Always




「ふう……」
 一つ小さく息をつき、机に腰掛けたままグラスの中身を空ける愛理。階下からは、遠く聞こえるどんちゃん騒ぎ。まだまだ終わりそうにないその喧噪を聞きながら、開け放たれた窓から外を眺める。
 網戸越しのそこにあるのは、夜でもなお高く見える夏の空。流れ込んでくる夏の熱気に、卓上に置いたグラスの中の氷が、からん、と音を立てる。
 ――と。
「不法侵入だぞ、他人の部屋に勝手に入るのは」
「いまさら隠すようなものもないじゃない」
 不意にかけられた声の主――美琴にそう返す愛理。当然美琴の方も冗談なわけで、そりゃそうか、と言いながら笑っている。
「で、どうかしたのか? 別に調子が悪いってわけでもなさそうだけど」
「なんでもないわ、ちょっと一人になりたかっただけ。美琴の方こそいいの? 主賓がこんなところで油売ってて」
「誰も気にしないって、んなこと。それに、主賓としてはお客様の姿が見えないと心配なんだけど?」
 どこからしくないそんな冗談、考えられる可能性としては。
「美琴、あなた酔ってるでしょう」
「まだまだ、これくらい序の口序の口」
「……酔ってる人ほどそう言うのよ」
 よくよく見れば、その顔もほんのりと赤みを帯びている。先ほどとは違う溜息を、はあ、と一つついてから、まあいいわ、と愛理。
「昼は昼であれだけ騒いで、夜は夜でまた元気よね」
「昼のは別口だろ、ありゃ。それに一番飛ばしてたヤツは最初にぶっ倒れてるしな」
「一番……?」
「花井だよ」
 その言葉に、ああ、と頷く。確かに昼間の彼は何やら妙に気合いが入っていた気がする。……もっとも、そこで披露したのはあの何とも名状しがたいリコーダーだったわけなのだが。
「何だったのかしらね、昼間のアレ」
「私にも分かんないよ」
 呆れた風に言ってから、でも、と続ける美琴。
「アイツのことだからさ、何か考えはあったんだと思うけど」
 そう言った表情は優しげなもの。
 それはまるで――
「へえ、ずいぶん信頼してるんだ、彼のこと」
「んー、ま、付き合い長いしね」
「なら――」
 訊いていいことなのかどうなのか。迷いつつもその疑問を口に乗せる愛理。
「――付き合うとか考えたことないの? その、彼と」
「……は?」
 一瞬何を言われたのか分からない、という顔する美琴。そして次の瞬間には肩を震わせて笑い出す。
「私がアイツと? ないない、絶対ない。何て言うかさ、そういうのじゃないんだ、花井とは」
 それに私には、と言いかけて、はっと口をつぐむ。
「『私には』?」
「いや、今のはノーカンだ。忘れろ、頼む」
「そうなんだ。ふうん……」
 いつになく必死な美琴の様子にピンときたのか、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべる愛理。
「ちょっ待て、何でもないって言ってるだろ! それにあれだ、お前の方こそどうなんだよ。山ほどしてるじゃねーか」
 その、デートとかよ、と最後は消え入りそうなその台詞、それ自体がどうしようもないくらいに地雷を踏んでいるのだが、当の美琴はおろか、聞いている愛理さえ気づいていない。
「あれはダメね。恋っていうのはね、もっとゾクゾクするようなものなの。そう、私が欲しいのは運命的な出会いよ!」
 こちらはこちらで、最後の方は握り拳を天に突き上げていたりする。その姿はどこからどう見ても。
「なあ沢近。酔ってるだろ、お前」
「何言ってるの。これくらいまだまだよ」
「……酔ってるヤツほどそう言うんだよ」
 いつかどこかで――ではなく、つい先ほど立場は違えど交わした会話。それに気づいた二人は、どちらからともなく笑い出す。
 結局の所。
「何よ、二人とも酔ってるんじゃない」
「……だな」
 顔を見合わせて、もう一度二人で笑いあう。
「……んで、なんでこんなとこにいるんだ?」
 そうやって一息ついてから、最初の質問をもう一度持ち出す美琴。対する愛理は視線を逸らして夜空に向けつつ、今度は答を返す。
「なんだかね、ちょっと前のこと思い出しちゃったのよ」
 前のこと――そう言われて思い当たるのは。
「初めてウチに来たとき、か?」
「さあ、ね」
 仏頂面でどこか遠くを見つめるようにしながら答える。
 そんな彼女の姿に、美琴は――
「……お前さ、まだなんか変な遠慮」
「冗談、そんなワケないでしょう?」
 その言葉を途中で遮る愛理、既に表情はいつもの勝ち気なそれに戻っている。
「ただちょっと一人になりたかっただけよ」
 フン、と小さく笑いながら、最初と同じ答をもう一度返す。
「だったらそういうことにしといてやるよ」
 こちらも軽く笑ってそう返事をしてから、んじゃ先に戻ってるよ、と廊下に向かう。
 ――その背中に。
「美琴」
「ん?」
「……誕生日、おめでとう」
 何を今更、ときょとんとした表情を見せた美琴だったが、すぐにふっとそれを崩す。
「ありがと」
 笑顔でそう返し、階下へと降りていく。
 そして、残された愛理は。
「ありがと、か」
 ゆっくりと腰を上げ、空になったグラスを手に取る。表面に付いた水滴が伝える冷たさが心地よい。
「私の台詞じゃないの、それ」
 普段は見せない、そんな優しげな笑みでぽつりと呟いて、自分も階下へと向かう。
 次第に近づいてくる喧噪――それは、気負う必要などどこにもない、彼女の『居場所』でもある。
「おう、どこ行ってたんだい姉ちゃん!」
 居間に足を踏み入れるなり飛んでくるそんな声。それに小さく肩をすくめてから。
 愛理は美琴に微笑んでみせた。
 ――とびきりの笑顔で。