(4/4)

1 2 3 4

原作……E.T. シートン著、藤原英司訳
『ジェ イボウダーンの鬼オオカミ』
(集英社刊 「シートン動物記5 歴史に残る動物たち」収録)

(投下時期…05/07/21)



 ちょっと解説 :

  ジェヴォーダン…Gevaudan。パリから南下すること約400km、中央高地のほぼ真ん中の山間に位置する。参考


 <ラ=ベート >……フランス語で<獣>の意。鬼畜 王、あるいはセバンヌの狼とも呼ばれたこの恐るべき<獣>は、しかし、その正 体について狼であるという確証は当時なかった。近年では犬と狼との混種であったとする 説が一般的(パリの狼王クルトーも同じく)だが、実際どうだったかについては、もはや確認するすべもない。ものの本によるとチュパカブラやモケーレ=ム ベンベと同じようなUMA扱いされることもありますが、まあ自分も狼と犬(超大型犬)との混種だと思います。本来、狼は非常に警戒心が強く、いかに飢え ても彼ら自身から人間 に対して攻撃性を発揮することは稀な事例とされます。たいていの人食い狼は、犬と交配することで人間を恐れない狼犬が誕生し、その先導によって人を襲うよ うになるか、あるいは狂犬病 の感 染かのいずれかである可能性が極めて高い。二年以上に渡る<獣>の活動期間からして狂犬病という線を除外すると、やはり狼犬であったとみるの が妥当だろうと 思います。


 人狼<ル=ガルー>……狼の体に人間の知恵をもつとされる悪魔の獣。半人半獣。ライカンスロープ。おそらくは<獣 >が、あまりにも神出鬼没で、何十人も人間を喰い殺しているのに、ほとんど誰もその姿を正確に目撃しえなかったことから、悪魔が人に化けて我々の中 に紛れ込んでいるのだ、といった類の噂が流布したものと思われます。それは勿論、本来的に狼が非常に用心深く、獲物が群れから離れた隙をついて狩りを行っ たためと思われますが、あるいは当時の混乱した国内事情を鑑みれば、単なる行きずりの物盗り殺人なども<獣>のせいにされてしまった可能性も 否定でき ない。人間というのは都合の悪いことは何でもかんでも架空のワルモノを創りあげて責任転嫁したがるものです。本当の悪魔の存在が一体どこにあるものか、そ れが少なくとも<獣>の正体と同一でないということだけは確信を持って断言できます。ちなみにパリのクルトーもカランポーのロボも当時 <ル=ガルー>と呼ばれていたそうで。まったく、どいつもこいつも…。

 ちなみに鬼畜王の正体に関する考察については補追も参照されたい。


 賞金額の相場……原作での表記によると「賞金はオオカミの頭の皮一枚につき、十ルーブルだった。オオカミの子を十一匹殺したので、 十ルーブルの十一倍、すなわち百十ルーブルの金が、彼らの家にころげこんだ。それだけの金があると、三年前には五十五頭ほどの羊を買うことができた」…と あ ります。かなりの財産ですな。この「三年前には」というのは、後述しますが、当時ルイ十五世統治下のフランスは 経済が破綻寸前で、かなり物価が不安定だったらしいことに由来すると思われます。ですから、ひとくちに三万ルーブルといっても、この間に五 年ほどの開きがあるので、ルーブルの価値が同一であるとは言い難いわけです。それにしたって超ドすげえ大金であったには違いないけど。


 ルイ十五世……<太陽王>ルイ十四世の曾孫。父はルイ・ド・ブルゴーニュ、母はサルディーニャ王ヴィットリオ・アメデオ二世王女マリー=アデライド=ド=サ ヴォワ。1715年に、わずか五歳でフランス王として即位。先代の<太陽王>ルイ十四世は、地理的、質的にも欧州の中心的国家としての 近代フランスの国体および軍制、しいては近代軍制そのものの礎を築いた稀代の戦略家であり、また外交手腕にも優れた、晩年の本人の告解によると「戦争を愛 しすぎ た」王であったが、幼少の頃からフランス一の美男子と謳われたルイ十五世は国政や軍事には大して興味がなく、多くの愛妾や寵姫たちとの放埒な日々に愉悦を 見出すのみであったため、後世<最愛王>と呼ばれる。
 ルイ十五世統治下のフランスでは、摂政や宰相や彼の愛人が政治の実権を奪い合い不 正や汚職が横行し、また無理な国体改革の失敗が相次いだため、恐慌や財政破綻を引き起こすことも度々あり、これらは後にフランス革命やナポレオンの台頭を 市民が支持する直接的な要因である“王政への 不満”を一気に高まらせることになる。
1774年5月、天然痘のため崩御。遊興に耽溺し国政を省みることのない在位59年間であった。

 ジェヴォーダンの大巻狩りに関しては、作中では「国を挙げての総力戦を余儀なくされていた」とは書いたものの、実際のところは最愛王の度を過ぎた道楽の 一つということになるだろう。あるいは、七年戦争でインドおよび北米大陸での領土と権益のほぼ全部を失った分の汚名を返上したかった意図があったのか…… どちらにせよ、最愛王にとってこの大巻狩りは、彼の浪漫を掻き立て興奮を誘う一世一代の刺激的な猟であったことは間違いない。おそらく世界中のどこにも、 これ程の規模で猟を行った王はいないはずだしね。


 ひとりぼっちの狼王……じつはこのフレーズが書きたかっただけかも知れない。孤独というのは、いつの時代も物語のテーマとして興味を刺激 する、書き手にとっては非常に魅力的なモチーフです。


 
原作の引用……四枚目の後半は原作の最後を飾る一文。はっきり言って、この文にわずかでも匹敵できうるようなものは、少なくとも 今 の自分にはとてもじゃないけど書けそうになかったので、思い切って引用でシメさせて頂きました。読み返せば読み返すほど、ここまで非の打ち所のない、震えが来るほど恐ろしい美しさのある名文は そうそう書ける ものじゃあない。


 狼王……いちおう 今回で三部作としての格好がついたので、最後にまとめをひとつ。シートン先生いわく、オオカミの中にも色んな性格のものがいて、野生動物であるからという 理由だけでは、誰もが英雄のように誇り高く振る舞えるわけではない。それは人間に様々の性格があることと何ら違いのないことで、また人間の能力にも様々な 個人差があるのと同様、オオカミの能力にも、やはり様々な差がある。しかし差があるとはいえ、どれだけ足掻いたところで人間はハトやカラスのように羽ばた いて空を飛ぶことは出来ないし、マグロのように気の遠くなる距離を息継ぎもなく泳ぎ続けることは出来ない。オオカミとて同じこと――― いかにロボやクルトーが我々の想像を絶する天才的な知恵と技量を誇った としても、彼らは他の多くのオオカミたちと比べてそれほど大きく変わることはなく、決して魔物だとか怪物だとか、そんなようなものでもありえない、まさに 「名も無きオオカミ」のうちの一頭にすぎないのです。

 シートン先生の著作の多くは、そうした名も無きものたちへの溢れんばかりの慈しみの視線に満ちています。それまで誰も気にしなかったような世界に着目し て興味を見出し、そしてその世界の誰もが名も無き英雄であり、また同時に英雄などという幻影は我々の愚かな頭の中にしか存在しえないものだと気づかせる。 世界中の多くの動物学者は、野生動物を観察し、研究し、かれらについて学べば学ぶほど、より人間と自分自身を深く理解できるようになるということを知って います。何かについて学ぶということは、同時に自分自身の心の有り様を見つめることでもあるのです。シートン動物記が世界中の小学校の図書室に、ほとんど 必ず並んでいる理由を、自分は最近になってようやく少しずつ理解できはじめているような気がします。

私は野生動物の物語が好きだ。
それは、ひたすら己れの生き方を生きることに よって滅び、
滅びることによってのみ己れの存在を主張する ものの挽歌であり、
その供犠を見つめる人間の心の詩(うた)でも ある。
――― 白 土三平



DATE:05/07/24 (Sun) WRITING and EDITING:Johnnie the Fire
BELONGING:[ Committee for Eating 3 Owans of MESHI with Gal games ]