All’s right with the world




 梅雨の切れ間かそれとも終わりか、ともかく視線を上にずらしたならば、果てなく高い抜けるような青空。気の早い蝉の鳴き声もどこか遠くから――そんな夏模様の街中を、刑部絃子は笹倉葉子と連れ立って歩いている。
「分かってはいたけど相変わらずだね」
「大丈夫ですよ。ちゃんと計算してますから」
 遠回しな皮肉をさらりと笑顔で返す、そんな葉子の手の中には一枚のカード。持ち合わせがなくとも買物が出来る、さながら現代の錬金術とも言える魔法のカードである。
「……それがどういう計算なのか、一度じっくり聞いてみたいよ」
 そんなぼやきは聞こえているのかいないのか、絃子の隣には変わらぬ笑顔。こうなると、彼女ならずとも溜息の一つくらいはつきたくなる――否、彼女だからこそその程度で済んでいるのかもしれない。
 容姿は秀麗、筆を執らせれば幾多の入選作品、まさしく才色兼備を地でいくような、そんな葉子が抱えた唯一と言ってもいい欠点。それがこの経済観念のなさである。最近でこそ自宅配送が幅を利かせてきたものの、一昔前なら両手一杯の荷物に埋もれる姿、などという事態も決して少なくなかった。
 とは言え、絃子の方も口で言うほど心配しているわけではない。少なくとも長年の付き合いの中、金銭面で誰かに泣きつく彼女の姿は見たことがない。もちろん、知らないところで何が起きているか、など文字通り知るよしもなく、褒められた行為でないのは確かなので、事あるごとに口は出している訳なのだが。
「やれやれ。君と付き合う男は苦労しそうだ」
 そんな渾身の言葉も――
「そうですね」
 ――あっさりと避けられる。
「……あのな、葉子」
 他人事じゃないだろう、と言いかけたところを、今度は逆に返される。
「ところで」
 思わせぶりな間を空けてから、葉子は言う。
「刑部さんの方はどうなんですか?」
「……どうもこうもないよ、君も知ってるだろう?」
 返事をしつつも、こういう話題のすり替えを素でやっているんだから、と内心苦笑する絃子。相手の反応まで織り込んだ上で、理詰めでやりこめる彼女からしてみれば、やりにくいことこの上ない相手。もっとも、そんな関係がどこか心地良いのもまた事実。
「もったいないですよね、それって。刑部さん、こんなにいい人なのに」
「そんな大したものじゃないよ、私は」
 初めて会ったときから変わらない、その葉子の評価。学生時代、どこか一匹狼然としていた自分を拾ってくれたその言葉、以来幾度それに助けられたか――そんなことを思いつつも、面と向かって言わない主義の絃子は軽く肩をすくめて否定してみせる。
「いえ、私が勝手にそう信じてるだけですから」
 だから刑部さんにも否定させませんよ、と微笑む葉子。
「まったく……言ってくれるね、君は」
 本当に変わらないと、そう思う絃子。肝心なところでピンポイントに的を外さない言葉と目。人徳とはつまり、そういうもののことを言うのだろう、などと考えてしまう。
「ま、あまり褒めるとさすがの私も調子に乗るからね、ほどほどにしておいてくれ。それに」
 立ち止まる絃子。そう、今日の本題は。
「忘れてるかもしれないけどね、今日は君の誕生日なんだよ」
「いくらなんでもそれくらい覚えてますよ」
 少し前を歩いていた葉子が振り向いて、もう、と腰に手を当てて怒った振りをしてみせる。
「でも、別に誕生日だからって特別にしなくてもいいと思いますよ。私は刑部さんが付き合ってくれるだけで十分楽しいですから」
 ぴん、と右手の人差し指を立てて言ってから、くるりと身をひるがえし、小走りに駆けていく。
「……葉子」
 確かに言われてみれば、何も誕生日だからといって特別な日にしなければならない、という決まりはない。
 そして何より。
「――」
 視界の中では、一軒の喫茶店の前で立ち止まった葉子が、身振りで早く、とやってから店内に入っていく。ドイツ語で『遺産』と銘打たれた由緒あるその店は、彼女の行きつけの一つでもある。
「はしゃいでる、と思っていいのかな」
 いつからか習慣になっている、月に数回の彼女との外出。今日もまた、お決まりのそれと同じコースを辿っているものの、絃子からしてみると、やはりその様子は普段とは少し違う。
「――ならまあ、いいか」
 口の端に笑みを浮かべながらそんなことを呟いて、店内に消えた友人の背中を追って、絃子も古めかしい雰囲気を漂わせたその入り口にたって、中へと足を踏み入れる。
 引いたドアにつけられた鐘が、遠く聞こえる蝉の声をバックに、からん、と澄んだ音を立てた。