The day of departure




 忘れ物はないか。
 喉元まで出かかったそんな言葉に苦笑する絃子。その目の前では、何をコイツは笑ってやがるんだ、ときょとんとした表情の拳児が立っている。
「なんでもないよ。我ながら、ひどく馬鹿なこと言いそうになったんでね」
「あん……?」
 まだ腑に落ちない、という顔をしている拳児に、だから気にするなと言っているだろう、そう言いながらぽんぽんとその頭を軽く叩く。
「何しやがるっ!」
「いや、君も随分と大きくなったもんだと思って」
「……高校入ってからほとんど身長伸びてねぇぞ」
「そういう意味じゃない。まあ、確かに君に初めて会った頃から考えれば、そっちも十分すぎるくらい大きくなった気がするけどな」
 ふっ、と懐かしむような笑み。どうでもいいようなその思い出は、不思議と彼女の中で色褪せずにあの頃のまま形を留めている。
「……昔のことは忘れてくれ」
「おや、さすがの君でも羞恥心はあるんだな。でもね、残念ながら私の方は何故か忘れたくても忘れられなくてね、例えば……」
「てめぇ……そっちがそうならな、こっちだって知ってるんだぜ、いろいろ」
 拳児のその言葉に、そうだった、とすっかり忘れていたように絃子。それは困ったね、とわざとらしく顔をしかめてみせる。
「じゃあお互い触れられたくない過去、ということで痛み分けにしないか?」
「っつーかよ、そもそも絃子が言い出さなきゃ」
「何かな?」
「なんでもねぇ」
 この三年間、幾度となく繰り返されたそんなやりとり。どこか予定調和めいてさえいるそれに、どちらからともなく笑い出す二人。
「駄目だね、やはり君とまともな会話は出来そうにないよ」
「けっ、言ってろ。で、さっきのはどういう意味だよ」
「うん? ああ、大きくなった、というやつか。別にそのままだよ」
 だからそれが分かんねぇんだ、そう返してくる拳児に、やれやれ、と溜息。
「そういうところを見せられると、私の見込み違いじゃないかと思えてくるけどね……。まあいい、折角の門出だ、ちゃんと言っておこう。要はね、大人になった、ということさ」
「大人に……?」
「ああ、まだまだ及第点とはいかないけどね。それでもここに転がり込んできた頃に比べれば飛躍的な進歩だよ。もっとも、もう十八なんだから当然と言えば当然だが」
 思いがけずかけられたそんな言葉に動揺する拳児。思い返せば、この部屋に住むようになってから、彼女に褒められたことなど何回あっただろうか――そんな思いが頭をよぎる。一方、絃子はそんな彼の様子に気づいているのかいないのか、淡々と話し続けている。
「てっきり私はずっとあのままかと思っていたんだけどね、勘が外れたよ。にしても、だ。目に見えて君が変わりだしたのが二年の終わりくらいからだったよな」
 と、その口調がいつもの意地の悪いそれへと変わる。む、と拳児が視線を上げれば、そこにはにやにやとしたこれまた意地の悪い微笑み。
「やはりこれはあれかな。オンナが出来るとオトコは変わる、というやつか」
「っ! んな、な、何言ってやがるっ!」
「……ムキになると逆に怪しい、というのはいい加減学んだ方がいいと思うぞ」
 まだあたふたとしている拳児の様子に、今度は苦笑がもれる絃子。
「さて、こんなところにしておこうか。あまりいじめるのも可哀想だからな」
「覚えてやがれ……」
「ああ、いつか君が私を言い負かせるくらいになるまで、ね。それじゃ――」
 さよならだ、と。
 まるで何でもないことのように絃子は口にする。
「おう」
 拳児の返事もまた同様。
 それはいつも出かけるときと同じように。
「じゃあな」
 ただその最後だけが。
「達者でな」
 別れを告げるそれだった。





 ばたん、という音とともにドアが閉まる。
 それを見届けてから、ふう、と大きく息をつく絃子。誰もいない玄関、そこで一人立ったままでしばらく瞳を閉じ、それから鍵をかけて居間へと戻る。
 なんとはなしに、いつものようにスナック菓子の袋を片手に――ただしビールには手をつけず、テレビのリモコンを操作する。ぶうん、と音を立てて画面に像が結ばれる。毒にも薬にもならないようなワイドショー、その喧騒を聞き流しながら、黙々とポテトチップスを頬張る。
「……」
 やがてそれにも飽きたのか、テレビを消してついと立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。向かう先は主を持たない無人の部屋。
「……広いな」
 ほんの数日前までは窮屈に見えていたその部屋が、がらんどうの今は何倍にも見えてぽつりと呟く。誰もいないそこからは、当然ながら返事は返ってこない。そんな当たり前のことに、安堵と寂寥の入り混じった複雑な感覚を覚えつつ、そのまま窓を開けてベランダへと出る。
「――――――――」
 普段とはほんの数メートル離れただけの、そのベランダから見えた景色。それが、彼女には何故かいつもとまったく違うものに見えた。
 三年間、一度も足を踏み入れることのなかった場所。
「君はこの景色を見ていたんだな」
 恐らく、次にこの場所に立ったときにはもはや見ることの出来ない、今この瞬間、ただ一度きりだろう景色を目にしっかりと焼き付ける絃子。
「さあ、がんばろうか」
 自分自身か、あるいは巣立った彼か。
 どちらにともなく呟いたその言葉は、緩やかな春風に吹かれ、宙に舞った――