評、ジョン・ウー

小生こと炎のジョニーが心の底からシビれて已まない、この世で最もリスペクトする男。

ジョン・ウー。

あまりにも好きなので、大学の授業でレポートにまとめてしまいました。

で、それが理解ある教授に恵まれ、かなりの好評価を与えられたうえに、
じつは我ながらナカナカの自信作でもあることだし、この場をお借りして
WEB上に公開してジョン・ウー世界の真の素晴らしさを啓蒙していけたら、
嗚呼なんと素敵なことではなかろうか、と。そういう訳なのです。ええ。

いや別に決して
「ネタが無いから在り合わせでゴマカシちまえ」
てな運びではなくですよ? マジでマジで!

とにかく、以下に示す内容は小生のオリジナルです。ほぼ。

よって何か間違ってる部分もあるかも知れませんけど特に責任とんないのでゴメンなさい。

では、お楽しみ頂きたい。



1.大系に見るアクション映画

 ジョン・ウーといえば、昨今ではハリウッド大作『M:I−2』の監督を任せられるほどにノシ上がった売れっ子だが、残念ながら『M:I−2』には香港時代からの彼の持ち味、つまり「ジョン・ウーらしさ」が技術的な部分でしか発揮されていなかった。その理由は簡単、『M:I−2』の製作総指揮にして主演を務めたトム・クルーズが、まさにハリウッドの申し子、筋肉社会アメリカの申し子、そして体育会系の寵児だったからである。

 アクション映画は、乱暴にいえば三種に分類することが出来る。

 一つは「体育会系アクション」。現在のアクション映画界におけるメインストリームであり、その主な特徴は、主演男優の逞しい筋肉、激しい爆発や、度肝を抜く奇抜なアクションなど、映像自体の派手さ、映える画を見せつけることを目的とし、視聴者に有無を言わさず強引に「楽しませてしまう」タイプの、ハリウッド産アクション娯楽大作に多く見られる。有名な作品では『ダイハード』『ターミネイター』などがそれで、たとえば元ボディビルダーのアーノルド・シュワルツネッガーは言うに及ばず、近作『アルマゲドン』では穴掘り土方のオッサンを演じたブルース・ウィルスなどに至っても、もはや説明の必要すら感じられぬほどに全身「体育会系」であることが知れるだろう。実際、アメリカ人の筋肉に対する執着は日本人の想像を絶するものがあり、それは、宗教的な盲信にも匹敵する絶対的な価値観の一つなので、ハリウッド産アクションが体育会系なのは、お国柄としての必然が非常に濃いと言える。

 もう一つは「理系アクション」だが、これは需要とアイディアの関係上、少数しか存在しない。その中で抜群の人気を誇るのが『冒険野郎マクガイバー』だろう。これは映画ではなくTVドラマのシリーズだが、主人公マクガイバーが毎回ピンチに陥り、その度に理系的な知識を応用した機転(たとえば酸をチョコレートで中和したり等々)で危機を脱するというもので、そのスリルによって、推理小説にも似た知的興奮を刺激することを主な目的とする娯楽アクションである。細かな理系的アイディア自体は他のアクション作品でも応用されることはあるが、それ自体を主体にして作品を作るとなると、その難易度は想像にかたくない(『インディ・ジョーンズ』シリーズなども、これに分類できるかも知れない)。

 最後の一つは、ジョンウーはじめ香港ノワールが明確にカタチにしたものだと思われる、いわゆる「文系アクション」である。しかし元を正せば、J・P・メルヴィル監督の『サムライ』『いぬ』に代表されるフレンチノワールや、日本の仁侠映画などの多大な影響から香港ノワールが生まれたこともあり、文系アクションこそがアクション映画の始祖であった、とも言えるが、そもそも映画自体が文系の産物なので、それは当然ともいえる。文系アクションにおいて、アクションはあくまで娯楽の目的ではなく、語るための手段である。その神髄は叙情にあり、人物の情感こそがテーマ、メッセージなのである。

 トム・クルーズは、ハイスクールでアメフト部に所属し、しかも花形ポジションであるクォーターバックを務めていたそうだ。そんな生粋の体育会系人が、文系の人ジョン・ウーと深い部分で完全に解け合うことは難しいのではないだろうか。事実、完成した『M:I−2』は、無敵超人トム・クルーズが大怪我一つ負わずに悪者たちをコテンパンに壊滅させるという、ひたすらトム・クルーズが自分の強さと色男ぶりをアピールし続けるだけのプロモ映画でしかなかった。これは脚本に叙情が存在しなかったためでジョン・ウーのせいではないが、筆者は『M:I−2』は完全な失敗作だった、と考えている。無論、ハリウッド最新のアクション技術とウー監督の映像センスが融合したアクションシーン「だけ」は最高に素晴らしく、身体の震えも抑え切れない程だったが。

 『M:I−2』には、致命的に「ジョン・ウーらしさ」の神髄−−−詩的な叙情−−−が欠落していた。いや、ハリウッドに渡ってからウーに与えられた脚本には、すべからく彼の持ち味である<アジア的な義理と人情の世界>というものが描かれておらず、このことからも、ハリウッドで映画を商品として売る側の人間には、まだまだアジア的な世界観は受け容れられていないし、ジョン・ウーを「質の高いアクション映像を撮れる職人監督」という側面でしか評価していないように思われるのである。またハリウッドでは、プロデューサー、スポンサーの意向が<商品>に大きく反映されることもあり、香港に比べて現場の人間に与えられる自由に制約が多く、そのことでウーは苦い思いを幾度も経験させられているに違いないのである。

 これではいけない。ジョン・ウー映画の世界に熱狂させられ、大げさな話、人生観すらも変えられてしまった程のファンの一人として、彼の映画の真の魅力を正しく評価し知らしめる必要を強く感じながら、以下に「ウー香港黄金期」の傑作を取り上げることで、彼の世界を示していくことにする。
 

2.ジョン・ウーの歴史

 86年『男たちの挽歌』は、奇跡が生んだ映画である。ウーは監督として成功してから直ぐ後、ひどいスランプに陥り台湾へと左遷させられた経験がある。台湾では、彼はまともに映画を撮らせて貰えず、まるで屈辱的な扱いを受けたという。その屈辱の思い出は香港復帰第一作、捲土重来の『男たちの挽歌』にて凄まじいまでの爆発力となって発現する。『〜挽歌』の主人公マーク(チョウ・ユンファ)は親友への仁義と誇りのために勝ち目の薄い復讐を実行するが、結果、足を撃たれ不具となり、職を失い、誇りも体裁も全て投げうち、憎き仇敵の下で浮浪者のような掃除人として働きながら、それでも今度こそ復讐の機会を狙う。これは台湾での、そして幼少時の貧困と暴力と屈辱の中で育ったジョン・ウーの姿そのものと重なる。

 国共内戦の混乱期に生まれ、生年月日すら不詳であるジョン・ウーは、幼少時に路上生活の経験さえもし、耐え難い貧困と、そしてスラム街を支配する黒社会の暴力に毎日のように脅かされていた。いともたやすく尊厳を踏みにじろうとする凄まじい屈辱にまみれながらも、彼は両親の影響もあって敬虔なクリスチャンとして正しいものを信じ、そして映画によって様々な世界を知り学んで見聞を広めた。彼の映画は暴力表現が過激すぎる、サディスティックだ、と誤解される向きも多いが、彼自身は、誰よりも反暴力・平和主義を高らかに謳わんとする「愛と正義の人」である。実際、インタビューや記者会見の会場でも、しつこいくらい愛と平和の大切さを繰り返し唱え、記者の方が赤面してしまう、といった場面もしばしば見られるらしい。彼は暴力から目を逸らそうとしない。暴力と真摯に向き合い、決して屈せず、真っ正面から戦おうとしているために、映画には過激な暴力が満載され、見る人によっては眉根にシワを寄せられてしまうのだろうが、筆者などは、ウー映画ほど哀切に「平和」を信じ抜く世界を知らない。平和とは、罪もない人々の尊厳を踏みにじる理不尽な暴力に対する深い怒りと哀しみからしか生まれないものであり、暴力を描かずに真の平和を描くことなど出来はしないのである。

 台湾で彼が受けた屈辱がどれほどであったかは想像するしかないが、『〜挽歌』全体を覆う、気も狂わんばかりの情熱と爆発力からは、少なくとも本作に懸けるウーとスタッフ達の意気込みの凄まじさだけは嫌というほど知ることが出来る。撮影現場はまるで戦場のように殺気立ち、異常な緊張が息苦しいまでに張りつめていたと当時の関係者は語っているが、そうでもなければ、あの何か恐ろしいものでも憑いたような鬼気迫る作品は完成しなかっただろう。

 87年『男たちの挽歌2』は、実質的には資金難に陥っていた配給会社シネマシティを救済するための「お祭り映画」だった。ウー本人は、「失った誇りを取り戻す」という内面的テーマを掘り下げるよりも、外面的に「観客を熱狂させる」娯楽映画としての続編を作るのに乗り気ではなかったが、結果的には、職人監督としての手腕を遺憾なく発揮し、前作との兼ね合いも忘れない設定の活かし方の巧さでファンの心をくすぐり、何より、クライマックスでの「右も左も皆殺し」大量殺戮シーンの壮絶さが大ヒットして、実質、世界中に香港ノワール好きとウーマニアとを生む直接の原因となったとも言えるので、本作の功績は事実多大である。

 そして89年、『狼/男たちの挽歌・最終章』ではウーの持ち味−男気−が全開で炸裂する。押しも押されぬヒットメーカーとして自由に映画作りが出来るようになったウーは、本作でその美意識に一つの頂点を迎える。彼の作品で頻出する様式美(教会、鳩、二丁拳銃、サングラス、殺し屋、銃撃に巻き込まれる子供、それに男二人に女一人の構図など)が完成の形を得たのは、恐らくこの時点であり、コアなマニア達からは最高傑作の呼び声も高い。付け加えると、ブルース・リー作品以来の米国公開(名画座など単館公開を除く)を実現した作品でもあり、じつは香港よりも欧米での評価が高い。本作が数々の映画人に影響を与え模倣されたことは余りにも有名である。

 以降、90年『ワイルドブリット』、91年『狼たちの絆』などの良作を生んで後、香港での最後の作品『ハードボイルド』が92年に完成する。興行的には、さすがに派手な銃撃戦も食傷気味とされたのか、折からの古装片ブームやチャウ・シンチー人気に押されたのか、いつもの「浪花節」的演出を潔く排しハードボイルドに徹したのがまずかったのか、実は思ったほど芳しくなかった。批評誌などでも余り大きく取り扱われることもなく「単なるアクション大作」と誤解されがちだったが、しかし本作にこそ、香港時代からハリウッド時代へと繋がるジョン・ウー世界を構築する全ての魅力が内包されている、ということを、改めて評価したいのである。

 このときウーは、盟友であるツイ・ハークとの契約問題にこじれ、来るべき香港返還に際する自由な映画作りの妨げなどを考慮し、恐らくは既に渡米を決心していた。ゆえに、ハリウッドを視野に入れ、東西の要素を混合した映画を目指した筈であり、その成果は、静かに、だが見事に結実したものと筆者は確信している。それは、CGなしスタントなしの生の迫力を売りとする香港的なスタイルでありながら、バタ臭くならぬよう細心の注意が払われたスタイリッシュなアクションのキレや、これまでのしつこすぎた浪花節の演出を控えめに抑えたり、ハリウッド的な方法論を積極的に(ときに消極的に)取り入れたり、といった点からも伺い知れる。

 ハリウッドに渡って以降ウーに与えられた脚本の不遇や、プロデューサー、スポンサーとの折り合いによる束縛は既に述べた。つまり『ハードボイルド』は、彼が最も自由に映画を作れた香港時代にハリウッド的な大作に挑んだ意欲作であり、両方の美味しい部分を併せ持っている、という意味で、紛れもないジョン・ウーの最高傑作なのである。

 では次はウー黄金期作品を基軸とし、いよいよ作品世界を掘り下げてみよう。ジョン・ウーが、ただのアクション映画屋ではない、高い文学的素養を持った「詩人」であることを、詳しく証明していきたく思う。
 

3.作品論、世界観、ペキンパーとの対比

 ジョン・ウーの映画は、善と悪が明確に対立するシンプルな勧善懲悪の構図だ、と判断する人がいる。果たして本当にそうだろうか。確かに「分かりやすい」という要素は彼の作品が世界的な大ヒットを招いたエレメントの一つかも知れないが、しかし勧善懲悪などという、奥の浅い幼稚な構図だけで世界中の多くの人々を熱狂させられると考えるのは、少々不自然に思える。

 思い出してみて欲しい。『男たちの挽歌』において、主人公たちは、黒社会に生き犯罪に手を染めてしまった汚れた男だった。『狼〜』の主人公は殺し屋だし、『ワイルドブリット』では一攫千金のためにベトナムへ向かうチンピラたち、『狼たちの絆』では盗賊、と決して「善」の存在ではない。『ハードボイルド』の主人公でさえ、刑事という社会的に「善」を象徴する職業にもかかわらず、テキーラは、強すぎる正義感からくる独断専行のため市民を銃撃に巻き込んで多数の死傷者を出してしまうし、トニーも、潜入捜査という偽りの関係ながらも、信頼を築いたボスと仲間たちを裏切り、皆殺しにしてしまう。そして、二人とも同僚を撃ち殺してしまうという、重い十字架を背負わされる。ウー世界の主人公は、決して清廉潔白な善人などでは、ない。

 つまりウー映画の構図は、じつは「善」対「悪」ではなく「義」対「不義」なのである。

 『〜挽歌』では、不義だらけの黒社会の中で、それでも信じる義を通そうとした男たちが、不遇の扱いを受け屈辱にまみれる。

 『狼〜』では、主人公ジェフリーに仕事の報酬を払わずに消そうとするボス、ジョニーのもとに、ジェフと旧い付き合いのあるシドニーが、決死の覚悟で支払われるべき報酬を受け取りに出向くが、彼の申し出は文字通り踏みにじられる。「金を払ってくれ、ジェフは仕事をしたんだ、それが道義だろう、道義を守れ」と、何度も何度も蹴られながら必至に懇願するシドニーを、ジョニーは「道義だと?頭の古い奴め!」と罵り、さらに執拗な攻撃を加える。

 『ハードボイルド』では、トニーが病院内で片目の用心棒と激しい決闘を繰り広げる中、逃げ遅れた患者と看護婦を巻き込んでしまいそうになるが、いったん戦闘を中断してまで逃がそうとする二人の気高さが際だつシーンで、とつぜん現れたジョニーによって逃げ遅れた人達は全員、撃ち殺されてしまう。その非道に怒った用心棒は、トニーに対して「自分のボスを殺す野郎は許せない」とまで言った自分自身さえも曲げて、ボスであるジョニーに銃を向けるが、銃弾が切れ、逆に撃たれて死んでしまう。

 このように、どんなに汚れた世界にまみれようとも、それでも誇り高く「義」に生きようとする男たちの姿勢に、視聴者は深く共感し、感情移入し、魂を昂揚させることが出来るのである。

 それでは「義」とは何か。

 ジョン・ウー世界を構成する要素として「キリスト教」の存在がある。しかし、さらに根底には、香港という土地柄から、無意識レベルで「儒教」の思想を孕んでいるのは間違いない。筆者はキリスト教の傲慢な教義が好むところでないので、ここでは儒教に絞って書きたいと思う。

 儒教においては、五常(仁義礼智信)という考えがあり、仁とは、つまり「仲間を思いやり慈しむ心」、義とは「悪や非道を憎む心」を指す。老子いわく「大道廃れて仁義あり」、つまり「世の中から道徳が失われたから、仁義という概念が浮かび上がって見え始めるようになった」という意味で、これは、そのまま現代に当てはめることも可能だろう。大道が廃れてしまった世だからこそ、皮肉な話だが、仁義を重んじるジョン・ウーの映画は、こんなにも強い輝きを放ち、熱狂的に支持されているのである。
 

 さて、もう一つ、ウー世界を語る上で欠かせない観点がある。『男たちの挽歌2』で、罠にはめられ香港の黒社会から逃げ、アメリカの孤児院で子供達と慎ましく暮らしていた顔役ルン(ディーン・セキ)のもとに香港からの追っ手が襲撃し、孤児達を巻き添えにしてしまう。あまりに惨すぎる仕打ちに廃人同然と化したルンの面倒を看るケン(ユンファ)だったが、再び襲ってきた追っ手たちと銃撃戦になり、必死にルンに向けて「戦え!」と呼びかける。窮地に陥り、撃たれたケンを目の前にして、ついにルンは銃を取り、誇りを取り戻して追っ手を蹴散らす。そしてケンに振り向き、泣き笑いのような、最高に哀しすぎる表情で言う。

「どうして善人でい続けることは難しいんだろう」

 こんなにも恐ろしく真実に肉迫した哀切な台詞が、他にあるだろうか。

 善人でい続けるというのは、きっと何より難しいことだ。誰しもが願いながら、誰にも成し遂げることは出来ないことだ。この台詞は、感情に訴えるスローモーション効果などでウー監督が多大な影響を受けたと公言して憚らない元祖「暴力の詩人」サム・ペキンパーの世界観とも相互リンクする。

 ペキンパーは、『ワイルドバンチ』の冒頭で「善意の市民活動家」に怒りの銃口を向けて無惨にも皆殺しにし、浅はかな偽善の虚しさを説いた。『ゲッタウェイ』では、警察から逃げ、ゴミ捨て場に隠れる主人公の二人をゴミ収集車へとブチ込み、辺り一面ゴミ以外に何もない広大な廃棄場の中にゴミと同じく捨て落とし「最低のクズ溜めからの再出発」を描き、坂口安吾の『堕落論』的な美しさをフィルムに焼き付けた。『ガルシアの首』では、どうしようもなくクズな男と女が、ドブに蠢く虫ケラのように惨めに、そして美しく愛し合い、クズなもの、最低なものたちへの、哀しいくらい限りない愛情の眼差しをもって描き、結局どうすることも出来なかった世界に対して「八つ当たり」するしかない不憫な男の生き様、死に様を、壮絶な手段で詩に仕上げた。

 サム・ペキンパーは、たった一つの真実をテーマに映画を撮り続けた。それは

「この世は救いがたい最低のクズ溜めだ」

 という避けがたい真実、そして

「人間なんてもの自体が、そもそも下衆で汚い最低の生き物だし、自分自身も最低のクズだ」

 という哀しすぎる真実、究極的には

「そんな世界に浸かってダラダラと生きるより、死にもの狂いで八つ当たりして果てる方が、ずっと人間らしい生き様だぜ」

 という危険すぎる真実だった。この世界は悪に満ちている。社会契約という不確かな皮を一枚はいでみれば、人間の中身には悪意しか存在しない。その意味では、サム・ペキンパーは20世紀の荀子であり、プラトンだ。

 荀子は「人は生まれついては獣の性しか持ち合わせておらず、成長する過程において正しく社会性と義を教育せねば、とんでもない悪の化身が出来上がってしまう」と、性悪説を説いた。

 プラトンは「もし人間が任意に透明になることが出来たら、その者は他人の家に入り込み、物を盗み、婦人を犯し、気に入らない者を殺し、刑務所を解き放ち、あたかも神のように振る舞うだろう」と、人はただ罰せられることを恐れ、社会によって善く振る舞っているに過ぎないことを説いた。

(とはいえ、プラトンの説は極端すぎるとは思う。成長段階で社会性と良識を刷り込まれ備えてしまった人間ならば、友人もなく一人で悪事を続けるのも直ぐに飽きて寂しくなってしまうと思うが、たとえば、まともに教育を受けずに育った5歳児程度が透明になる力を得て、それから成長したなら、この可能性も有り得るかも知れない)

 社会とは、そこに生活する全ての人々の作り上げた共通の契約(妄想)によって、ようやく成立することの可能な、あやふやな幻の牢獄でしかない。この牢獄が外れれば、後には、いわゆる「万民の万民に対する闘争状態」「人が人に対して狼である状態」しか残らない。そこに「善」など存在しない。善とは、そもそもが社会という不確かな規範の中でしか通用しない幻の概念なのである。この世には「悪」だけが確かに実在し、本質的に「善」などというものは初めから存在しないものなのだ。

 だからこそ「善人でい続けることは難しい」のである。それはつまり、実際には存在しない存在として自己を偽り続けることでしかないからであり、これは人間が社会を持った時点で発生した大いなる矛盾だが、とてつもなく不自然な状態を維持しなければならないからである。そんなことは、果たして不可能なのだ。

 ある人は、人間は無限の可能性を秘めた素晴らしい存在だと言う。ある人は、高らかに、そして無責任に、果てしなく人間賛歌を謳い上げる。素晴らしい人間がいないとは言わない。が、それは全体からすればほんの僅かだけ、上澄みの1%にも満たない数でしかないことを忘れ、大多数の、どうしようもなくクズな部分から目を逸らすことの言い訳にはならないし、してはいけない。

 ここまでの世界観は、ジョン・ウーもペキンパーも、基本的には同質である。だがロマンティストのウーは、ほとんど無理矢理ここに「理想」をのっけてしまった。それが「仁義」である。この、クソ溜めのような最低の世界の中で、それでも守るべき誇り高き信念を、どんな屈辱と絶望に打ちひしがれようとも、全力で貫き通そうとしたのだ。仁=仲間への思いやりは、獣ですら持つ唯一の善、人間の中の最後の良心、信じるに値する確かな「正義」。激しい銃火の嵐の中で、いつの間にか心を通わせる頼もしい戦友や、何の力も持たない無垢な子供たち。彼らのために命がけで戦い守ることが、魂を誇り高く昇華させ、火山のように爆発的なカタルシスを噴出させるのである。

 ペキンパー映画の主人公たちは、どうすることも出来ない世界に足掻き、抗い、苦しんで、あらゆるものを失っていき、ついには戦い果てる。

 ジョン・ウー映画の主人公たちは、どん底に喘ぎ、大切な何かを失い、それでも失ったモノを取り戻すため悲壮へと続くしかない修羅の道を選択し、ありったけの誇りを奮って戦いに身を投じる。

 精神的に、肉体的に、徹底的に痛めつけられた生死ギリギリの極限状態で、なお戦い続ける、という点は共通している。だが、ペキンパー映画が真実に対して一つの「答え(あきらめ)」を導き出しているのに対して、ウー映画は、あくまでも真実に向けて「問いかけ」を続けようとしているのだ。最後の一秒のその瞬間まで、自分の義を信じて勇敢に戦い抜くことが出来るか。失った「誇り」を、「高貴な魂」を、「友の無念」を、取り戻すことが出来るのか。この違いが、ペキンパーが大人でウーが子供だととるか、それとも、ウーが真摯でペキンパーが不真面目な妥協だととるかは、各人の受け取り方に依るだろう。
 
 

 最後に、もう一度だけ繰り返してから終わりにしたいと思う。

 ジョン・ウーは、単に「質の高いアクション映像を撮れるだけの職人監督」などではない。彼は、万人の心を躍らせる娯楽映画と詩的な文学作品を高次元で融合することの出来る「20世紀の映画史に燦然と名を残す、華麗なる暴力の詩人」なのだ、と。
 

参考文献

▼ 『キネマ旬報』No.1124 1994年2月上旬号 ▲
▼ 別冊キネマ旬報 『フィルムメーカーズ12 ジョン・ウー』 ▲
▼ 呉宇森最強系列 ▲
▼ 別冊映画秘宝 『ソドムの映画市』 ▲


評、ジョン・ウー
DATE:01/03/25(Sun) WRITING and EDITING:Johnnie the Fire
BELONGING:[ Committee for Eating 3 Owans of MESHI with Gal games ]