去や、事故、災害等、諸処の事情により一般実用化の目処は半世紀からの遅れがほぼ確定的となっており、多くの者を落胆させていた。折しも化石燃料資源も次第に底を尽き始め、世界は未曾有のエネルギー危機に見舞われるかと思われた。

 が、2007年にドイツの民俗学者ケーリッヒ・ヨーゼフ・アルトリンゲンによる『魔法物理学概論』が、数々の科学的検証に基づく現象、作用の報告例と共に発表されると、これまで余りにも不確定要素が多すぎ科学としての研究対象に上がることすらなかったオカルト分野が急速に脚光を浴び始めた。魔法エネルギーは、公害を生まないクリーンな、そして何より無制限のエネルギーであり、人類が求める<次代の資源>たりえたのである。これにより人類は更なる安定と飛躍を約束され、21世紀は正に夢を実現させる世紀として華々しいスタートを切ったと言える。

 ・・・とはいえ、やはり魔法エネルギーが広く民衆に知られ始めてからまだ8年足らず、オカルトは所詮オカルトとして信用しない者も少なくない。実際それでも原子力発電は続けられているし、化石燃料も掘り起こされ続けている。無限のエネルギーを手に入れて喜んだのは社会の天井の方であって、一般民衆に強力な実感を伴って驚きをもたらしたとは言えないのだった。確かに新聞やテレビのニュースでもそういった報道がされてはいたが、魔法ブームと知るや否や雨後の竹の子の様にこぞって現れた自称魔法使いの中には今まで通りのインチキも多く混じっていたりして、やはり一度植え付けられた認識はそう簡単に覆ったりはしないものだった。人間、全部が全部、大きな変化に即座に対応していける訳ではない。これまでの数々のメディア革新がそうだったように、また、恐らくは産業革命にしてもそうだったに違いないのだから、あまり深く考えても仕方ない。魔法に関して言えば、2015年現在の時点でもやはり珍しがられる類のものだった。勿論、逆に言えばまだまだ開拓の余地が山ほど残されている分野でもあり、産業界においてもこれからの成長が最も期待される業種であるのだった。
 

 この春で大学新卒の安田真一22歳が【ペトラルカウィッチクラフト総合サービス】に入社を決定したのも、大まかなところはそんな理由からだった。と言っても、最終的に決め手になったのは「採用試験がここしか受からなかったから」だったのだが。

 その日、目覚まし時計の電池切れを理由にいつもより遅れて出社した安田は、諦めて素直に謝ろうと決意してドアノブに手を掛けた。こういう場合、陰気な顔で病症を装ったりするよりも、元気良く謝ってしまい勢いで押し勝つ方が得策である事を、彼は経験から知っていた。ノブを回し、バンッ、という大きな音と共にドアを押し開け、開口一番に大きく謝る。

「すいません、遅刻しましたっ! ・・・・・・あれ?社長は?」

 並べられた机の上が、いくつかの端末のモニタと、雑誌や書類の山と、そのほか、何かまじないに使う物だろうという以外は皆目見当も付かないものとでカオスを形成する雑然とした雰囲気のそのオフィスには、彼の先輩が二人、所在なさそうに自分のデスクの前の椅子に座っているだけで、社長の姿は見当たらなかった。社長は、その余りにも社長的でない容姿からも、場にいれば気付かないことなどまずあり得ない存在感の持ち主なので、安田はオフィスに踏み入って1秒で彼女の不在を知った。中空に投げられた彼の質問はしばらく解答者を得なかったが、退屈を持て余していた先輩の一人がその役を買って出た。

「社長なら日本橋よ」

 白い肌の上に映えるルビー色の唇に煙草をくわえてファッション雑誌を眺めていた経理担当の迫水博子は、フレームレスの眼鏡の奥で、切れ長の目の中の瞳だけを後輩に向け短く答えた。線のほっそりとした美しいラインを描く顎まではらりとかかる長い前髪をかき上げる仕草から、彼女の物憂げな人柄の片鱗が伺い知れる。聞いて安田が問い返す。

「日本橋?何だってまた」

 そんなところに、と言おうとして、彼は社長のこれまでの行動から割り出し、漠然と恐ろしい考えばかりが思い浮かんで表情を曇らせた。迫水はギシッと音を立てて背もたれに体重をあずけてから、平坦な調子で唇を動かし続きを繋ぐ。

「さぁ? でもきっと、また何かしでかすつもりなんだろうとは思うけどね、彼女」

 それを受け、机の上で頬杖をついていたもう一人の先輩が会話に参加する。

「そういや、例のバカでかい壺で作ってた怪しいのが、ようやく完成したとか何とか言ってたなー」

 投げやりな話し口の加藤は営業担当の26歳。茶色い髪にパーマを当てた、同性の安田から見ても顔の良いホスト風の出で立ちで、見た通りそのまま、私生活での女癖はそうとう悪いらしい、と安田は迫水から聞いたことがある。ときどき会社の方にも女性から彼宛にそれらしき電話がかかってくることがあり、電話番兼お茶汲み兼雑用担当の安田も、その事実には薄々と感づいていた。

「壺って、五右衛門風呂みたいなアレですか?黒がかった緑色の、気味悪いくらい不透明な液体がなみなみ入ってた―――」

「そ、アレ。安田、お前アレが何だったか聞いてないか?」

「いえ・・・ただ、うちの会社を有名にしてくれる魔法の薬、って言ってただけです」

「・・・・・・」

 一同沈黙。三人は社長の顔を思い浮かべるなり、ひどく嫌な予感がよぎる。静寂を破ったのは迫水の抑揚のない声。

「ま、とにかく安田くん、社長のことお願いね。また何かあると困るから」

「って、どうして僕なんですか」

 急に責任を振られて安田は顔色に困惑を顕わしたが、迫水は気にせず押しつける。

「だって安田くん、彼女の保護者でしょ?」

「え、そうだったの?」

「違いますっ」

 薄く不本意の色を含んだ声で加藤の問いを否定する安田。迫水が短い溜息をつき、噛んで含めるような口調で説得する。

「知ってるでしょ、社長の生い立ち。あの子には父親役が必要なのよ、君が支えてあげなきゃ」

「そんな、だったら加藤先輩だっているじゃないですか」

 言われた加藤が怪訝な表情を作り、改めて問い返す。

「お前、俺みたいな奴が父親役なんて、本気で出来ると思ってるのか?」

 自分に役が回ってくるのが嫌で思わず加藤に振ってはみたものの、考えるまでもない、安田は加藤にはそれが絶対に不可能なことを、彼の発する遊び人のオーラから直感で思い知り、自らその案の却下を認めざるを得なかった。

「・・・無理でしょうね」

「ま、そういうことだ。分かったら手遅れになる前にさっさと行け、社長は行動が早いぞー」

 安田はうつむいて髪をぐしゃぐしゃとかき乱し、何秒かドアの前で立ち尽くしていたが、二人が動く気配が全くないのを悟ると、観念して手にした鞄を自分の机の上に放り投げ、なかばヤケクソ気味にオフィスを飛び出し駅へと向かって駆け出した。

「ああもう、分かりましたよ、行けばいいんでしょう、行けばっ!」



3.そのトイレ掃除中につき
 

 その地下街の女子トイレには<掃除中>の看板が出されていて人が近づく様子は少しもなかったが、それは掃除婦によって出された物ではなく、魔法で作られた簡易な幻影が一時的にそう見せていただけだった。中では一人の若い魔女が、薄桃色の床のタイルの上にしゃがみ込み、油性マジックで魔法陣を書いていて、座って見守る使い魔はというと、心配顔を落ちつきなくキョロキョロとさせていた。

「手筈は分かってるわね、テスタロッサ」

 サラサラとマジックを滑らせながら、ソニアは使い魔に確認を促した。 

「・・・お嬢様、本当に、本当にやるんですか?」

「魔女に二言はないのよ」

 どうしても踏ん切りのつかない様子で眉尻を下げるテスタロッサは、彼女が一度言い出したら自分の意見などに耳を貸しはしないことは十分すぎるほど承知していたので、せめて今後の約束を取り付けるべく努力しようとした。当然、それも限りなく無意味に近いことではあったが、他にどうすることもできなかったのも手伝って、彼はそうせずにはいられなかった。

「お願いですから、こういう事はもうこれっきりにして下さいよ。こんな事がもし大奥様に知れでもしたら・・・」

「平気平気、お母様だって若い頃には色々とスゴイことやってたって言うし、このくらい大したことじゃないわよ」

「大したことですよっ!分かってるんですか、今からやろうとしてるのは紛れもないテロなんですよ、犯罪なんですよ!?」

「しぃーっ!声が大きいっ!」

 マジックを持った手を休め、トイレの入り口の方を見やって誰にも聞かれていないことを確認してから、ソニアは立てた人差し指をテスタロッサの顔の前についっと持っていき、彼の言葉の選択をなるたけ穏やかなものに訂正した。

「テロだなんて人聞きの悪い、デモンストレーションと言いなさい」

「そのデモのやり方が犯罪なんですよっ!」

 言われてソニアは首を傾げ、2秒だけ黙り込み、考えをまとめてから噛み砕いた説明を始めた。

「いい?テスタロッサ。犯罪っていうのはね、法を犯したって事実が警察機構あるいは司法機関の厳正な判断に基づいて確実に立証されて、その時点で初めて生じる概念なのよ。つまり、犯罪者っていうのは厳密には、実際に現行犯で捕まったり、刑をくらったりした連中だけを言うんであって、それ以外の人はたとえ裏で何やってようと<善良な一市民>としての生活を保障される、それが人道的民主主義国家ってものなの。バレなきゃあイカサマじゃあない、ってジョジョ第3部でダービー兄弟も承太郎も言ってたでしょ?」

「俺、ジョジョはスタンド編に入ってからは読んでないんですけど」

「なっ・・・どうして読まないのよ面白いのに!さてはあんたジョジョは1部と2部しか認めないとか言って通ぶってる手合いね!?『ロッキーは2まで』とか『ダーティーハリーは1のみ』とか『男たちの挽歌4は許さない』ってのはまだ分かるとしても、それはちょっと頂けないわよ?大体ねえ、ジョジョは第5部が一番・・・」

 妙な方向に白熱を始めた彼女の脱線を修正すべく、テスタロッサは口を挟む。

「あのう、今はそんなこと言ってる場合じゃ」

「そうよ、そんな場合じゃないでしょうが!ほら、さっさと魔法陣に入って!」

 自分が遮ったつもりが逆に少女に言葉を遮り返され、彼はいくばくか理不尽な気持ちになったが、それもやはりいつものことなので、そんな気持ちはすぐに忘れてしまった。そのくらいでないと彼女の使い魔はつとまらない。

 大きめのピザ程の魔法陣に最後の仕上げが整えられて、テスタロッサがその中に立ち入って「おすわり」の姿勢をとると、少女はすっくと立ち上がって一歩下がり、なにがしかの呪文を口の奥で呟きながら人差し指を中空に泳がせた。すると、指の軌跡に従ってキラキラと輝く光が残りゆき魔法文字らしきものが書き上げられ、<Trasformazione!>という、イタリア語で変身を意味する言葉と共に彼女が指を鳴らせば、魔法陣から立ちのぼる無数の光の粒が徐々に加速しながら渦巻いてテスタロッサの全身をまばゆく包み込む。フラッシュでホワイトアウトした視界が元に戻る頃には、彼の身体は犬のそれから黒ずくめのスーツと帽子と革靴とサングラスを身につけた人間の男へと見事に変貌していた。

 少女は変わり果てたテスタロッサをまじまじと見回し、満足そうに感想を言う。

「うん、我ながら大した構築力だわ。じゃ、手早く済ませてきなさい、あんたの変身10分強しか保たないんだから」

 正確には666秒、つまり11分と6秒だ。その間に彼は主人の言いつけを実行しなければならない。

「はいコレ。なるべく人目に付かないところに置いてくるのよ、観葉植物の植木とか、ソファーの下とか」

 そう言って彼女は、黒がかった緑色の不透明な液体が濃縮された、てのひらに収まる程度の大きさのガラス管を手渡す。フタのコルクに貼られたラベルには<封印>を意味する小型の魔法陣が書かれていて、それが間違いなく危険物の類であることが知れる。

「まったく、いったい何の因果でこんな目に・・・」

 テスタロッサは口癖をひとりごち、目的の場所、帝友グループ本社ビルのエントランスホールへと足早に歩を進めた。トイレの中に一人残されたソニアは両手を自分の腰に当て、呼吸をひとつ大きく吐き出して、床に書かれた魔法陣をちらりと見やる。

「さて、今のうちにこの魔法陣消しとかなくちゃね・・・やれやれ」

 背中の革鞄からベンジンの瓶を取り出し、彼女は自分が書いた油性マジックのインクと取っ組み合いの格闘を始めた。こうして、表に出された<掃除中>の看板は、図らずも、まごうことなき真実を顕わすことになったのだった。



4.存在の耐えられない軽さ
 

(1)

「・・・ああもう、俺ってなんでこうツイてないのかなあ・・・。今年で5年も生きてるってのにまだ女の子と付き合ったこともないし、だいたい魔女の使い魔って何なんだよ、普通、犬はそんな境遇に陥らないだろ。お嬢様だってネコの方が良かったって何万回も繰り返してるし、何だってこんな不幸な巡り合わせになっちゃったのかなあ・・・。その上、使い魔は長命で最低でも半世紀は生きるって言うし、ってことは少なくともあと45年はこんな生活が続くってことだろ。それって生き地獄以外の何でも無いよな・・・。まったく神様ってば、俺が一体何したっていうんですか。前世の悪事の影響とか言われても俺そんなの知らないし困りますってば。あーあ、何の因果でこんな目に・・・」

 ぶちぶちと愚痴をこぼしながらテスタロッサは下見済みのその場所へ入り、打ち合わせ通りに、道に迷ったイタリア人を装って受付へと歩み寄っていった。ベーシックなカーキ色ではあるが、どことなく垢抜けたデザインの制服に身を包む二人の受付嬢は、その黒い男に気付いて対応の用意をする。男は受付のカウンターに片手を置いて、なるたけ自然に振る舞いながら、イタリア語で、日本へ来たのは初めてで詳しくないこと、英語が少ししか話せず困っていること、とりわけ大きなこのビルならイタリア語を話せる人物もいるだろうと思い立ち寄ったこと等をごく手短に説明し、どっちへ向かえば駅へ行けるかを訊ねる。受付の二人は英語とフランス語と広東語とは心得があったが、イタリア語は守備範囲外だった様子で困惑するばかり、Excuse me.を連発して手元の受話器を取り、恐らくは内線でどこかへ電話をかけた。

 テスタロッサは、受付嬢の片方に、イタリア語が話せる者が来るまでソファーで待つよう、簡易な聞き取りやすい英語で促され、しばらく待たされた。この時点で時計は4分を回っており、もともと小心者の彼は早まる心臓の動悸を抑えるのに精一杯だったが、主人の言いつけを遂行しないことには、下手をすると病院のベッドの上で動悸を抑える心配をする必要が無くなったりもしかねないので、ポケットから例のガラス管を取り出し、誰にも見られていないのをそれとなく確認してから、落とし物を拾う振りをしてソファーの下にそれを潜り込ませた。

 これでひとまずは目的を達成した訳だが、問題はこの先、タイムリミットまでにここから怪しまれずに出ることだ。彼の身にかけられた変身の魔法は完璧に近く、よほどの熟達でなければ魔法による造形だと気付かれはしなかったろうが、しかし目の前で人間の男が犬の姿に戻りゆく様を見れば、どんなに魔法に強くない者でも一目でバレてしまう。そうなれば彼はまず間違いなく怪しまれ、きっとガラス管も見つかってしまうだろう、つまりソニアの作戦はその時点で失敗となり、何より彼は企業テロの実行犯として警察にしょっ引かれることになる。それだけは絶対に避けなければならない。テスタロッサは、いくら何でもこれ以上の不幸はもう沢山だった。

 時計の針は7分30秒を既に過ぎ、8分を過ぎてもイタリア語の担当者は現れなかった。人の姿を得た彼の額と首筋には気味の悪い汗がにじみ、次第に落ち着きを失っていく自分が周りから怪しまれてはいないか、と思うと余計に落ち着きを失い、悪循環のメビウスリンクに足を取られるような感覚が黒いモヤとなって背中からじわじわと忍び寄ってきていた。秒針が一歩一歩先へと進む度、彼の喉は赤道直下の砂漠のように渇いていき、逆に、強く握りしめた手の中では水たまりが出来そうだった。

 9分12秒を過ぎた頃にようやく背広姿の若い日本人が彼の前に現れ、テスタロッサは思わず安堵の息をもらした。親切丁寧な対応は、しかし簡潔で手早くかつ分かり易く、1分もかからずに仮そめの用件を聞き終え、彼は心にもない礼を言って足早にエントランスホールを去った。受付嬢の視界から消えて、それから人目につかないところまで行ってから変身が解かれてやっと彼に与えられた使命は完全な形で終わる。時計を見れば10分36秒、残り30秒で主人の待つ地下街の女子トイレへと駆け込まなければならない。テスタロッサは、慣れない二本足を幾度かもつれさせながら、ほとんど無我夢中で走った。
 

(2)

「はい、お疲れ。スゴイわねー、時間ピッタリじゃない。で、どうだった、首尾は?」

「・・・・・・ば・・・バッチリです、お嬢様・・・」

 犬の姿に戻ったテスタロッサは、慣れない身体で走ったためと、極度の緊張のせいで、とてつもない疲労感に苛まれていた。床の上にぐったりと寝そべって、ひんやりとしたタイルを気持ちよく感じつつ、舌を出し、息も切れ切れに主人に報告する。

「・・・恐らく、誰にも、俺の正体は・・・気付かれなかったと、思います、痕跡に・・・なるようなものも、残しませんでした・・・」

「ん、これもみんなわたしの魔法が完璧だったおかげね」

 しれっと彼女はそう言っただけで、テスタロッサに礼を言ったり、ねぎらいの言葉をかけてやったりはしなかった。使い魔が主人のために行動するのは当然のことだからであり、テスタロッサもそんなものを期待してはいなかったし、期待するだけ無駄だということは嫌と言うほど知っていた。彼女の場合は特に。

「さてと、じゃあわたしは取り敢えず作戦の第一段階成功を祝って喫茶店でお茶でも飲んでくるから。あ、テスタロッサ、その魔法陣ちゃんとキレイに消しといてね、少し跡が残っちゃったから」

「・・・え? あ、あの、俺も、お茶・・・・・・」

「何言ってるの、あんた盲導犬でもないのに喫茶店に入れる訳ないでしょ? ほら、早く言われた通り取り掛かりなさい、このトイレだってあんまり長いこと掃除中にしてたら怪しまれちゃうじゃない。じゃ、30分後に例の場所で落ち合いましょ、それまで適当に時間潰しといていいわよ。あ、あんまり疲れるようなことはしないようにね、作戦はこれからが本番なんだから」

「・・・・・・」

 一方的に言うだけ言って、鼻歌まじりに立ち去るソニアの後ろ姿を、さすがに呆れた、といった顔で見送って、テスタロッサはしばしの間、何も考えられなかった。いや、確かにねぎらいは期待してなかったですけど、休む間もなく次の命令を下すっていうのはいくら何でもあんまりじゃないですか、お嬢様?と彼は思ったが、それ以上はどうすることも出来ず、ただ、のそのそと動き出して前足で器用に雑巾を床にこすりつけ、しつこく残ったマジックインキをやっつけるべく奮闘した。テスタロッサは、しかし、そんな境遇でも底なしにいじましい自分が、ちょっとだけ好きだった。
 

(3)

 ソファーの下に仕掛けられたその<時限爆弾>は刻々と迫る発動の時を待ちながら、静かに胎動を始めていた。

 ガラス管の中、さっきまでは単に濃厚な緑色の液体に過ぎなかったその物質は、テスタロッサが魔法陣を跡形もなく消し終える頃には、ギロリと鋭い眼が片方だけ形成されていて、闇の奥底で人知れず妖しげな成長を遂げていた。ソニアの魔法によって造られた、ほとんど魂に近い高等な制御プログラムを有する魔法兵器は、次はゆっくりと自らの身体を覆うウロコを、ひとつ、またひとつと作り始めた。

 封印が解除されるまで、残り、16分22秒―――



5.振り返れば魔女がいる
 

(1)

 悪い魔女につかまってしまった―――

 安田の社長に対する印象は、ずばり一言でいってそんなところだった。見た目は普通の15歳の少女なのに、彼女の内側には全く恐るべき魔性が潜んでいる。最低でも20年以上の修練が必要と言われるA級魔女資格試験に12歳という驚異的な若さで合格したその超天才的な魔法の才能はもとより、彼女の本当に恐ろしい魔性とは、生まれついての魔女としての彼女という存在が放つ、不思議な魅了の空気なのだ。恐らくは本人も意識してはいないだろうが、彼女にはそういう、カリスマとでも言うべき何かが確かにある。安田は、そのせいで自分が彼女の手から逃れられはしないだろうということを直感で知っていた。

 20世紀の終身雇用神話が崩壊し、欧米的実力主義がこの国にも広く浸透し始めた2015年現在、自分より7歳も年下の者を上司と呼ぶことは大して珍しいことでも無くなってきてはいたが、しかし、新卒採用の時点で既に7歳年下というのは、やはり尋常なことではない。それなのに彼はこの3ヶ月で、7歳年下の彼女のことを<社長>と呼び敬語で対応すること、また、彼女から<安田クン>と呼ばれ命令調で対応されることに、すっかり慣れてしまっていた。いや、7歳くらいならまだマシだ。彼の先輩の加藤など干支が一回り分まるまる違う訳だし、迫水に至ってはそれ以上だということだった。それでも二人とも彼女を<社長>と呼ぶことに大して抵抗を覚える風でもないのは、まあ、この二人には常人と趣を異にする部分が少なからずあるという事実を差し置いたとしても、やはり彼女のカリスマ的な何かによるものに違いなかった。
 

 日本橋に辿り着いてはみたものの、安田は、突き抜ける青い空を見上げて途方に暮れていた。

「よくよく考えれば、社長を捜すって言ったって日本橋のどこ探せばいいんだろ。勢いで飛び出しちゃったからなあ・・・」

 前髪をかき上げ呟いて、安田は考えた。まあ、どうせあの子のことだ、探すまでもなく騒ぎを起こして居場所が知れることにはなるんだろうけど―――けど、そうなってからでは遅いということもあり得る。いつぞやのように、駆けつけたときには既に警察のご厄介になっていて、とばっちりで自分までが警官から説教を聞かされる羽目になるのは、さすがに勘弁して欲しかった。

 特に宛もなく人通りの多い方へと歩いていた安田は、ざわめく雑踏と自動車の交通音を耳やかましく聞いていたが、不意に後方百数十mの辺りから、どーんという大きな爆発音がして、驚いて転びそうになった。振り向いてみれば、道行く人々も一人残らず首を怪音の発振源の方へと真っ直ぐに向け凍り付いていて、自動車はブレーキも忘れ接触することがそこかしこ、それもそのはず、彼らはその時、おおよそ信じられないような光景を目の当たりにしていたのだ。映画の特殊効果よりもずっと現実感のあるそれは砂塵を巻き上げ、天に仇なす銀灰の塔の強化ガラス張りの入り口を突き破って、まるで塔と競うかのような勢いで高さ約20mに渡り屹立していた。その姿は黒がかった緑色の堅固なウロコにびっしりと覆われていて、頭部からは後方へと突き出た巨大な鍾乳石のような突起が幾本も生え、人間なら2〜3人はいっぺんに丸飲み出来そうな程に大きな口からは、先の別れた赤い舌が覗いていて、さながら絵本で見たドラゴンのようであった。と言っても、体長の割に胴は細長く、手足も羽根も無く、腹の部分はつるりと何もなかったので、むしろヘビに近かったが、安田は少なくとも、いや、そこにいた誰もが、それがヘビだったとは信じられなかっただろう。その姿は、ヘビと言うにはあまりにも巨大すぎた。

 遅かった―――!

 引きつり顔を半分隠すようにして右手を当てがい、安田は胸の裏側で悔恨の呪詛を繰り返した。確たる証拠は一つもなかったが、彼には分かっていたのだ、それが全て、間違いなく社長の仕業だと言うことに。社長が3ヶ月に渡って熟成させていた例の壺の中身の正体は、あの大蛇だったのだ。そうに違いない。そうする目的が何かまでは、その時の彼は混乱していたので思い及ばなかったが、そのビルが、社長がひどく一方的にライバル視している帝友グループの本社ビルだということも推測に拍車を掛けていた。

 気が付いたときには、彼は現場へと向けて走り出していた。自分が行ってどうにかなるものでもないだろうが、とにかく行かなければならない。安田は思った―――やっぱりあの子は、とんでもない魔女だ!
 

(2)

「さっすが治安大国日本、警察の対応に関して世界一のスピードってのは、あながち嘘でもないみたいね。事件発生から30分以内にあらかたの避難と交通遮断、包囲体勢が出来上がっちゃったわ。・・・・・・あ、ねえねえテスタロッサ、見える?ほら、あれ観音崎麗子よ。あの女、もう来てたのね・・・ふふっ、慌ててる慌ててる、いい気味だわ」

 現場から、安田とはまるきり反対の方向へやはり百数十mほど離れたその地点、ビルの屋上から、ソニアとテスタロッサは事の次第を傍観していた。鼻歌混じりに双眼鏡を覗き込み意地悪げな笑みを浮かべる楽しそうな主人とは対称的に、使い魔の方は薄黒く色のついた空気をまとうほど気落ちした表情で、重苦しそうにぼそりと呟く。

「ああ・・・俺もこれで犯罪者か・・・」

「だから、捕まりさえしなけりゃ犯罪にはならないってば」

「・・・そういう問題じゃありません、精神的な意味でです」

 聞いたソニアは小さく呆れ顔を作る。

「まったく気が小さいわねえ。あ、見なさいよテスタロッサ、あの子、バリケードのつもりのパトカーを折り紙細工みたいに軽々と押しのけてるわよ。思った以上にパワフルに育っちゃったみたいね、うんうん、3ヶ月も熟成させた甲斐があったわ」

 破壊活動用強襲クリーチャー【ラブリーうわばみクンZZZ(トライゼータ)カスタム】。それがその大蛇の名前だった。どの辺がラブリーなのか分からない上に何がゼータでしかも何故3つも並んでいるのかテスタロッサには理解できなかったが、彼女にネーミングセンスが全く無いのは今に始まったことではないので、どうでもいいことではあった。彼がペトラルカ家へやってきた日も、危うく彼女に【ルキフゲ・ロフォカレ2世】という名前にされかけた。結局は大奥様、つまり彼女の母によって【テスタロッサ】という自分でも割と気に入っている名前をもらえたので助かったが、以来彼は彼女のセンスに限りなく懐疑的になったのだった。

 フェンスに両肘をかけて後足の爪先でとんとんとリズムを取りながら、なおも鼻歌混じりに自分の<出>のタイミングをはかる主人を見上げて、テスタロッサは、今更どうしようもない、と、海よりも深い溜息をついた。それは、彼を中心にその場だけ重力が増えるのではないかと思える程に大きく重たい溜息だった。
 

(3)

 現場に駆けつけた観音崎麗子は、黒光りするリムジンから降りたと同時に自分の目を疑うことになった。

「な・・・何なのよ、これは・・・ッ!」

 明らかに怒りを含んだ声だった。あらゆる分野において事実上の世界一を独占し続ける帝友グループ会長、観音崎光成の孫娘である彼女は、報せを聞いて学校から直接現場へと急いだらしい、名門として名高い光蘭女子高等学校の制服を着たままの姿で、今や警備の警官と野次馬とでごった返しとなっている本社ビルの前に現れた。入り口の強化ガラスは打ち破られ、そこからぬっと姿を現した巨大なヘビがビルめがけて何度も体当たりを繰り返していて、その大蛇の口からは先別れした赤い舌がしきりに出入りし、シュルシュルと不快な音を立てている。普段なら決して美を損ねることのない、少しの隙も無く整った顔の上に一握の翳りをはらんだまま、品のいいカチューシャで背中へと送られた、腰まで届く横並びの縦巻きロールの髪を風に乗せ一歩前に出る。黄色地に赤の大文字で<KEEP OUT/POLICE>と繰り返し書き連ねられたテープをくぐろうとして、彼女は本社直属のセキュリティガード(SG)に行く手を遮られた。

「お嬢様、ここは危険です、お下がりくだ―――」

「どきなさい」

 言い終わらせずに一喝。その迫力に確かな観音崎の血を見せつけられ、たじろぐSGに向かい、彼女は早口でさらに続ける。

「お爺様がニューヨークへ出向いてる今、このビルを預かっているのは私よ。
 私のビルで、これ以上あんな訳の分からないモノに好き勝手な跳梁を許す訳にはいかないわ」

「し、しかし・・・」

 なおも食い下がるSGは勿論、彼女の身を案じての配慮だったが、麗子にはとりつく島もない。上目遣いで涼しく睨みつける彼女がその背中に負っていたのは女子高生の持つ空気などではなく、間違いなく覇気に溢れる経営者のそれだった。静かな声にも重みがある。彼女は、うろたえ逡巡するしかないSGにもう一度だけ、力強く繰り返した。

「私は、どきなさい、と言ったの。同じ事を二度も言わせないで」

 SGは完全に圧倒され、もう言葉も出なかった。彼女が大蛇に対してどうにかすることができるとは思えなかったが、しかしその迫力に関して言えば、彼にとって目の前の少女から大蛇以上に恐ろしい何かを感じた。それは観音崎というバックがあるからではない、彼女自身の発する強烈なオーラからだった。ちょうどその時、リムジンの運転席にいた初老の紳士が彼女の後ろから歩み寄り、今しがた警察から聞いた事情を少女に耳打ちし始めた。麗子は彼の方は見ないまま押し黙って聞く。

「・・・避難の指揮に当たっていたSGは負傷者多数、組織としての機能はほとんど望めないということです。幸いにして今のところ死者は出ていないそうですが、状況に手の施しようがありません。恐らくは警察も頼りにはならんでしょうな、この様子では」

「ビルの中に取り残されてるのは何人?」

「多くは裏口や非常階段から避難したとのことで・・・情報では、現在24名が所在未確認です」

「そう、じゃあ行くわよ、ついてきなさい」

 そう言って足を踏み出す麗子に、白髪混じりのオールバックの紳士は一筋だけ表情を曇らせて、わざと繰り返す。

「・・・行く、とは?」

「決まってるでしょう、その24人を避難させるの」

「お嬢様、そのような仕事は我々やSGにおまかせ・・・」

「田代」

 執事の言葉を遮って、彼女は決然と言って聞かせた。

「私がお爺様から預かっているのは、このビルだけじゃない―――社員の安全もよ。私にはその責任があるわ」

 田代はそれを聞いて、自分の仕える少女の器を再確認し、かしこまって慇懃に一礼した。恐らく彼女には、裏口から回り込もうなどという考えは無かっただろう。世界一の座にある者は何者にも決して屈しはしない、という光成の教えを、彼女は忠実に守っていた。たとえ相手が、これまで見たこともないような化け物の類であろうとも。

 活動範囲内に侵入してきた異分子を発見次第、その大蛇、ラブリーうわばみクンZZZカスタムは巨大な鎌首を持ち上げ、猛然と少女に襲いかかった。麗子は悲鳴を上げるどころか目をつぶろうともせず、鋭い目つきで大蛇を睨みつける。大蛇の牙と彼女との距離が5mも無くなった時、初老とは思えぬ俊敏な動きで間に割って入った田代が目にも止まらぬ早技で濃い灰色の背広の内側に右手を滑り込ませ、取り出したコルト・ガバメントで大蛇の口の中めがけ、マガジン内の.45ACP、7発全弾を叩き込む。豪勢な発砲音とマズルフラッシュの閃光に混じって、排出された7つのカートリッジがアスファルトの上で連続して短い金属音を立てた。なまじ生物としての感覚を持つ大蛇は焼けつく痛みにひるんで奇怪な叫びと共に顔を背け、田代は、落ち着き払った手つきでマガジンを交換する。空になった弾倉が地に落ち音を立てるのとほぼ同時に、新たな生命を装填された銃が、ジャキン、と歓びの声を上げた。スライドを引いてチェンバーに最初の弾丸を送り込みながら、田代は灰色の口髭の下から感想をこぼす。

「やれやれ、久しぶりに銃を抜きましたよ。先代について中近東を回っていた頃は日常茶飯事だったのですが」

 続いて麗子が腕組みした形で、冗談めかした感想を繋ぐ。

「田代、あなた銃刀法違反の現行犯ね、それも大勢の警官の目の前で」

 言われて気付いたのか、田代が周りを見回すと確かに現場の警備に当たっていた警官達が目を丸くして彼と彼の銃を見ていた。しかし田代は特に気にした風でもなく、面倒事は後でまとめて処理しましょう、と一言もらしただけだった。どうやら帝友は警察方面にも顔が利くらしい。拳銃を構え直し、その執事は現況を判断して控えめに提案する。

「しかしお嬢様、申し訳ありませんが、今の私の腕とガバだけでは次は凌げるかどうか多少不安ですな。お気持ちは分かりますが、ここはひとまず退くこともお考えになった方が良いのでは?」

「わたしもそうした方がいいと思うわ、観音崎麗子さん♪」

 不意に後ろから聞き覚えのある、麗子にとってひどく不快な色を帯びた声がして、彼女は飛び退き振り向いた。縦巻きロールの亜麻色髪が空気に乗ってふわりとひるがえる。

「そっ、ソニア・ペトラルカ! あなた、いつの間に、どこから・・・」

「ついさっき、空から」

 質問にそのまま答え、手にしたホウキを示して見せてソニアはにやりと妖しく笑った。後ろにはテスタロッサもいる。心なしか弾んだような声で、彼女は両手を当てた腰を捻るように曲げて会長令嬢の顔を斜め下からのぞき込み、言葉を続ける。

「随分とお困りのようね。まったく、大企業ともなるとテロ対策もしなくちゃならないなんて大変ねえ、観音崎さん? あーんな強力な魔法兵器どうやって退治したらいいのかしらねー。こりゃもう帝友のコネで市ヶ谷の陸自にでも応援要請するしかないかな?」

「・・・何が言いたいの」

 声のトーンは低く抑えられてはいたが、腹の底に渦巻く怒りまでは抑え切れぬ様子で麗子が聞く。予定通りの展開に満足顔のソニアはますます調子に乗って、この場で唯一の魔法の専門家として商談を切り出す。

「わたしが退治してあげようか、しかも10分以内に」

「だ、誰が、あなたなんかに・・・・・・」

 そこまで言って麗子はハッとした。声明の発表もない突発的なテロなどという不可解な事態に付いていた疑問符が全て消し飛び、ひとつの結論が導き出された。結論といっても推測の域を出たものではなかったが、麗子にとってはそれでも十分だった。麗子は目の前の少女を恐怖すらして、青ざめ、震える声で問い確かめようとする。

「もしかして、この騒ぎ、全部あなたが・・・?」

 しかしソニアはまるで聞こえなかったとでも言うように素知らぬ顔で彼女の言葉を無視した。ピンと立てた人差し指を自分の顎に押し当て、なおも挑発するかのような声色で彼女は続ける。

「どうするの?わたしに頼むのがいちばん手っ取り早くて安上がりだと思うけど?」

「こ、この・・・ッ!」

 あくまでもしらばっくれるつもりの彼女の態度に、麗子は怒りで歯噛みして肩を震わせ、悔しさのために涙目になって、ソニアにそれを悟られまいと誰もいない方に振り返って背中を向けた。それを見てソニアは心の中で一言、「勝った」と思う。その様子を後ろで見ていたテスタロッサは、不幸にも主人のライバルに見立てられてしまった可哀相な令嬢に、どうにも深い同情を覚えてならなかった。

「田代!」

「はい、お嬢様」

「・・・彼女と契約を」

「はっ」

 麗子の声は、隠すつもりもなく不本意そのものだった。ソニアに仕事を頼まねばならないのは屈辱だったが、他に手の打ちようがないのだから仕方ない。この場合、麗子一人のプライドよりも、一秒でも早く事態を収拾し、社員の安全を確保することが先決だった。命じられた田代は内ポケットから小型の電卓を取り出し、数字を打ってソニアに見せる。

「相場で言いますと、このくらいで如何でしょう?」

「あのねえ、緊急事態なのよ?せめて3割増しくらい色つけてもらわないと」

「・・・1割増し、では?」

「3割と言ったら3割よ。あ、でも、いいのよ、別にわたしは契約しなくても。困るのは観音崎さんなんだしー」

「お嬢様・・・」

 困惑して田代が指示を仰ぐと、麗子は背中を向けたまま何も言わずに手を振って合図した。商談成立だ。ソニアは指を鳴らし、片手でホウキを縦にぐるりと一回転させ尾の部分を地面に持っていき、縛り目に左足をかけて、ひとつ片目をつぶって見せた。

「オッケー、引き受けたわ! 派手にいくわよ、テスタロッサ!」



6.大怪獣空中決戦
 

(1)

 小切手にサインを済ませて、田代は、背中の鞄からなにがしかを取り出し仕事の準備にかかっていた若い魔女と、まだ背中を向けたままの令嬢とを見比べてから、すらりと長い足を繰り出し麗子の背後に歩み寄り、軽くかがんで再び耳打ちをした。

「よろしいのですか、お嬢様。もうお気づきでしょうに」

 その意味をすぐに理解し、努めて冷静を装って答える麗子。

「仕方ないでしょう。彼女がこうも手の込んだ真似をしてきたからには、きっと今回のこのテロ騒ぎ、痕跡から犯人が特定できるようなものは何ひとつ残してない筈だわ。最近の魔法鑑識は随分と精緻な分析が可能になったとは聞くけど、彼女は10世紀以上も脈々と続いてきた魔女の家系の一人なのよ。私達の、ここ数年程度のノウハウしかない、科学に頼った鑑識の目をかいくぐる術なんていくらでも知ってる・・・悔しいけど・・・」

 麗子は奥歯を強く噛み締めた。

「これが彼女の仕業だと立証するのは限りなく不可能に近い、と思うわ」

 聞かされて田代は天を仰ぎ、口をついて一言ぽつりと口にする。

「魔女・・・ですか」

 後に続いて、麗子はこの上なく忌々しげに吐き捨てた。

「そうよ、あの女、とてつもなく性悪な魔女よ・・・!」
 

(2)

<Volare!>

 中空で水平にしたホウキに、利き腕が自由になるよう、柄を握る左手を舳先の方に向け右側から横乗りに尻を乗せて、彼女が飛翔を命令すると、次の瞬間、始動を始めたジェットエンジンの運転音によく似たキーンという空気を切り裂く音がして彼女の足元に風が巻き、次第に強いつむじ風となっていく。それはヘリの離陸の光景とも似ていて、ホウキの上のソニアの身体はゆっくり重力の束縛から解放されてゆき、やがてふわりと宙に浮いた。

「テスタロッサ!」

 使い魔に相乗りを呼びかけるが、彼はあまり乗りたくない様子でいた。それというのも、ただでさえ乗り心地の悪いホウキの上には彼が安住できるような場所はなく、常にソニアの背中にしがみついていなければならないこと、何より彼女の運転の危なっかしさはテスタロッサにとって、心理的にも物理的にも、ひどく寿命に悪影響を与えるような気がしてならないことが理由だった。彼は腰を持ち上げたくないという風におずおずと返事をする。

「いや、あの、俺はいいです。今回は必要ないでしょ?」

「必要なくても、不測の事態を見越して万全を期すのがプロってものなのよ。・・・乗らないとまた電撃よ」

 彼女が右手を掲げ指を鳴らす用意をすると、テスタロッサは、

「わーっ!乗ります乗ります!」

 と言って慌てふためき飛び乗った。背中にのしかかった14kgある彼の体重にソニアは文句をこぼす。

「ああもう、あんたってなんでこう重いのよ、せめてあと10kgくらい痩せなさい!
 ったく、これがネコだったらもっと優雅な飛行スタイルなのに・・・」

 毎度の理不尽な要求をテスタロッサは聞き流した。彼の骨格で体重が4kgだったら、それはもう死体以外ではあり得ない。

「それじゃ、しっかりつかまって!」

 ホウキの舳先を軽く斜め上に向け、柄を握った左手から念を送ると、花で言えばつぼみの形の尾の部分がバッと音を立て花ひらく。それからアフターバーナーよろしく一気に魔力を放出して、魔女と使い魔を乗せたそのホウキは光の線を一筋残して勢い良く空に飛び立った。離陸の瞬間、爆発音にも近い轟音が響いたが、風に乗ってしまえば後は尾の形も通常通りに戻り一定の運転音がするだけで、静かなものだった。頭の上で両脇にまとめられた彼女の黒髪はまるで二本の尻尾のように後方になびきゆき、テスタロッサの視界を奪う。大蛇は、自らの領空を侵す者を攻撃すべく頭を持ち上げ素早く襲いかかるが、ソニアはそれを楽しむように紙一重で避け、その度テスタロッサの背中を巨大な風圧がかすめた。涙目の使い魔が悲鳴混じりに不平を口にする。

「なっ、なんでクリエイターにまで攻撃するようにしてあるんですかー!」

 答えるソニアの声の調子はいつもと少しも変わりない。

「そのくらい真に迫ってないと八百長かと怪しまれるでしょ。大丈夫、触媒に使ったのはアオダイショウだから毒は持ってないし、攻撃にしたって人間は殺さない程度に手加減するよう、あらかじめプログラムしといたから」

 テスタロッサは聞いて一瞬安堵したが、しかし何か引っかかるものを感じた。「人間は」殺さない程度に? と、いうことは・・・

「あの、お嬢様・・・・・・い・・・犬は?犬はどうなんです?」

「あ」

 短くそう言ったきり、ホウキの上の一人と一匹は時間が凍り付く。ソニアは笑って誤魔化そうとした。しかしテスタロッサにとっては文字通りの死活問題、問い詰めずにはいられない。

「あ、って何ですか、あ、ってー!?」

「ごめん、忘れてた」

 けろっとした声色でソニアは素直に謝った。テスタロッサの目からは完全に血の気が引き、半ば放心状態に陥った。上でのそんなやりとりとは関せず飛行するホウキはヘビの周りをぐるり大きく弧を描いて旋回し、それを追って剥き出される牙をひょいひょいとかいくぐっていく。その時、ソニアは聞き覚えのある声で名前を呼ばれたのに気が付いた。声がした方に目をやると、黄色いテープの結界の外側、野次馬や報道陣で溢れる人垣の一番手前に、身を乗り出していたためか警備の警官に羽交い締めにされている安田を見つけた。

「あれ、安田クン来てたんだ。おーい、やっほー♪」

 ソニアは自分の置かれている状況を完全に忘れて、年上の部下に向かって微笑み顔でひらひらと手を振った。

「やっほーじゃないですよ! 前見て下さい、前っ!」

「え?」

 テスタロッサに注意され前を見れば、眼前すぐそこに帝友ビルの6階の窓ガラスが迫ってきていた。魔女と使い魔は、悲鳴と共に体重を思い切り後ろに引いて急ブレーキをかけ壁面ギリギリで停止、しかし安堵も束の間、今度は後ろから巨大な牙が襲いかかってきて、ソニアは舳先が真上向きになったホウキに命じ瞬時に尾を展開して、壁沿い、ロケットさながら真っ直ぐ天を目指して高速で飛び去った。大蛇は勢い余ってガラスを突き破り派手に頭をビルの中に突っ込んでしまう。ガラス片の雨が無人のアスファルトに激しく降り注ぐ。それを見たビルの所有者の少女は顔に手を当て一言、「私のビルが・・・」とこぼして、がっくりうなだれた。

 大蛇は頭部から後ろ向きに突き出た幾本かのツノが引っかかっているらしく、ビルから頭を抜くのに難儀している様子だった。ソニアはと言えば、飛び去った遥か上空でU字の逆さまにターンして舳先を真下に急降下、大蛇と高度を合わせ、ひねりを加えてくるっと転回し、その場でホバリングする。10数mほど距離をとった位置で、いつの間に用意したのか、発動前の大蛇が入っていた例のガラス管と全く同型のものを彼女は手にしていた。

「オッケー、ごっつぁんチャンスね!」

 彼女の言語感覚は、しばしばアクロバティックだった。歯を合わせた笑いを浮かべながら、ポンと音を立ててコルクを引き抜き、左手でその口を大蛇に向けて、右手の人差し指で中空にサラサラと光る魔法文字を書き始める。

「ご苦労さま、もう十分よ、戻りなさい!」

<Sigillo!>

 彼女が封印の言葉を唱え右手の指を鳴らすと、途端、ガラス管の口がストロボのように強烈にフラッシュして、地上で見上げる観衆は眩しさで目を覆った。3秒ほどして光が止んで、再び彼らが空を見上げた時には、そこに巨大なヘビの姿は―――

 まだ、確かにそこにあった。やはりビルに突き刺さった頭を抜こうともがいている。ホウキの上、ガラス管を前に突き出した格好でソニアは石のように動かず、そこには予想されたものとは別の、どうにも間抜けな光景だけが残された。

「あれ? 封印できない」

 拍子抜けした声でソニアは短く事実を確認した。

「おっかしいわねー、この封魔瓶、不良品かしら? ようやく信用できる買い付けルート見つけたと思ったのに・・・」

 それから彼女は、そのガラス管の底を指でとんとん叩いてみたり、片目をつぶって受け口の中を覗き込んだりと、色々と調べてみたが、どこにも異常は見られなかった。この場合、彼女は自分の技術に絶対の自信を持っているので使用者の魔法が不完全だったという考えは頭に起こらない。ということは、残り考えられるのは、封印対象の異常だった。それに関してソニアは、思い当たる節がないでもない。異常事態を察して、背中からテスタロッサが心配げな声を掛ける。

「どうしたんです? な、なんで封印できないんですか、お嬢様?」

 答えてソニアは推論を説明した。

「・・・もしかしてこの子、自律プログラムを自分で書き換えちゃったのかしら・・・うーん、どうも、なるだけ強力に仕上げようと思って3ヶ月も熟成させたのが失敗だったみたいね、つい調子に乗って魔力ため込み過ぎちゃったみたい。きっとこの子、発動してから自力で私の制御下を離れたのよ、だから発動前と同じ方法で封印できないんだわ、もうチャンネルが変わっちゃってて」

「それって、つまり・・・」

「うん、たぶん今までも、わたし達を殺す気で攻撃してた、ってことね」

 事も無げにさらりと彼女は言ってのける。それを聞いてテスタロッサは言葉と表情とをいっぺんに失った。

「あはは、失敗失敗♪ いやー、そ、それにしても人死にが出なくて何よりね!運が良かったわっ!」

 さすがに気まずげな苦笑いの顔で、言い訳のようにソニアは言った。もしかしたら今回、手違いで無関係の人を殺してしまっていたかも知れなかったのだ。テスタロッサは改めて主人の非常識きわまりない危険性を再確認し、底知れぬ恐怖で戦慄し身震いした。がしかし、問題の主人はと言えばもう既に別のことを考え込んでいる風で、あごをつまんで眉間を軽くしかめている。

「でも、そうなると今度は本当にこの子を退治しなきゃならなくなったわね・・・勿体ないなぁ、せっかくこんなに成長したのに」

「言ってる場合ですかっ!どうするんです、何とかしないと・・・ッ!」

 そこまで言ってテスタロッサは、ようやっと大蛇がビルから頭を引き抜いたのを目撃して、全身から血の気が引いていく音を聞いた。粉々に砕け散ったコンクリートの破片、灰色の砂を頭からバラバラとこぼしながら、大蛇は一度ぐるりとかぶりを振って再び異分子を発見し、一直線に向かってくる。テスタロッサが慌てふためき悲鳴に近い声で何かをわめき立てる中、ソニアは、なおもその場に留まって、そうよね、何とかしないとね、などとぶつぶつ呟きながら考え続けている。牙との距離がぐんぐん縮まってとうとう3mも無くなった時、彼女はようやく動きを見せた。

「テスタロッサ」

「は、はい?」

「何とかしなさい」

 と言うが早いかソニアの右手が使い魔の首輪をぐいと逆手に掴み上げ、背負い投げの要領で彼の身体を大蛇の口の中に放り込んだ。自分の身に何が起きたのかすぐには理解できず、テスタロッサはただ、ぬるぬるした狭い闇の中で4本ある脚を必死でバタつかせてもがくだけしか出来ない。しかし、その展開に誰より驚いたのは、とつぜん妙なものを口の中に放り込まれた大蛇だったに違いない。噛みつこうとしたものは普通、逃げようとするのが定石なのに、急に自分から口の中に飛び込んできたというのだから驚かない訳がない。大蛇は、喉の奥のごろごろとした異物感にひるんで、とりあえずはテスタロッサを飲み込んでしまうべく、ソニアへの攻撃を一旦とりやめざるを得なかった。

 その隙をついて彼女は両手の指を奇妙な形に組んで印を結び、口の奥で呪文を呟いて、仕上げに一言<Nera Fiamma!>と、イタリア語で黒い炎を意味する言葉を唱える。途端に大蛇は苦しみを訴えるように暴れだし自分の頭をビルに叩き付け始めた。その喉元は、内側から何かに押されているように赤く腫れ上がり、大蛇がアスファルトに地響きを立てて倒れ伏すと、中から勢い良く突き破って、犬のシルエットを象った暗黒の炎の塊が現れた。それは、使い魔の魔力を13秒間だけ暴走させるソニアの切り札とも言える裏技だった。発動中のテスタロッサの動きは思念で命令が送られる限りソニアによってコントロールされる。

「・・・・・・あ・・・熱いーッ!痛いーッ!」

 しかしこの裏技はテスタロッサ自身が大変つらい。要するに生命力を直接燃焼させている訳なので、全身に焼けつく痛みがくまなく襲うのだ。着地したテスタロッサはソニアからの命令が無くなって自由になり、狂乱したように悲鳴を上げながら、のたうち回って苦しんだ。彼が開いた喉笛の風穴からは、ため込まれた魔力が紫色のガスとなって一気に噴き出していて、大蛇の力は急速に弱まっていく。それでも、動ける限りプログラムを遂行すべく大蛇は最後の力を振り絞り、よろよろと頭を持ち上げ上空のソニアを見上げる。ソニアは短く、

「上出来よ、テスタロッサ!」

 と言ったが、彼は当然それどころではない状況だったので耳に入らなかった。ホウキの舳先を斜め下、大蛇の頭部へと狙いをつけてソニアは加速し、柄を握る手を持ち替えて、両膝をぐっと曲げて空中でエビ反り、真上からのフルスイングの体勢をとって、あとは自由落下に身を任せる。彼女は大蛇に向かってニヤリと笑いかけ、最後に一言、キメの台詞をくれてやった。

「Buonanotte,Bambino(おやすみ、坊や)!」

 ホウキの尾が目映い光で上弦の弧を描いて、大蛇の眉間に渾身の一撃が叩き込まれた。インパクトの瞬間に強烈な真っ白い閃光が弾け、視界がホワイトアウトする。光が止む頃には今度こそ大蛇の姿は跡形もなく消えていた。落下する少女はアスファルトぎりぎりで体勢を整え、振り下ろしたホウキをくるり展開して丁度スノーボードのように両足を乗せ、器用にエッジを利かせて停止する。見渡すと、左手の人垣の中に安田の驚き顔があるのを見つけ、ソニアは地上数十cmをすいっと滑りゆくホウキの尾の縛り目の上、両足のかかとを揃え、両手の指を後ろで組み、腰を曲げ、気取った感じで彼ににんまり笑って見せた。

「どう?格好よかった?」

 安田は口を開けたまま何も言えなくなっていた。聞こえる音は、彼の後ろで報道陣がしきりにシャッターを切るバシャバシャという音と、野次馬のざわめきと、それを必死に食い止める警官たちの怒号、それから、いつの間にか元の姿に戻っていたテスタロッサがアスファルトの上にばったり倒れて上げる低いうめき声だけだった。



7.200本以下の煙草
 

(1)

 報道陣らの、ありとあらゆる方向から矢継ぎ早に突きつけられる質問の雨をソニアは少しも聞かず、ホウキの上に横乗りにすとんと腰掛け、強引にぐいと安田の腕を掴んで引き寄せた。安田の身体は引っ張られるがまま傾いてテープをまたぎ、人垣側からソニア側へと移った。あまりのことに何がどうなっているのか今ひとつ理解できず、ただソニアの濃い瑠璃色の瞳を間の抜けた顔で見上げるしかなく、彼は何かを言おうと努力したが、結局は金魚のように口をぱくぱくさせるだけにとどまった。

「ほら、とりあえず帰るわよ安田クン! こんなところに長くいたら何かしら余計なこと言っちゃうに決まってるんだからっ」

 形のいい膨らみを見せる桜色の唇を耳元に近づけ囁いて、ソニアは安田にホウキに乗るよう促した。とは言え、彼は勿論そんなものに乗ったことはなく勝手が分からない、どうしていいやら迷っていると、後ろから制服の警官が近寄ってきて、君達、悪いが詳しく事情を―――と言いかけ安田の肩に手を伸ばす。それを見ていたソニアはとっさに明後日の方向を勢い良く指さして、

「ああっ、空飛ぶイッチー&スクラッチー!」

 と、デタラメを言って大げさに驚いてみせる。何ごとかと思って振り向く警官、野次馬、報道陣、そして安田。って、キミまで振り向いてどうするの!と彼女は小声で言いながら彼を無理矢理ホウキの尾の縛り目あたりにまたがらせ、あっと言う間もなく警官の手の届かない高度へ昇りホバリングする。大した高度ではなかったが、慣れない安田にとってその10mは、20mにも30mにも思えた。地面を見下ろすと視界がくらくらする程だ。ソニアは背中の革鞄からトランプ大のカードの束を取り出しながら、

「あ、ごめん、怖かったらわたしにつかまってていいわよ」

 と安田に向かって言ってやる。彼もさすがに落ちたらシャレにならないと思い、言われた通り彼女の腰に両手を回したが、その状況は実際、男として情けなかった。確かにこれがバイクなら普通は立場が逆だったろうが、しかし、空飛ぶホウキともなるとそうも言ってはいられない。彼は仕方なく状況を諦めた。

 それにしても―――安田は率直に感想を抱いた―――それにしても、なんて細い腰なんだろう。このまま強く抱きしめてやったら折れてしまうんじゃないかとさえ思える華奢な身体に、安田は思わずどきりとさせられた。こんな少女が、まだ、たった15歳の少女が、あんな大きな化け物を、たった一人で・・・と言ってもテスタロッサも含めてだが、やっつけてしまったとは、今こうしている限り信じられなかった。横顔から見える頬の色合いも、つんとした形のいい鼻も、風になびく黒髪の艶も、細い指も、彼女は確かに少女以外の何者でもない。どこにそんな力が眠っているのか、不思議に思えてならなかった。

 と安田が取り留めもなく考えている間、彼女の手の中のカードは呪文と共に光の粒を振りかけられてA4版大のチラシへと姿を変えていた。それは勿論、ペトラルカウィッチクラフト総合サービスの宣伝用チラシ。<魔法に関するトラブルならばどんなものでも承ります、A級魔女資格試験合格者の安心と信頼がお届けする、ハイスピード・トラブルシューティング代行業!代金はどこよりも安く!がモットーです!早くて便利なPWC、お気軽にご利用下さい!お電話でのお問い合わせは9時から17時マデ。※なお、このチラシは配布後16時間で自動的に消滅する地球に優しいチラシです>と、小洒落たデザインで書かれている。ソニアが指を鳴らせばチラシの束は上から一枚ずつするすると滑りゆき、空中、二人の回りに連なって水平に輪を描いてから、力を失って花弁のようにはらはら舞い降り始めた。

 報道陣と野次馬の手にそれらが渡れば、これ程の華々しい活躍をした彼女を放っておく訳がない。<白昼の怪獣騒ぎ、謎の少女によって解決>とくれば、新聞の見出しとしてもインパクトは申し分なかった。もっとも、ソニアがそんな見出しを目にしたら、「どうして『美少女』じゃなくてただの『少女』なのよっ!?」と憤慨するに違いないだろうが、とにかく、彼女の作戦の真の目的はここにあったのだ。<うちの会社を有名にしてくれる魔法の薬>―――彼女が確かにそう言っていたのを、安田は思い出した。そして彼女は、言葉通りにまんまとそれをやってのけたのだ。
 

 一仕事を終え、ようやくホッと息をついた少女は、指を組み、空に向かって両のてのひらを突き出す伸びをして、んんっと大きく深呼吸し、そよ風のようにやわらかく自然に微笑む笑顔を見せて、くだけた声で部下に話しかける。

「じゃ、帰ろっか安田クン。わたし今日はもう疲れちゃったから、お風呂はいって横になりたいし」

「え、あ、はい」

 とつぜん言葉を向けられて、安田は簡単な返事をするしか出来なかった。気付かずソニアは続ける。

「明日になったらどうせマスコミの連中がどっと押し寄せてくるだろうしね、どのみち、今のうちに休んでおかないと」

「あ、ああ、そうですね」

 と、そこまで至って、ようやくソニアは彼の様子に注意を払う。

「・・・安田クン?」

「は、はい」

「どうしたの?鳩がデンプシーロール喰らったみたいな顔して」

「いや・・・っていうか、だって・・・」

 なにがしかの言葉を口から出して自分の驚きの心情を表現しようとしたが、彼は最早、なにを言っていいものかすらも判断がつかないほどに混乱していた。それを見て少女は口元に笑みをもたらし、少しだけ、可愛らしく首を傾げて、瞳にいつもの魅了の色をたゆたわせ、彼に向け不敵に言い放った。

「このくらいでそんなに驚いてたら、この先ついてこれないわよ?」

 彼女の言葉が冗談の類などではないことは、嫌が応にも伺い知れた。
 

 二人を乗せたホウキは人垣の上空を大きく一回りだけ旋回し、それから一度ゆっくりと加速しながら急激に高度を下げてアスファルトぎりぎりを飛行、ソニアは手を伸ばし、横倒しに動かなくなっていたテスタロッサの首輪をがっしと掴んで、そのままどこかへ飛び去った。その時その場にいた誰もが、はっきりと、その黒い犬が「ぐえ」と蛙を轢き潰したような声を上げたのを聞いた。
 

(2)

 ペトラルカウィッチクラフト総合サービスのたったひとつのメインオフィスは、換気扇が回りっぱなしにもかかわらず、迫水の煙草がもたらす淀んだ空気のせいでリドリー・スコットさながらのスモーク効果に霞んでいた。迫水は相変わらず物憂げな表情で表紙に大きく「奈良・京都」と書かれた観光ガイド系の雑誌を開き、三十三間堂の紹介ページを読み耽っていて、ときどき何ごとか思い出したように呟く。彼女の机の上の銀色のステンレス製灰皿には吸い殻が小さな山を作り、一定の間隔で繰り出される彼女の指の間の煙草が、灰を落とすべく山肌を突いて崩す。加藤は、迫水の白い指の滑るような動き、そして紅い唇の、微かな、それ故に艶めかしい動きを、頬杖をついたまま、何とはなしにではあるが、飽きもせず観察していた。意識せず、そこにいるだけでこうも色気がある女というのは、加藤のこれまでの遍歴から言ってもそうそういるものではなく、そんな彼女と机が差し向かいである以上、少なくとも視覚的に、彼にとってこの職場は悪くない環境だと言えた。

 加藤は何度か迫水に誘いを振ってみたことがあるが、どうにも相手にはそのつもりがないらしい、色好い返事をもらったことは一度もなかった。脈のない相手に無駄な情熱を注ぐようなことはしない彼なので、迫水との付き合いは以降お互い常に一定の距離を保ったものとなったが、それ自体に不満があるわけではなく、まして関係が良好である以上は望ましい状態だった。つまり、彼は迫水を<観賞用>と割り切ったのだ。何も女は彼女ひとりではない、事実、彼は何時でも最低2人は対象をキープしていた。迫水の唇からくわえられていた煙草が離れると、彼女の口は少しだけ開いていて、濡れた舌先がわずかに見え隠れ、それが何とも扇情的に思えた。
 

 さすがに長すぎる沈黙に飽きが来たのか、加藤は退屈を紛らわそうと会話を始めようとする。

「・・・帰り遅いですね、あの二人」

「そうね」

 答える迫水はにべもない。加藤の声に、眼鏡の向こうの視線をどうこうしようとする動きもなかった。手にした雑誌のページをめくる乾いたキレのいい音がして、それから再びオフィスは水を打ったように静かになった。加藤はもう少し粘ろうとして続ける。

「博子さん」

 と彼は呼びかけた。迫水を下の名前で呼ぶのは、社内で彼だけだ。いや、今までも彼女をそう呼べた者は、親族以外にはほとんどいなかった。どこか他人を寄せ付けないような、近づきがたい雰囲気が彼女にはあって、彼女自身も、いつの間にか人から下の名前で呼ばれることに違和感を覚えるようになっていた。しかし、加藤からは何故かその違和感が無かった。それはきっと人柄のせいだろう、彼の嫌味のない接し方は、基本的に人嫌いの気がある迫水にとっても心地よいものだった。改まって名を呼ばれ、ようやく彼女は視線を上げた。

「なに?加藤くん」

「いない時に訊いておきたいんですけどね、正直、社長の事どう思います?」

 かねてからの疑問をぶつけてみた。迫水は聞いて再び視線を下げ、ちょっとして答える。

「・・・いいんじゃない、可愛くて」

「いや、そうじゃなくて」

 期待したものと回答の種類が違ったことに控えめな不満を表明しながら、加藤はわざと言葉尻を切って促した。すると彼女は斜め上の中空あたりを見上げて頭の中で言葉をまとめ上げ、端的に社長の特長を挙げてゆく。

「彼女、魔女として超一流なのは言うまでもないけど、実際あれでなかなか経営力もあると思うし、アイディアも奇抜で面白いし、勝負度胸も大したものだし―――私は、あの子についてくのも悪くないと思ってるわ。ちょっと、やりすぎのきらいはあるけどね」

「ちょっとですみますか、あれ?」

 といって加藤は社長席の後ろの壁の天井近くに掛けられた、横に長い豪華な額を指さした。そこには社長の、太く大きく力強い書き殴りの毛筆で、<目指せロックフェラー!超えろビル・ゲイツ!>と書かれている。つまり、それが彼らの社是だった。社長決定の社是である以上は、彼らもそれに倣わねばならない。まるで冗談のようなそれを目だけで見上げて、迫水は、小さく苦笑のような含み笑いを見せ、おかしそうに例え話をしてやる。

「・・・本田宗一郎って知ってる? ほら、前世紀のホンダの社長の。この人って、小さな町工場の修理工から、たったの一代で世界を股に掛ける大企業家にまで成長したそうよ」

「あの子もそうだ、って言うんですか?」

 半分あきれたように聞き返す加藤に答えて、

「それはどうだか分からないけど。でも・・・」

 と言い、いちいち悩ましげに髪をかき上げ、迫水は続いて本音を口にした。

「内心、ちょっとだけ期待してるのは確かね」

「なるほど」

 加藤は適当に返事をした。二人は目線を合わせ、何故か可笑しくなって、どちらともなく軽い笑いがもれた。二人とも、まさかとは思いつつ、しかし、もしかしたら、という思いが心のどこかにあったのは確かにそうだった。彼らの従う上司、ソニア・ペトラルカという少女の瞳に宿る妖気を帯びた熱っぽい何かが、彼らにそう思わせるだけの要因として働いた。あの子ならあるいは、やるかもしれない。そんな夢物語を頭から信じるほど子供でもない彼らにとっても、彼女の瞳はそれほど不思議な力を持っていた。
 

 それから二人はまた静寂に身を投げ出して、さっきまでと同じ時間のループに入り込んだ。そうなる前の最後の会話は、

「博子さん、煙草もらえます?」

「リベラしかないわよ」

「・・・やっぱり、いいです」

 という、ごくごく短く、大して意味のないものだった。



8.彼女について彼が知っている二、三の事柄
 

(1)

 進行方向に対して右向きの少女の腰に手を回し、と言うよりはしがみつく格好で、安田はそろそろ、飛行するホウキの乗り心地にも慣れてきていた。どうにも安定感が頼りないような気がしてしまい、決して快適と言えるようなものではなかったが、それでも障害物の何もない空を風を切って飛び行くのはやはり気持ちがいい。ソニアは両手で気を失って動かないテスタロッサを抱き上げていて、前を向いていたため安田には表情が見えず、そのせいで彼は少女の様子に気付くのが遅れてしまった。しばらくのあいだ振り子のようにゆっくり小さく頭を揺らし、時折かくんと船を漕ぐのを何度か繰り返してから、彼女は右にぐらり倒れて安田の胸にその頭をおさめた。

「しゃ、社長?」

 安田は驚いた。というのは彼女が寄りかかってきたことにではなく、思ったよりもずっと軽いソニアの体重にだ。目をつむって、逆に口は小さく開き、表情からは安堵のためだろう、力が失せて緩んでいる。よほど疲れていたようで、やわらかい黒髪から流れるシャンプーの甘い匂いに混じって、ささやかな寝息が彼の耳に聞こえてきた。気丈に振る舞っていてもやはり彼女は15歳の女の子だったのだ、大蛇を退治するなどという大仕事をやってのけた後なのだから、それは疲れもするだろう。ソニアは完全無欠などではなかった。安田はそれを知って安心から両肩を下げ、揺り起こすのも野暮だし、少しくらいこのまま眠らせてあげよう、と考えた。あるいは、彼女の不垢な寝顔をもう少し眺めていたかった、というのもあったかも知れない。

 が、少女は当然その手からも力が失せていて、腕の中の黒い犬を抱えていられずに、使い魔の身体は重力のなすがままずるずると地面に向けて引っ張られていく。運の悪いことに丁度その最中に目を覚ましたテスタロッサは、気が付くなり眼下に広がる灰色の世界が遠く離れていることを知らされて思わず素っ頓狂な大声を上げ、その勢いでソニアの手から離れてしまった。

 声に気付いて安田が手を伸ばすのがあとコンマ6秒遅かったら彼は今頃つぶれたトマトになっていただろう。安田はホッとして息をついたが、しかしテスタロッサの不幸はまだ続いていて、後ろから掴まれた首輪が彼の呼吸を遮り、苦しくても声が出ないので安田に向かって自分の状態を訴えることもできない。ただバタバタと変にもがいてみても余計に体力を奪われていって苦しさは増すばかり、そのうちテスタロッサはぐったりと脱力し、重力に対して完全に無抵抗になってしまう。せっかく目を覚ましたというのに、安田が体勢を崩さないようゆっくり慎重にその黒い身体をサルベージした頃には、彼はソニアの腕の中にいたさっきまでと変わらない状態に逆戻りしてしまっていた。
 

 ところで、ホウキの上の三つの意識体のうち、ひとつだけはっきりとした認識を維持していた安田は、自分たちの高度がいつの間にか低くなっていることに気が付いた。それは恐らく、ソニアという術者、運転手を失ったホウキが惰性での飛行に飽き始めていることを意味しているのだろうということは、魔法に関しては素人同然の彼にも何となく想像はついた。

 ―――このままだと、もしかして、墜落する?

 そんな考えが頭を過ぎって急に彼は薄ら寒くなり、助けを求めるべくソニアを起こそうとしたが、優しく呼びかける程度では少しも効果なく、肩を揺すってみてもまだその目を開く気配はない。手の甲で薄桃色の頬をひたひたと軽く打ってやると、彼女は「う〜ん・・・」とうなって安田の手を払いのける。どうあっても起きるつもりはないらしい。安田は呆れて溜息をひとつついた後、いきなりソニアの耳元で大声でどやしつけた。

「社長ーっ!起きて下さいっ!」

 言われて少女もさすがに薄く目を開いたが、

「ん・・・あれ? なに、なんで・・・安田クンわたしの部屋に・・・? 呼んだっけ・・・?」

 などと今ひとつ焦点の定まらない視界をごしごしこすりながら寝ぼけて言うばかりで、これでは状況は寝ているのと少しも変わりなかった。しかしせっかく掴みかけた尻尾を離さぬようにと、安田は何としてでも上司の目を覚ますべく、ぼそりと小声でカマをかけてみる。

「・・・あ、浅野忠信」

「どッ、どこどこ? ファンなのよわたし!」

 効果は劇的だった。ほとんど反射的に彼女はがばっと起きて辺りを見回したが、ようやくそこが浅野忠信などいない空の上だと気が付いて、彼女は狭いホウキの上にもかかわらず身を乗り出して安田の襟首を掴みあげてきた。

「う〜、嘘ついたわね安田クン!」

「言ってる場合ですか!それよりホウキの高度が落ちてるんですよ、どうにかして下さい!」

「え?あ、あれ? 何でだろ、自動飛行モードにしといた筈なのに・・・。もしかして今日は無茶な機動させたから負荷かけすぎて調子悪くなったのかな・・・? その上いま二人乗りで、しかも犬付きだし・・・うーん・・・・・・重い、かな。やっぱり」

 なにがしか調べた様子で彼女はひとりごち、安田に向かって力無く笑いかけた。途端、ホウキの全体がバランスを崩してがくんと下がり舳先は鋭く斜め下を向く。すると高度低下のスピードが心なしか上がったように思えて、やはり徐々に加速していく。

「わーっ!落ちる、落ちてますよ、これ!」

「ええっと・・・。と、とりあえずあの公園に不時着するわよ!」

「不時着って・・・」

「ごめん、ちょっと覚悟してね安田クン!」

「覚悟って・・・!」

 それからきっかり12秒後、ホウキと二人と一匹は、悲鳴と共に無人の公園の砂場の中に突っ込んだ。
 

(2)

「買ってきましたよ、烏龍茶」

「あ、うん。ありがと安田クン」

「テスタロッサは?」

「まだ寝てる。わたしの下敷きになったのが効いたみたいね、さすがに」

「あれ、社長、足どうしたんです?」

「うん・・・ちょっと挫いちゃったみたい。さっき落ちたとき」

「大丈夫ですか?立てますか?」

「立つのは何とか。でも、歩くのはちょっとね・・・・・・あ、ねえ、安田クン」

「はい?」

「おぶって」

「怒りますよ」

「いいじゃない、減るものじゃなし」

「社長こそホウキに乗ればいいじゃないですか、一人乗りなら何とかなるんでしょう?」

「けど速くは飛べそうにないもの。あれって長いこと乗ってると結構おしり痛くなってくるのよねー」

「はぁ」

「だから、ね、おぶって。安田クン、これ社長命令よ」

「・・・参考までに聞いておきたいんですけど。応じないとどうなります?」

「給料減らす」

「それって脅迫じゃないですか! 分かりましたよ、おぶりますっ!」

「あ、でも、どうせならさ」

「何ですか今度は」

「わたし、<お姫様だっこ>の方がいいな♪」

「・・・本当に怒りますよ」
 

(3)

 まったく、どうしてこの子はいつも僕にばかりわがままを言うんだろう? 下手な大人よりもずっとしっかりした芯の持ち主だし、普段なら誰かに依頼心を発揮することなんてまずあり得ないのに、なぜか僕に限ってはその普段から外れるらしい。勿論、それが少なくとも好意的な意味合いである以上は素直に喜ぶべきことなんだろうけど、彼女はほとんど、僕に対して無邪気に甘える子猫のように喉を鳴らして懐いてきては、無茶な要求ばかりする。
 

 昔から、僕が苦手とする人は大勢いたのに、僕を苦手とする人は一人もいないようだった。お人好しすぎるきらいがある、という自覚はないでもないが、そのせいでいつも損ばかりしていた気がする。人からいいように扱われるのは実際あまり気分のいいものではない。しかも結局は言葉だけのお礼で誤魔化されたりするのが常で、僕自身がいい思いをすることなんて本当に滅多になかった。そういう星の元に生まれついた者は仕方がないのかも知れない、そう考えて諦めようとした事も何度かあったけど、さすがにそこまで受け容れてしまう程のお人好しではそれこそこの先ろくな事がないように思えて、僕はいつも中途半端だった。

 いつも誰かに利用されてきた気がする。いつも誰かの荷物を持っていた気がする。そんな自分が好きではなかった。

 でも、何故だか彼女のわがままは、悪意が全く無いせいか、利用されてる訳じゃなくて、純粋に頼られているんだということが分かって幾分か嬉しく思えるのも事実だった。考えようによっては、彼女が素の自分をさらしてくれるのが恐らく身内以外で僕だけ、というのは確かに悪い気はしない。相手が可愛い女の子となればなおさらだ。彼女から好かれているなら、今までどうにかしたいと思っていた自分の性格も、このままでいいのかも知れない。最近ではそんな風に考えるようになった。
 

 彼女には父親役が必要だ、と迫水先輩は言っていた。少し特殊な事情があって彼女の父親は10年前から行方不明なのだそうだ。付け加えて言えば、彼女の父親は実は父親ではない。と言うと誤解を招きそうなのでもう少し説明すると、血縁上ではともかく、少なくとも戸籍上では赤の他人なのだそうだ。いわゆる冒険家のその人は、職業柄も性格上も、およそひとところに定住できるような類ではなかったのだろう、気が付いた頃には彼女と彼女の母親を置いて蒸発してしまっていたそうだ。彼女はどうやら、その父親の影を追って日本まで来たということだった。

「あいつに捨てられて、お母様は泣いてたわ。気の強い、わたしの前で泣いた事なんて一度もなかったお母様が―――だからわたしは、あいつを許さない。絶対に、どんな事してでも見つけだして、最低でも5〜6発はぶん殴ってやらないと気が済まないの!」

 10年もの間冷めない怒りなのだから、相当なものなのだろう。彼女が大規模な経済力を求める動機も、ひとつはそのためらしい。もうひとつは、父親無しで育った自分でも世界の偉人に名を連ねる事が出来るということを証明し、これまでに母子家庭で育ったということで自分を馬鹿にしてきた連中を、それから何より父親に向かって胸を張って威張り散らしてやる、というもの。何とも彼女らしいと言えばらしい負けん気の強さは、僕もちょっと憧れる。

 いちばん父親の愛情が必要だった時期にそれを受けられなかったのがどんな気持ちなのか、僕には分からない。そんな僕が彼女の父親の代わりになってあげられる自信は全く無いし、彼女だって大きなお世話だと思っているに違いない。でも、彼女の目指す野望を手伝うために、こうして僕の人生を分けてあげるのも悪くないと思う。思うようになったのだ、彼女と接しているうちに。彼女の瞳には、そう思わせるだけの力強い何かがある。

 ・・・いや、もしかしたら、魔女の魔法にかかってしまっただけなのかも知れないけど。
 

「安田クン」

「はい」

「あんまり揺らさないで、胸が潰れる」

「おぶってあげてるだけでも有り難く思って下さい」

「・・・ねえ、あのさ」

「何です?」

「やっぱり、<お姫様だっこ>・・・」

「いい加減にして下さいっ!」
 

 43kgしかない彼女の体重は、果たして僕にとって重いのか軽いのか、今はまだ判断に迷っている。
 

(4)

 ―――ちなみにテスタロッサは、彼女が言うので置いてきた。何でも、帰巣本能があるから大丈夫らしい・・・本当だろうか?
 


魔法少女 ストレガソニア(1)
−大怪獣空中決戦−
DATE:99/12/14(Tue) WRITING and EDITING:Johnnie the Fire
BELONGING:[ Committee for Eating 3 Owans of MESHI with Gal games ]