ナナ日記を終えて−俺とナナたち−
広井王子によって食い潰されたバージンフリートは無かったものとして、
今川泰宏監督にとって、はじめて本格的に「女の子」と取っ組み合ったアニメ 『七人のナナ』。
それは小生、炎のジョニーにとっても、はじめて本格的に取っ組み合った「女の子」アニメでした。最終回を迎え、ナナたちが心の決着をつけたように、こちらとしても気持ちの整理をつけたい。
( ネタバレが嫌な場合は読まないように )
「な… なにィィイイイ―――ッ!?」
叫んだ。最終回のドンデン返し、消えたはずのナナたちが桜の陰からひょいひょいと次々に顔を出していくシーンで、阿呆のようにアングリ口を開けたまま、まるで絶対の自信のもとに放った必殺シュートをSGGK若林源三になら兎も角、よりによって石崎くんの顔面ディフェンスで止められた高橋陽一キャラのように、炎のジョニーは叫んだ。不覚にも無防備すぎた。あの今川泰宏が、我々ごときの予想する在り来たりな展開どおり話を締めるなど、そもそも有り得なかったのだ―――。
後頭部をレンガで殴りつけられたような気分で混乱しながら、しかしナナたちの満面の笑みに心ほだされ、あぁなんかよく分かんねーけど、これで良かったんだな。うん、良かった…のか? えぇと待てよ、だって神近は… いや、しかし… あれっ? もう何が何だかワヤになった脳で必死に状況を整理しようとしてもサッパリ考えがまとまらなかったので、とりあえず、その日は何だか釈然としないものを抱えつつ寝ることにしました。
なのに翌日、落ち着いて色々と考えてみると、この最終回を超える終わり方は無かったんじゃないかと思えてくるから不思議です。というのは、改めて第一問を見返してみて、そのスチャラカながらも明るく前向きな元気の良さこそが『ナナ』の骨組みだと気づいたから―――七人が消え、しんみりと涙して、なんていう終わり方は、七人のナナたちには似つかわしくないものだったと気づいたからです。何より、そりゃ漫画版の方でキレイにまとめちゃったもんね。
ナナが元の一人に戻ることで成長すべきだ、と思い込んでいたのは、第三問での瞳いわく「小さい頃は色んなナナだった」…つまり、それぞれの個性はナナの幼児性の象徴だと思い込んでいたせいでした。なるほど作中での彼女らの無邪気で天真爛漫な行動は全くコドモそのもので、それにナナが振り回されつつも一つ一つのことを大切に学んでいく―――そんな話が大筋だったのでナナ一人の成長にばかり目を奪われていたのですが、しかし、成長していたのはナナだけではなかった。ナナが少しずつ何かを学んでいく陰で、もちろん他のナナたちも同じように成長していたのです。2クールかけての大がかりなミスリーディングに、まんまと引っかけられてた訳ですな。
( だって大抵の問題解決に他のナナたちは役に立ってなかったし!
そう思い込んでしまうのも、こりゃ無理からぬことじゃあないですか! )つまりナナは、プリズムの力で一人の自分に戻らなくても、すでに自分の様々な可能性それぞれが、「一個の自分」としての成長を経ていた。六人の分裂ナナは、もはや単なるクローン・バリエーションではいられなくなっていた、というわけです。
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「もし俺のクローン人間がいたとして、
そいつがハンバーガー以外、食ったことがないとしよう。
そいつと俺は遺伝子的には同じでも、まったく違った人間になるはずだ。
ハンバーガー・スパイクは、俺よりも怒りっぽいかも知れないし、
日曜には教会に行くような男かも知れない。
凶暴な賞金首かも知れないし、
Yシャツにはアイロンを当ててから着るような男かも知れない。
いずれにしても、ハンバーガー・スパイクは俺とは別人だ」( ―――『CowboyBebop』 SessionXX よせあつめブルースより )■
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しかも、これが自分と同一の別人を常に認識した状態であれば、個体の差異化は、より明確になって当然のこと。彼女らが消えずに残っていたことを御都合主義と切り捨ててしまうならば、かえって漫画版のように、消えて一人になる展開の方が御都合主義と言えるのではないか。もちろん、この場合どちらがどうだという問題ではないのですけれど。漫画版では、はじめからナナたち七人は外の世界…学校であったり家族であったり、という“社会”に対して、七人いっしょに関わっていました。
それは返せば、彼女たち七人が「全員で一個の人間」として様々な経験を経たと言えます。七人かたまってゾロゾロ登校する様子なんかを見れば一目瞭然。そんな特殊な状況で過ごした一年だからこそ、最後に七人は元の一人へと戻ることができた、と考えてみる。
しかしアニメ版では、ナナ以外の六人の存在は最後まで隠し通され、その正体を知るのは限定的に心を開ける祖父と親友の瞳だけであり、彼女たちは原則、部屋の中に押し込まれ、両親にさえ正体を打ち明けることはありませんでした。
これは、考えてみれば我々と何ら変わることのない状況ではないですか。外の世界に応じては当たり障りのないペルソナを立て、自分の部屋に帰れば色んな自分を持っている。時にはナナ以外の誰かが外で事を起こしてしまう―――自分の思いも寄らないことをしてしまうことだって、この時期、誰しも身に覚えがあるはずです。
かつ、それぞれの自分はナナという存在で繋がり、それぞれの個性を大事に育てながら、それぞれの方向へと歩み出していた。“鈴木ナナ”ではなく、“ナナっぺ”であったり“ナナさま”であったり“ナナっこ”であったり… それが証拠に、最後のプリズムパワーで八坂扇へと翔ぶ前に、ナナが六人に向けた言葉は、彼女らを受け容れ消化するものでなく、それぞれを一個人と認めるものだった。そして彼女らの同一にして最終の目的『神近くんへの告白』の達成をもって、ついに七人は“鈴木ナナ”という括りから離れ、地に足の着いた一個の個性として自由意志のもとに解放されたのです。
…高校デビュー? 今日から俺は? んー、まぁ、そんなもんかな。違うか。
第一問の冒頭に鈴木家の玄関から始まって、最終回ラストシーンで鈴木家の玄関へ終わっていったのは、つまりスタート地点への回帰を意味しながら、七人それぞれが改めて新しいスタートを切ったことを意味するのだと思うのです。いわば、ただ元の木阿弥なふりだしにもどるではなくて、あがってからの二周目である、と。そして、そこには神近くんもいる。もう鈴木ナナ一人だけの物語ではないのです。
だからして、これを「何だよ、けっきょく他の萌えアニメと同じハーレム展開かよ! 神近てめェ殺す!」と御都合主義の一語で断じてしまうのは、ちょっと違うんじゃないかと思うのですな。
…いや、確かにスゲェ羨ましいけどさ神近。だってよう、七人だぜ、七人。数えるにしても片手で足りねーんだぜ。ちっくしょー、どうせ俺は恋の負け組ですよーだ! うわーん!
かつてナナ日記十四問で、ナナのことを「ここ最近の歪んだ萌え市場に一石を投じるアニメだ」と看破したのは、やはり間違いではなかったと思っています。これが、たとえばナナ日記ではなく、ラブひなや藍より青しであった場合、炎のジョニーは恐らく、三話も視聴しないうちに木刀でテレビごと叩き壊して窓から投げ捨てていたか、さもなければ苦痛に耐えきれず書き置きを残して失踪していただろうことは想像に難くありません。それほど自分は
優しさ以外は何の取り柄もない軟弱偽善野郎が
複数の多彩な女の子に並行して惚れられて女難などという、もはやキーボードをタイプするのもおぞましい話が、とことんニガテなのです。じゃあ、なぜナナは平気で視聴を続けられたのかと言えば、もちろん今川イズムのハイパーな演出も目当てではありましたが、それだけでなく、ナナたちが意味もなく神近くんにベタベタしたりしない、いざチョコを渡すとなれば勇気が出せずに役目を押しつけあったり、ただ手を握るってだけで大騒ぎしちゃったり、女の子の“積極的になれない臆病さ”を、キッチリ描いていたからではないかと思うのです。
自分に無条件の好意を寄せてくれる積極的な女の子しかも複数なんてのは、男にとって都合の良いだけの妄想の産物。それは確かに純粋な需要として存在するけれど、そんなもんはエロ漫画やらエロゲーやらで消費してりゃいいだけの話。職業に貴賤はないし、どんな仕事も平等に尊いけれど、しかし仕事に対する姿勢には貴賤が存在することを、そして果たして自信を持って貴い仕事をしているかどうか、すべての表現者は常に考え続けるべきではないのか。
現実にフィードバックできないファンタジーは、ファンタジーではない―――それは単なる幻影であり、妄想にすぎない。いつまでもそんなもんに誤魔化されてるだけじゃ、所詮オタク野郎なんざ搾取されるだけのブタと変わらんぜ。よく考えて判断しな。それが出来なきゃオタクじゃねえ、ただのダメ人間さ。
ナナたちは確かに惜しみない愛をもって描かれ、ただ消費されるだけのアイコンではなかったことは、最後まで視聴した我々が最もよく知ってます。だからこそ、この作品は正当に評価されなければならない。なんたって、スチャラカ気分でネタに始めてネタに終わらせようと思ってた炎のジョニーにさえこんな文章を書かせてしまうほど、この『七人のナナ』というアニメは一筋縄ではいかなかったのですから。
商業的に相当キビシそうではあるけど、純粋に“うごく画”としてのアニメ本来の魅力を、また旧き良き懐かしき“まんが映画”的な輝きを、今風の流行要素を潔く排しながらも、しかし単なる後ろ向きな懐古趣味としてでなく、しっかり地に足の着いた新たな作品として作り上げた今川監督の手腕を、ここに改めて再確認しておきたい。とりわけ第一問、九問、十七問、二十三〜二十五問あたりの出来に関しては、ちょっと本気で後世に語り伝えたいと思うのよ、いやマジでマジで。
―――なにはともあれ、これで大体の言いたいことは吐き出せたので、このテキストをもって俺の中の『七人のナナ』を完結としたい。と言い切っちゃうのも、すこし淋しい気はするんだけどさ。
ん? あぁ、いや違った。ナナたちの物語は、まだ終わってなんかいないんだった。
「すてきな一年だったね… そして、これからも一緒に…!」
大学受験も元気よく頑張れよ、鈴木ナナ!
…でもさぁ、やっぱり尺たりてねえよなぁ。神近のことだって、あのラストじゃ「いくら言い寄っても振り向いてくんない女なんか、もういいや。こうなりゃ手頃な女で手ぇ打っとくかゲハハー」と思われても仕方ないんじゃねーのかね。俺もここ(の6/29)読むまでイマイチよく解んなかったし。どう考えても不親切な説明不足だろ。
せめて、あと2話か3話、でなきゃ最終回で45分は欲しかったよ。あぁ勿体ねえ。
ナナ日記を終えて−俺とナナたち−DATE:02/06/30(Sun) WRITING and EDITING:Johnnie the Fire
BELONGING:[ Committee for Eating 3 Owans of MESHI with Gal games ]
