Change the world
「それで、何の用なの? 晶。わざわざこんなところでなんて」
そう言って、こんなところ――校舎の屋上を見回す愛理。味も素っ気もないコンクリートの床、所々にある何かのタンク、安全対策の柵に金網のフェンス、目に入るものと言えばその程度。強いて言うならば、あとは空。白く煙った青色をまとい、どこまでも遙か彼方にあるような遠い秋のそれ。
「いいの? このままで」
そんな空を背にして晶が問うたのは、その一言。
「……何がよ」
「あら、言っていいのかしら」
淡々と告げられる言葉は、けれど愛理にとっては鋭い刃。一投ごとに追いつめられていくという現実を、それでも彼女のプライドは認めない。だから何の話、ととぼけてみせる。
「ねえ、愛理」
そんな仕草に、晶は彼女にしては珍しく溜息を一つ。
「立ち止まっていても何も変わらないと思わない?」
「――」
「少なくとも、私の知っている沢近愛理はそんなしおらしい娘じゃないんだけど」
それだけ、と結んで、晶は愛理に背を向ける。その視線の先、フェンス越しの景色には街並が広がる。囲われているのは果たしてどちらか、そんな益体もないことを考えながら愛理の返事を待つ。
どの位そうしていたか、やがて愛理が口を開く。
「しおらしい、ね」
――その口調はどこか吹っ切れたようにさばけていて。
「分かったわよ。言えばいいんでしょう?」
――気がついてしまったから。
「私は――沢近愛理はね」
――理由なんて一つも分からないけれど。
「播磨拳児が好きなのよ」
きっと、と最後に付け加えたのはなけなしのプライドなのか。それはともかくとして、ようやく自分の中の想いに名前を付けた彼女に、ほんの少しだけ笑みを浮かべてから振り返る晶。
「どう、これで文句は」
ないでしょう、という言葉の途中で、ばさり、と何かを取り落としたような音がする。何よいい所で、と愛理が向けた視線の先には。
「なっ――!」
呆然と立ち尽くす播磨拳児その人。足下には先程の物音の原因だと思われる分厚い封筒が落ちている。
そして当然のように、時間が凍った。三者三様、それぞれの沈黙が続いて。
「じゃ」
それをあっさりと破ったのは晶だった。軽く片手を上げ、足早に屋上の出口へと向かう。
「じゃ、って……ちょっ、待ちなさいよ晶!」
「愛理」
その声にも振り向かず、扉に手をかけたままで告げる。
「いつまでも回り道してるわけにもいかないんじゃない?」
「晶……」
その言葉だけを残して晶の姿は屋上から消える。残されたのは、一組の男女。
「――はめられたわ」
未だ呆然としている拳児とは違い、もはや開き直るしかないと思っているのか、さばさばとした表情の愛理。どこか投げやりにそう呟くと、つかつかと拳児の傍に歩み寄る。
「ちょっと、いつまで呆けてるのよ」
「ぬおっ!? お、おう」
その声にようやく我に返ったのか、慌てふためいた様子で封筒を拾い、じりじりと後退る拳児。それを見て、あらためてなんでこんなヤツに、という思いを深くする愛理だったが、仕方ないじゃない、と小さく首を振る。
「結局、理不尽なのよね」
「は?」
「いいの、こっちの話よ……それで」
きっ、と射るような眼差しで見据える。
「アンタはどうなのよ」
「……俺?」
「そうよ。私の、私の気持ちはもう言ったんだから、アンタの方を聞かせなさいよ」
聞かなくても分かるけど、という言葉はプライドにかけて飲み込んで、顔を真っ赤に染めて尋ねる愛理。
対して、答える必要なんてねぇだろ、という声が拳児の頭の中に響く。義理もなければ借りもなく、むしろ貸しの方が多いのではないか、という相手。確かに、答える必要はない。
それでも。
「俺は」
結局の所、播磨拳児とはそういう男なのである。良くも悪くも。
したがって。
「俺が……俺が好きなのは――」
後には引けない戻れない。
敵前逃亡は士道不覚悟と心得よ――
「――塚本なんだ!」
決死の思いで放った言葉。しかし、それを聞いた愛理は特に反応を見せない。
「そう。やっぱりそうなんだ」
「……おい。なんだやっぱりって」
この俺の天満ちゃんへの想いは知られてねぇはず、と思わず問い返す拳児。
「だからあの娘でしょう? 塚本八雲」
「いやそうじゃな」
「黙りなさい。ああもう、これなら聞かなくてもよかったじゃない!」
さらに深くなった誤解の根を正そうとしても、もはやその言葉は届かない。バカみたい、と天を仰いだ愛理は、続く言葉を一気にまくし立てる。
「いい、覚えておきなさいよ、アンタは私を振った男第一号なんだからね。私はそんなヤツがいたことなんて絶対忘れないし、アンタが忘れたりしたら承知しないんだから」
だからね、とそこで一呼吸。
「せいぜい幸せになりなさい」
ふん、と。不格好ながらも拳児の前で初めて笑って見せてから、またしても呆然としている彼を置き去りに、颯爽と身を翻して歩を進め、振り向くことなく階下への扉をくぐる。
そして、その扉を後ろ手に閉めてから。
「ホント、バカみたいじゃないの」
一言そう呟いてから、階段を降り始める――と。
「……っちゃあ」
そこにはよりにもよってなのか、当然なのか、逆に階段を登ってきた八雲の姿。その先にあるのは屋上しかないわけで、つまりはそういうことで、と思考が頭の中で空回りし始める愛理は、それでもどうにか言うべき言葉を探して。
「ま、貴女も頑張りなさい」
「先輩……?」
きょとんとしている八雲を残し、とんとんとん、と先程とは違うどこか軽い足取りで降りていく愛理。一方の八雲は、どういうことなのか分からないながらも、少なくともそう言ったときの彼女には悪意が感じられなかったことだけは理解して、もう見えはしない背中に小さく一礼をして、再び階段を登り出す。
その先で何があるか。それはまた、別の話。
◆
――翌日。
「おはよう」
寝不足の目をこすりながら――理由は問うまい――登校してきた愛理は、それでもいつもの笑顔を浮かべてクラスメイトと挨拶を交わす。
「あ、おはよう愛理ちゃん」
「よう、今日は遅かったじゃねぇか」
「……おはよう」
いつものように天満の周りに集まっている面々に声をかけられ、私にもいろいろあるのよ、と意味深な視線を送ってくる晶から目を背ける……と、そこには当然ながら拳児の姿。
瞬間、二人の間で時間が止まる――
「おはよう、」
――が、今度は彼女自身がそれを打ち破り。
「播磨くん」
そう言った。
「……あん?」
「……何よその顔。なんか文句でもあるわけ?」
ほんの一瞬だけ流れた友好的な空気は、一呼吸としないうちにいつもの険悪なそれへと変わる。交わされる罵声はもはやこのクラスにとって日常の一コマ、気にする者もいないままに流れていく。
結局の所、世の中というものはそうそう劇的に変化するわけでもなく、ただ小さな変化が人知れず小さく積み重ねられていくもの。どんな大きな変化もそうやって起きるのだ、と、そんなことを考えながら。
ただ一人その変化に気がついている晶は、小さく微笑んだ。