立ち振る舞いに足の運び、身のこなし。
 目を瞑っていても、どこにいたとしても、そのすべてを思い出せる自信はある。
 別にそれが嫌いだったわけじゃない――むしろ好きだったと、そう思う。
 けれど同時に、それが世界のすべてだとも思えなかった。
 だから、家を出た。
『行ってらっしゃい』
 すべてを告げたとき、その人はそう言った。もっと世界を見てきなさい、と。
『行ってきます』
 だから、そう答えた。
 『先生』ではなく、『母』に。

 ――そして世界は広かった。
 言葉にしてしまえばどうということもなく、けれどそんな現実。生きていく、というのはなかなか大変なことで、そのために多くの時間を費やして、いくばくかの報酬を得る時間が続いた。
 切り捨てたものに失ったもの、それを数え上げれば切りがないはずで、辛くなかったと言えば嘘になるだろう。それでも楽しかったのは嘘ではないと思う。生活が軌道に乗り、ようやく手にしたささやかな余裕の中で、見えなかったたくさんのことが見えるようになり、何よりもっと大事なものを得た。
 何物にも代え難い、それは――


Connections with you


「――ら、晶、聞いてる?」
 ふと、遠く聞こえる声に我に返る。
 戻ってきた視界には、怪訝そうな様子の愛理、窓際には頬杖をついた刑部先生。そう、部室だ。
「ごめんなさい。少し呆けていたようね」
 返事を返しつつ、どうして急にそんなことを思い出したのか、そう考える――と、その答は目の前にあった。
 茶碗。
 名目上とは言え茶道部は茶道部、茶を点てるための道具は一通り揃っている。たまには、と気紛れにそれを準備していたところに、こちらも気紛れに、珍しく愛理がここを訪れた、そういうことだったとようやく思い出す。まったく、我ながら情けないと胸中で反省。
「呆けてたって、珍しいわね……」
 それを知ってか知らずか、さらに眉をひそめる愛理に、あなたのそういう顔の方が珍しいのだけれど、と思うけれど、あえて口にしない。そうこうしているうちにも、何か言葉を探しているようだった彼女が口を開く。
「ほら、何て言ったかしら……」
 それが精一杯だったのかどうなのか、次に出てきた言葉は――
「そう、『鬼の拡散』?」
 ――鬼が広がっていくらしい。
「……『鬼の霍乱』、よ」
 一瞬の静寂。
「く、くくく……」
 やがてそれを打ち破ったのは、堪えきれない、といったように吹き出した刑部先生。あはは、なんて普段見せないような表情で笑っている。
「ちょ、ちょっと間違えただけじゃないですか! ああもう、晶も何か言ってよ!」
 真っ赤な顔をして怒鳴り立てる愛理。
 その顔を見て――
「……晶? なに、ちょっ、や、やめ……」
 黙って両手を伸ばし、その頬を引っ張ってみる。
 むにー。
 そんな擬音がどこからか聞こえた気がする。
「ななな、何するのよっ!」
「――なんとなく」
「は――?」
 虚をつかれた、というように、一度は私の手を振り払ったそのガードがゆるむ。
 むにー。
 もう一度。
「あ、あひらっ!」
 部屋に響くのは、そんな怒声と刑部先生の笑い声。





 ――そんな騒ぎも、愛理が飛び出していって収まって。
「わざとにしろ本気にしろ、なかなか難しいところだったね」
「……どちらでも構いませんよ。私のために言ってくれたみたいですから」
 それにしたって、励ますには彼女らしくあまりに不器用すぎたと思うけれど。
「うん、それはそうだな。……いやしかし、ああいうところもあるんだね、彼女。意外に心配性だ」
「ええ、普段は絶対見せませんけど」
 ふうん、と言ってにやにやと笑う刑部先生。その笑顔の意味は、即ち。
 ――分かっているなら言ってあげればいいのにね。
「駄目ですよ。そういうの好きじゃないですから、彼女」
「だからこそ、だよ」
 表情はそのままに、こちらを試すようなその言葉。誘いに乗るのは負けだとしても、乗らなければ終わらない。つくづく、この人は教師に向いていると思う。生徒と対話する、という点において。
「先生、使いどころをわきまえるからこそ――」
「――切り札、かな」
「そういうことにしておいてください」
 小さく肩をすくめてみせると、ふっ、と今度は一転して優しい笑み。
「ま、ともかくだ。そういう『縁』はしっかりと握っていた方がいい。いつかきっと君の……そうだな、宝になる」
「宝……ですか」
「そうさ、何物にも代え難い、ね」
「……それは例えば先生にとって、笹倉先生のことですか? それとも――」
 使いどころをわきまえるからこそ、切り札。今がそうかはともかくとして、この程度なら許されるだろう、と彼女へのそれをちらつかせてみる。そこにあるのは『彼』の名前。
「ストップ、その先は言わなくていいよ。……これで引き分け、かな」
 苦笑に対する返事は、さあどうでしょう、の一言。
「それでは、ちょっと失礼します」
 そんな化かし合いも一段落、席を立って部屋の出口に向かい、そしてその扉の前で足を止め、後ろを向いたままで。
「――先生、私と愛理の『縁』はそんなに簡単に切れるものじゃありませんよ」
 そう、たとえ何があろうと。
「友達、ですから」
 ぱちぱち、と背後から聞こえた拍手にも、あえて振り向かずにそのまま廊下に出る。
「……さて、追いつけるかしら」
 愛理のことだから、家まで走って帰るような真似は絶対にしない。何でもないような顔をして、いつものように歩いているはず。
 ――なら、大丈夫。
 自然洩れる小さな笑み。一つ大きな深呼吸をして、久しぶりに――本当に久しぶりに、私は駆け出した。
 伏せたその切り札を開くために。





 案の定、学校を出ていくらもしないうちに、ゆっくりと歩くその後ろ姿。
「……何よ」
 声をかける前に気づかれた……と言うよりむしろ。
「待たせたかしら?」
「っ、そんなわけないでしょう?」
 そっぽを向く顔は、やはり赤い。その分かりやすさだけは昔から変わらないと思う。
 でも。
「変わったわね、愛理」
 良くも悪くも八方美人のお嬢様――それはもう、どこにもいない。自分の言葉で語り、自分の表情を見せる、そんな沢近愛理がそこにいる。
「美琴と仲良くなってからかしら」
「……関係ないわよ、別に」
 意地っ張りで強がりなところは、等身大にはまだまだ遠いけれど。とはいえ、それを口にするのは藪蛇以外の何物でもなく、さしあたっては心の中に留めておく。それもまた、私の持ち札。
「そう、ならそういうことにしておくわ」
「……だから何よ、その言い方は」
「別に。それと、こちらが本題なんだけど」
 伏せておいたカード。それは何もジョーカーである必要なんてない。使いどころさえ誤らなければ、どんなカードも切り札になる。
 そして、今使うべきそれは、ただ一言。
「ありがとう、愛理」
「……」
 反射的に何かを言おうとして、言えなくて、結局、ふん、なんて横を向く。うん、やっぱり分かりやすい。
「はあ……どうして私、あなたと付き合ってるのかしらね」
「理由なんて必要かしら?」
 諦めたせいなのかどうなのか、不思議と優しく聞こえるその声に、内心苦笑しつつも言葉を返す。
「……それもそうだけど」
「こういうのを『腐れ縁』って言うの」
「『腐れ縁』? 腐ってるとすぐ切れちゃうんじゃないの?」
「語源はそうじゃないの……要は切っても切れない関係、ということよ」
 きょとんとした顔の愛理。
「あなたと、私が?」
「そう。あなたと、私が。悪い話じゃないと思うけど」
 またしても言葉に詰まる愛理。
 けれど。
「変わったわね、晶も」 
 今度は、小さく微笑みつつ切り返してきた。
「私が?」
「そうよ。だってほら、昔はもっと……」
 そこで言葉に詰まる。確かに、愛理と出会ったあの頃の私には、周囲に目を向けるほどの余裕はなかった。もっとも、今思えばそんな私のそばにいた彼女は、やはり重度のお人好しになるのだろう。  まあ、それはともかくとして。結局の所、優しいから嘘はつけない、つまりは不器用なのだ。本人は絶対に否定するだろうけれど。
「そうね――」
 そんな彼女を見ながら思う。
 理由はあるかもしれない、ないかもしれない。
 ただ、なんとなく。
 そうやって私たちは変わっていく。
 変わり続けていく。
 ただ、私の場合は一つ確かなことがある。
 だから言っておく。
「――愛理のおかげかしら」
 たまには、駆け引き抜きで。
「……だから、なんでそうなるのよ」
「さあ、どうしてかしらね」
 仏頂面で、でもやっぱり赤面している友人にそう言ってから、それじゃ、と踵を返す。
「あら、まだ帰らないの?」
「一緒に帰りたかった?」
「……晶」
「冗談。部室の片付けがあるの」
 そう、と答える顔は心なしか残念そうではあるけれど、それ以上はもう言わない。何事もほどほどに。
「じゃあ、そういうことで」
「ええ、また明日」
 そうやって踏み出した、彼女のその足取りが軽いことを確認してから、私も歩き出す。
 学校へ、そして今日とは違う明日へ向けて。