北親会会長 正願寺 河野友毅
浄土真宗の法要として報恩講は最も重要な位置にあるのですが、一般寺院では同程度かそれ以上に重要な法要として永代経が勤められています。何しろ寺院の経営面で考えると永代経は大切にしないわけにはいきませんからね。
では、永代経とは何でしょうか?僧侶の間の冗談では『仏説永代経』などと言ったりもしてますけど、真宗教義の上で説明が付けられるんでしょうか。
通常、永代経とは特定の個人(死者)に対し永代経開闢と称して何らかの読経を勤修し、あるいは院号などを出して、その見返りにいくばくかの金銭や法具などを寄付してもらうのですが、普通の法事と何が違うのか?そもそもどんな意味があるのか?と言うことですね。
一説には「当該寺院において、永代にわたって読経されるための資金を集める」あるいは「その寺院で永代にわたって御法義が伝えられるための資金を集める」などと言われてますけど、そんなモノは詭弁に他なりません。
何しろ元にあるのは、他宗の永代供養の思想なのですからね。永代供養を真宗的に取り込んで名称を変えただけなので、表向きには先祖供養ではないと言っても、檀家の内面的な期待には、出資することによって永代にわたる供養を受けるという考えが必ずつきまとうはずです。
「供養が必要な死者」
永代経を理解するためには、他宗の永代供養について知ることが一番の早道でしょう。永代供養とは永代祠堂経とも言います。これは死者の親族が絶えても、寺院が代わってその死者に対する供養を永代にわたって執り行うものです。この場合の具体的な供養の方法は、読経が主になります。つまり特定の死者に対して永続的に勤められる読経が永代供養ですね。もちろん有料のサービスですから、それなりの料金をもらうかたちになります。
ここまでは真宗の永代経と何ら代わりませんね。では何が違うのかというと「死者には供養が必要である」という大前提がありますね。つまり供養を受けられない死者は不幸な境遇に陥り、場合によってはまだ生きている縁者に災いをもたらす。といった思想です。 これは仏教ではなく日本独特の怨霊信仰に通じるもので、自分の親や先祖を怨霊化したくないのが本音で、もう少し優しく表現するなら死者が不幸にならない様にするのが永代供養の目的です。
永代供養にはもう一つ、核家族化という要素があります。子供に恵まれないと家が絶えますので、自分自身の死後についても高確率で死後の供養を受けられなくなることに心配しなくてはなりません。そういった考えを持つ人に対しても永代供養は比較的リーズナブルなコストで不安を解消していくでしょう。
ほとんど全ての宗教の目的は、死後の不安を取り除くことであると言えますので、核家族という現代の社会的現象に対して見事に適合した永代供養が商業的に成功するのは、ごく自然な成り行きと言えますね。
「それでも必要な永代経」
我らが浄土真宗は、浄土に往生し仏となるのですから、死後の苦労や怨霊化とは無縁のはずなので、死者に対する供養はいっさい必要ではありません。あえて供養を言うなら、仏から私に贈られる供養であって、それ以外には仏を敬うためのお供え物ぐらいしか意味は無い方がいいですね。
しかし檀家に対して、死者に供養をすることは無意味だから永代経を止めようなどとは決して言えませんね。もしそんなことをしたら、結局は他の真宗寺院や他宗の永代供養に檀家の気持ちが向くことでしょう。つまり永代供養に代わる行事をしないわけにはいかないのです。
「非僧非俗の狭間」
私たち僧侶は永代経を勤める時に、これらのことを必ず念頭に置くべきです。
御開山様はきっとお嘆きになっていることでしょう。でも私たちは永代経をしなければなりません。しかし…、この行事が機縁となって真宗と出遇う人もいるはずです。たとえきっかけが先祖供養でも、永代経で念仏の行者がたった一人でも増えるのなら、それは仏意にかなうことではないでしょうか。
非僧すなわち真宗にあらず、非俗すなわち習俗にあらずです。浄土の英語訳をピュアランドというそうですが、現代の僧侶は御法義に対してさえもピュアにはなれないのですね。
第17号掲載