Calling you




「ごめんね、付き合ってもらって……」
「気にしない気にしない。それに私好きだよ、八雲の描く絵」
 ありがとう、と赤くなって恥ずかしそうに言う八雲。最後の授業だった美術の時間、もはや恒例と言えることだったが、彼女は人一倍時間をかけて描いていた。
 ともあれその日も納得がいく所まで絵を仕上げ、見守るように残っていたサラと一緒に教室へ引き上げてきたところである。時刻はもう夕方、辺りは夕陽の色に染まっている。
「でもホント、集中してる時の八雲はすごいよ」
「そんなことないと思うんだけど……」
「私はうらやましいよ、八雲のそういうところ」
 微笑むサラ。
「それじゃ帰ろうか」
 そう言って八雲の先に立つようにして教室を出る。
「……うん」
 その後に続こうとした八雲だった。
 その時。
(…………)
「っ……」
 どこか遠くでささやくような声とともに、不意に違和感が彼女を襲った。
「これは――――」
 それは初めての感覚ではなく、かつて一度だけ美術室で感じたものと同じだった。
「……いるの?」
 誰もいない空間に呼びかける八雲。
「――驚いた」
 すっ、と。
 音を立てることもなく、長い髪をした少女の姿が沈む陽を背にして浮かび上がった。
「あなたの方から気がつくなんて」
 私はずっとあなたを見ていたのだけど、とあの時と変わらない淡々とした口調で言う。
「どうして……?」
「そうね……面白いから、かしら」
 疑問への答に、また疑問を重ねる八雲。
「私が面白い……?」
「そう。あなたの答は私が今まで聞いたどの答とも違っていたわ」
 もちろんまったく同じ人間なんていないのだけれど、と小さく呟いてから、今度は彼女が聞き返す。
「どうして私がいると分かったの?いくらあなたでも見えるわけはないのに」
「……『声』が聞こえた気がしたから」
 少し迷ってから自信なさげに答える八雲。
「……え?」
 一瞬その言葉の意味が分からずにきょとんとする彼女。
(私の『声』……)
 しかし、次の瞬間にはそれが意味することに気づき、そして。
「……ふふ」
「……?」
「ふふ、あははははっ」
 笑い声を上げていた。何がどうなったのかを把握できずに戸惑う八雲の前で、なおも彼女は笑い続ける。
(いつ以来かしら、笑うのなんて)
 思い返す記憶は時間の流れの中に埋もれている。もしかすると、今まで笑ったことなどなかったのかもしれない。
 けれど、今大事なのはそんなことではない。
(そう。つまりこういうことなのね)
 誰かを好きになる、ということ。
 同性であれ異性であれ、好意というのはそうして気がつかないうちに生まれていくものだと。
八雲のその一言で、彼女は一つの解答を得たように思った。
「あなた面白いわ、本当に」
 ひとしきり笑い終えた後で、今まで見せたことのない穏やかな表情で言う。
「……ありがとう」
 その返事に、そういうところもね、と今度は控えめに微笑んでみせて。
「また、があるといいわね」
「あ……」
 それじゃあ、と。
 呼び止める間もなく、現れた時と同じ唐突さで姿を消す彼女。
 そして。
「もう、またぼーっとしてるよ」
 はっとして振り返れば、ちょっと呆れたような笑顔でドアの向こうからひょこっと首を突き出しているサラの姿。
「サラ……」
 その声に我に返ってみれば、そこにあるのは夕焼けに染まったいつもの教室で、先ほどまでの違和感はもうどこにもない。
「おいてっちゃうよ」
「ごめん、今行くから……」
 冗談めかして言うサラを追いかけて教室を出ようとしたその時。
(……あり が とう)
「――――え?」
 小さなささやきが聞こえたような気がして、思わず足を止めて振り返る八雲。
 その視線の向こうで。
 まばゆい赤光の中で舞う小さな白い影、それが確かに見えたような気がした。
「……またね」
 そう言い残して八雲も教室を出る。
 後に残るのは無人の空間、その中で。
 ふわり、と。
 風もないのに緩やかにカーテンが舞い続けていた――――