「――ん」

 ――目が、覚めた。
 なんだかひどくトンデモナイ夢を見ていたような、そんな気がして、少女――沢近愛理はとりあえずは現在の状況を確認するべく、周囲の情報を寝起きの頭に取り込み始める。

 かっきり九十度だけ傾いた世界。穏やかな陽射しの中で枯葉が舞っている。
 ――まあ、寝てたんだから当然よね。……でもなんで外なのかしら。

 頭の下にあるなんともいえない感触。固くもなし、柔らかくもなし。
 ――枕……じゃないわよね、いくらなんでも。だったら……

『――え?』

 そこでようやく思考が一本の線に繋がる。導き出された解答は、電光石火の早さで身体中を駆けめぐり、眠気など十万光年の彼方に吹き飛ばす。
 視界に映るのは確かにあの公園だ。
 ならばつまりは。

 ――つまりはすべては夢なんかじゃなくて――

 そして自分が枕代わりにしているものの正体に、思わず彼女は大きな悲鳴を――


 ねこ曜日
   -the case of Eri Sawachika-


 ――さて、時間を遡ってその日の朝。
 美琴、晶とともに天満の家に泊まりに来ていた愛理が『二度目に』目を覚ましたところから話は始まる。

「今日の愛理ちゃんってなんだか大人しいよね」

 胡乱げな頭で彼女が最初に耳にしたのは、天満のそんな言葉だった。それじゃまるでいつもは、当然ながらそんな抗議の声をあげようとした愛理だったが、その口からもれたのは、なおう、という気の抜けた妙な声だけだった。

 ――なおう?

 いったい自分はなにを言っているのか。
 そんな思いと同時、これは確実に晶から的確かつ容赦ないツッコミが入るだろう、と身構える。
 が。

「ほんとだよな、珍しいにもほどがあるって」
「明日は雨だね」

 美琴に晶、彼女たちの会話は続いていく。まるで何事もなかったかのように。
 いくらなんでもそれはひどい、どういうことなのか――そう立ち上がろうとするが、今度はバランスを崩し、こてんと床に転がる。目に映ったのはやけに高い天井。

 ――もう、なにがどうなって……え?

 そこでようやく、このおかしな状況に気がつく愛理。

 だいたい、自分は今起きたところではないのか。それならば、先の天満の発言はどこか妙な――いや、そもそもからして見渡せる範囲には天満どころか美琴や晶の姿さえなく――待て待て、よく考えればさっき目を覚ました記憶が――なんだって二回も――確かやけに朝早くに――廊下に出たらこっちを見上げる黒猫の姿が――黒猫? なおう? 鳴き声?――そう、それが突然飛びついてきて――それから、それから――

 まとまらない思考、比例するように増していくイヤな予感。とにかく、なにが起きているのかを確かめないと、そう考えた彼女は、皆の声の聞こえてきた部屋――居間に飛び込んで、そして。

 ――は?

 見た。
 妙に神妙な顔をして、正座なんてしている『沢近愛理』の姿を。
 そして次の瞬間、彼女の意識は再び闇に沈んだ。





「――おり、伊織ってば」

 次に目を覚ましたの彼女が聞いたは、天満のそんな声。すべてタチの悪い夢で、今度こそちゃんと目が覚めたんだ――そんな虚しい願いもあっさりと打ち砕かれ、恐る恐る開いた瞳がとらえたのは、相変わらずつんとした顔で座っている彼女自身の姿。

 ――分かってたわよ。

 そも、『伊織』などと呼ばれている時点で勝負はついているのだ。天満に首根っこをつかまれたまま、力なくうなだれた愛理の視界に入ったのは、だらしなく四肢を垂らす黒猫の身体。
 つまり。

 ――入れ替わった、のよね。……なにそれ、バカみたい。

 バカみたいでもなんでも、結局のところそれが真実であり、それ以外の何物でもない。盛大に溜息の一つもつきたくなるものの、猫の身ではそんなことさえままならないず、それでもとりあえずはと自由にならない身体をよじって天満の手から逃れる。

「伊織、大丈夫? 急にひっくり返っちゃうからびっくりしたんだよ」

 そりゃあね、と言ったところで通じるわけもなし、胸の内で呟くだけに留めておく愛理。そして突き刺すような視線をすまし顔の『愛理』に向ける。無反応。というか相手にさえされていない。

「でも今日は伊織も変だよね。いつもだったら絶対触らせてもくれないのに」

 ――誰だっていきなり首をつまみ上げられそうになったら、そりゃ逃げるわよ。

 やるせない憤りをひとまずそちらに向け、うう、と低く唸る。当の天満はそんなことには慣れているのか、ただ首を傾げて考えるのみ。そんな姿に、おかしなのが一人と一匹か、と笑ってから、冗談のように続ける美琴。

「もしかしてさ、コイツら入れ替わったりしてたりな」

 思わず、ばっ、と身体ごと美琴の方に向き直る愛理。これにはさすがに『愛理』の方も、一瞬びくりと全身を震わせる。しかし、当然と言えば当然ながら、んなわけないよな、そんな言葉で美琴が締めくくろうとする。
 ――そこに。

「待って」

 割って入ったのは晶の声。そしてそのまま、そんなことあるわけないよ、という天満――かつてその『入れ替わり』を体験している人間の台詞ではないのだが、本人が眠ったままでなにも覚えていないのだから仕方がない――にも構わずに、黒猫――愛理の瞳をじっと見つめる。

 ――お願い、晶。

 そんな、彼女の生まれて初めての心からの願いが天に届こうとしたとき。

「――!!」

 だん、という音を立てて突然立ち上がり、そのまま部屋を飛び出していく『愛理』。脱兎の如く、そんな言葉がそのままあてはまりそうな勢いに、呆然とそれを見送る三人。

「……逃げた」
「ってことはまさかホントに」
「伊織が愛理ちゃん……?」

 その言葉には答えず、後を追って愛理も部屋を飛び出して玄関へ、さらにそこから外へと向かう……が、既に走り去った少女の後ろ姿は見えない。

 ――ああもうっ!

 よくよく考えれば律儀に玄関など通らずとも、猫なのだから庭を突っ切るなり塀を飛び越すなり、ショートカットの方法はごまんとあったはず。どうしてそれを思いつかなかったのか、と地団駄を踏んで悔しがるが始まらない。
 一瞬諦めそうになるものの、そこは猫になっても沢近愛理、転んだところで泣き寝入りするような性格ではない。すぐさま矢のような勢いで走り始める。
 瞳の奥には燃える炎を宿らせて、考えることはただ一つ。
 即ち。

 待ってなさいよ――!





 ――さて一方、こちらは逃走に転じた伊織。
 前回の教訓から、人間として突飛な行動をとれば追い回される、ということは学習済み。故に天満たちの前では大人しくしておいて、あとでこっそり、と考えていたのだが、なんといってもやはりやんちゃ盛り。じっと座っているなど長時間持つはずもなく、おまけに雲行きまで怪しくなってきたところで、とそんな次第。
 とはいえ、別段なにか目的ややりたいことがあるわけでもない。いつもよりほんの少し高い視点。そこから普段は見上げるほかない景色を見下ろす、そんなことにちょっとした喜びを覚えもしたのだが、それとて些末ごと。
 ではどうするか。
 そう考えたとき、伊織の頭に一つの案が浮かぶ。

 ――あのばしょにいこう。

 そこにまた『アレ』がいるかどうかは分からないが、試しに行ってみるのも悪くはない。
 思いついたならあとは実行。軽やかなステップを以て、伊織は『その場所』に向けて走り出す。

 そして果たしてそこには――





 ――もう、どこ行ったのよ。

 ぼやいた声も、やはり『にゃおう』という情けない鳴き声。
 商店街から学校神社、ついでに自宅まで走り回ったものの、一向に見つからない『愛理』の姿にがっくりとうなだれる愛理。端から見れば、道端にしょぼくれた黒猫が座り込んでいる、そんな光景。

 ――いいわ、少し休憩。

 どのみち、最悪でも明日になれば学校には出てくるんじゃないか――などと甘い希望にすがりつつ、近くに見えた公園に足を向ける。ゆるゆるとした秋の陽射しが穏やかな日溜まりを作る、そんなベンチがあることを何故か知っていた――伊織の身体が覚えていたのかもしれない――彼女はそこに向かい、そして――

 なっ……

 それを、見た。





 そして果たしてそこ――とある公園のベンチには、伊織の考え通りに『アレ』がいた。なにやら人生の不幸を一身に背負って空を見上げている、そんな様子をしているのだが、それは伊織にとってはどうでもいいことだ。

「ん――っな、なななななっ!?」

 声にならない悲鳴をあげている『ソレ』には構わず、その膝元に潜り込むようにして丸くなる。常から人間嫌いを自称してなかなか誰にも懐かない伊織であったが、『ソレ』だけは部分的に例外だった。
 固くもなし、柔らかくもなし。枕にするには絶妙のその場所で、伊織はゆっくりと目蓋を下ろした。





 そして愛理はそれを見たのだった。
 つまり。
 あろうことか。
 よりにもよって。

 沢近愛理が播磨拳児に膝枕をしてもらっている――その姿を。

 その瞬間、彼女の中ですべての回路が焼き切れた。
 人生の不幸どころか、この世の終わりが百万回も一度に訪れたかのような拳児の様子など目に入らない。
 もはや彼女の瞳に映るのは、呑気な顔をして眠っている自分の顔、ただそれだけ。

「シャーーーーーーーーーッ!!」

 あえて漢字をあてるなら、まさしく『殺』だろう。
 そんな鬼気迫る剣呑極まりない叫びとともに、愛理は自分さえ一度も見たことがないような、満ち足りた様子の『沢近愛理』に向かって弾丸のように突撃して――





「――ん」

 ――そして、目が、覚めた。
 なんだかひどくトンデモナイ夢を見ていたような、そんな気がして、少女――沢近愛理はとりあえずは現在の状況を確認するべく、周囲の情報を寝起きの頭に取り込み始める。

 かっきり九十度だけ傾いた世界。穏やかな陽射しの中で枯葉が舞っている。
 ――まあ、寝てたんだから当然よね。……でもなんで外なのかしら。

 頭の下にあるなんともいえない感触。固くもなし、柔らかくもなし。
 ――枕……じゃないわよね、いくらなんでも。だったら……

『――え?』

 そこでようやく思考が一本の線に繋がる。導き出された解答は、電光石火の早さで身体中を駆けめぐり、眠気など十万光年の彼方に吹き飛ばす。
 視界に映るのは確かにあの公園だ。
 ならばつまりは。

 ――つまりはすべては夢なんかじゃなくて――

 そして自分が枕代わりにしているものの正体に、思わず彼女は大きな悲鳴を――

「……」

 ――あげかけて、やめた。
 原因は、視界の隅でふらつきながらも恨めしそうな顔をしてこちらを見ている一匹の黒猫だ。
 確かに、本当ならここで悲鳴の一つもあげて、魂が抜け出たかのように固まっているヒゲのバカに膝の一つも叩き込んで、ついでに先程激突でもしたのか――証拠に自分の頭も少しずきずきする――本調子ではなさそうな黒猫を捕まえて、お仕置きでもするべきなのだろう。
 けれど、それではあの視線から感じる微妙な『優越感』が味わえなくなってしまうではないか、そう考える愛理。
 それに。

 ――疲れてるのよ。少しくらいいいでしょう?

 誰に対してなのか、他意はないとでも言いたげな、そんな言い訳をして。
 愛理はゆっくりと、瞼を下ろした――