Every Breath You Take
Epilogue II
――変わってない。
それが再びこの地に降り立って、まず彼女が思ったことだった。
いくつかのささやかな手続きを終え、トランク一つで佇む空港のロビー。
異邦人たる少女を取り巻くのは、異国のざわめき。
――でも。
初めてこの国にやってきたときと違うことがある。
それは。
――思い出がある。
かつて過ごした一年足らずの時間、その中での出会い――そして別れ。
――約束がある。
帰ってきた、と彼女は思う。
あの騒がしくも懐かしい日々に。
――大丈夫。
そのとき、ふと名を呼ばれた気がして少女は辺りに目をやる。
「あ……」
まず目に入ったのは、一番会いたかった友人の笑顔。軽く手を上げて自分も笑顔で返しながら、改めてその後ろに視線を動かせば、見知った顔がずらりとならんでいるのに気がつく。
――帰ってきた。
そちらへと歩を進めながら、今更のようにそれを実感する。
そして、まず何を言おうか、頭の片隅に置いていたそんな考えは、目の前の友人の笑顔にあっさりとその必要を失う。
「お帰り、サラ」
言葉とともに差し出されたその手を取って。
「――ただいま、八雲」
とびきりの笑顔で、少女は答えた。
◆
Prologue
「――分かりました。急な話ですが仕方ありませんね」
「申し訳ありません。私達もいろいろと手を尽くしたのですが……」
苦渋をにじませる両親に習うように、少女も小さく頭を下げる。
「謝られることではないですよ。世の中、ままならないことが多いものです」
「そう言っていただけると助かります」
「いえ、お気になさらず。――では」
「はい、よろしくお願い致します」
席を立ち部屋を出て行く両親と、それを見送る教師。
少女は座ったままでそれを見ている。
「……」
からからとドアが開き、からからとドアが閉まる。
――そして、静寂。
無音という名の音が静かに響く。
「……それで」
やがてそれを打ち破るように、教師――絃子が口を開く。
「君はそれでいいのかな」
疑問なのか、確認なのか。小さな呟き。
「別れを告げられるのは、辛いですから」
少女――サラは淡々と答える。
静かに微笑んで。
「……分かった。では皆には伏せておく、それでいいんだね」
ほんの一瞬。
「はい」
けれど確かに間を置いて。
サラはそう頷いた。
――――"Every Breath You Take", or The place promised in our merry days.
◆
§1 Every single day ―― Dec.20 Mon.
/1
「ねえ、八雲。最近さ、サラって何かあったのかな?」
「……ごめん、私も分からないんだ」
「そっか……八雲にも分からないんだったらしょうがないね……」
そんな会話を交わしたのは、もう何度目だったか。
視界の中、教室の中心で友人たちと談笑しているそのクラスメイト名前を心の中で呟く。
サラ・アディエマス。
彼女の様子がどこかおかしい、それに気がついたのがいつだったかを思い返してみる八雲。
それほど前ではないはずだし、逆につい最近というわけでもない。
――ただ。
ただ気がつけば、いつのまにかどこか彼女は変わってしまったと、そう思う。
具体的にどこが、と訊かれたなら答えに窮してしまうような些細な変化。
見た目には変わらず、いつものように笑い、いつものように会話する彼女。
それでも、八雲は思ってしまう。それがあくまで『ように』に過ぎないと。
気づいている者は決して多くない、ひどくささやかな、けれど確かな違和感。
そんな僅かな差異が静かに折り重なり、不安という形を成して彼女を苛む。
何度も訊いてみようと思った。
『……サラ』
けれど。
『ん? どうしたの、八雲』
そこにあるのは笑顔。だから、訊けない。
訊けばきっとそれを壊してしまうから。
『……ううん、なんでもない』
結局、逡巡の末に紡がれるのはいつもその言葉。本当に言いたかった言葉だけが胸の奥に仕舞い込まれ、堆積し、そしてまた、不安という名の痛みとなる。
絵に描いたように絡み合い落ちていく螺旋――その中で、思い出だけが消えない。
あの日、野犬から護ってくれた彼女は、以来ずっと傍に在り、誰より一番近くにいると、そう思っていた。生来の性格の所為か、上手く周囲と馴染めずにいた八雲を、まるでそれが何でもないことのようにその輪に溶け込ませてくれたサラ。始めはその環境の変化に戸惑っていた八雲だったが、いつしかそれを当然のことと考えられるようになり、自然とそう振る舞えるようになっていった。
いつだって、彼女は優しくそれを見守ってくれていた。
そんな記憶に彩られた二人の距離、それが今の八雲には漠とした、ひどく遠いものに感じられる。
まるで背中合わせに立って、それぞれ自分の正面に向かって指を伸ばしているような――そんな絶望的な距離。
限りなく近くて遠い場所に身を置いて、今日も八雲は一人問う。
――どうしてそんな、寂しそうに笑うの?
心の中のそれに答はない。
クリスマスと冬休みを目前に控え、どこか浮き足立つ教室の中、ただ不安だけが澱のように降り積もる。
/2
「――なんですよ」
「ほう、それはまた……」
放課後の部室、楽しげな会話を交わすサラと絃子の声が響く中、軽く相槌を打つだけの八雲は、伏し目がちの視線を紅茶が注がれたカップの上に落とす。そこに映るのはひどく物憂げな自分の表情。
こういうときだからこそ、とは思うものの、そう簡単に気持ちはついてはこず、何より、なんでもないように振る舞うのが正しいのかどうか、それすらも分からない。駄目だ駄目だと考えていても、あふれた想いは自然溜息になる。
「……八雲、大丈夫?」
「あ……」
気がつけば、こちらを覗き込んでいるサラ。当然本当のことなど言えるはずもなく、なんでもないよ、と取り繕ってから、そろそろ帰るね、と逃げるように立ち上がる。
「あれ、もう帰るの?」
「……うん、買物しなきゃいけないし」
まだカップに半分ほど残っていた紅茶を一息に飲み干して、それじゃ私も、と一緒に席を立ちかけるサラを、付き合わせちゃうと悪いし、とやんわりと制する。
本音を言えば、以前のように二人並んで、取り留めもないことを話しながら歩きたい、そう思う。けれど、今は出来ない。この薄氷の上を渡るような、そんな今の関係を壊してしまう――そんな気がしてしまうから。
「それじゃ刑部先生、失礼します」
軽く手を上げる絃子に小さく一礼し、またね、とサラに声をかけてから八雲は静かに部屋を出た。
その後ろ姿を見送ってから、ん、と軽く一伸びして立ち上がる絃子。歩を進める先は窓際、そこから外を眺める。
冬らしく低い空は、けれどまるで何の問題もない、と言わんばかりに青く晴れ上がっている。
「なあ」
そんな空を見つめながら、背後のサラに絃子は問う。
「幸せというのは何だと思う?」
「幸せ……ですか?」
唐突なその言葉に少し首をかしげてから、世界平和なんてどうです、とサラ。
「それはまた随分と大きく出たね」
「でも不幸じゃないですよ、きっと。私はみんなが幸せであればいい、って思ってますから」
「……そうか。じゃあ」
そこで振り向く絃子。
見据えるのはサラの瞳。
「もう一つ訊いておこうか――君の幸せとは何かな?」
「? それは今……」
「いや、私が訊いているのは『君自身の幸せ』だよ」
「……それは」
重ねられた言葉にわずかに俯くサラ。
「別に今答えてくれなくても構わないよ。そうだな、では宿題にしておこうか」
提出期限は無制限だ、と小さく笑ってみせる絃子。
「さて、そろそろ君も帰った方がいい。この時分、暗くなるのは思っているより早いものだしね」
一瞬何かを言いかけたサラだったが、結局頷いてそのまま立ち上がる。
「片付けは私がやっておこう。それじゃ、気をつけてな」
「――はい」
わずかな沈黙と返す言葉、そして小さな微笑み。そんなものを残して出て行くサラ、そして入れ替わるように。
「お邪魔します」
「ようこそ、笹倉先生」
◆
Overture
入ってきた葉子に大仰な一礼をしてから、コーヒーでも入れるよ、と絃子。
「君はインスタントで十分だよな」
「あ、どういう意味ですか、それ」
「いやいや、別に他意はないよ?」
保温になっていた電気ポットからこぽこぽとお湯を注ぎながらのそんなやりとりに、先刻までのどこか重苦しい空気がゆっくりと払われていく。
「さて――」
出来上がったコーヒーを葉子の前に出し、その向かいに腰掛ける。
「――どこから聞いてたのかな?」
「……分かっちゃいました?」
「まったく、立ち聞きはあまり褒められたことじゃないよ。君のことだからたまたまだろうけどね」
少しバツが悪そうに頬をかく葉子。
「……で?」
「そうですね、塚本さんが出て行った辺りです」
あの、とわずかに迷う素振りを見せてから問を口にする。
「何かあったんですか、あの二人」
「君の所には話はいってないのか。直接関係ないとは言え、この学校ときたら、まったく……」
これだから、と小さく呟いてから答える絃子。
「彼女、帰るんだよ。国に」
「――え?」
「こっちにその可能性もある、って話が来たのが月の頭、本決まりになったのが一週間前、かな」
「そうだったんですか……」
「もっとも水面下ではいろいろあったんだろうね、あの子が変わりだしたのはもう少し前からだ」
事実だけを淡々と告げていくその顔に、表情はない。
「私の方で動くように仕向ければ今みたいにはならなかっただろうけど、それじゃ意味がないんだ」
「……出発は?」
「26日、休みに入ったらすぐだ」
「それじゃ……!」
「ああ、時間がない」
それでも信じてるからこうしたんだけどね、という笑みは様々な感情が交錯する複雑なもの。
「……それで、だったんですね」
何かあったのか、という顔をする絃子に、塚本さんのことです、と話し始める葉子。
「最近、よく美術室で絵を描いてるんです、彼女。でも……」
「でも?」
「人物画なんですけど、いつも同じ所でやめちゃうんです――表情を描こうとして」
顔のない肖像――それを思い浮かべ、小さく唇を噛む絃子。
「気になりますか? ……その、担任として」
「……それだけじゃないさ」
分かってるんだろう、というその表情は寂しげな笑み。
「大切だから、傷つけたくないから知らずその相手を傷つける。……まるで何時かの何処かの誰かさんみたいだ」
「……刑部さん」
「ま、そんなどうしようもないくらいの大馬鹿者のことはいいとして、だよ」
『刑部先生』ではなく『刑部さん』と。友として呼んでくれた友人に応えるように、なあ葉子、と絃子は言う。
「本当に取り返しがつかない、そんなことそう多くはないんだ。大抵の場合時間がどうにかしてくれる」
「……ええ」
「やり直すことだって、取り返すことだって、掴み取ることだって出来る。……でもね」
私は、と。遠くを見るような眼差しで。
「後悔はして欲しくないんだ。出来なかったからじゃない、やれることをしなかった、そんな後悔を」
その言葉に何も言わず頷いた葉子に、ありがとう、そう言ってからぽつりと呟く。
「得難いものだよ、本当に――」
まったくさ、と一つ溜息。
「――親友というヤツは、ね」
そして手放しちゃいけないんだ、と。
◆
§2 Every word you say ―― Dec.21 Tue.
/1
「……」
無人の美術室に、鉛筆を走らせる音だけが響く。
スケッチブックを埋めていく黒い線を見つめながら、八雲は思いを巡らせる。
――サラ。
以前何度かモデルになってもらおうとしたこともあったが、その度に、私なんか描いてもしょうがないよ、と断られてきた。それでも毎日顔を合わす間柄、姉である天満を除けば、高校に入ってから一緒に過ごした時間は一番の相手、本人が目の前にいなくても描ける自信はあった。
――なのに。
思い返せば、彼女はいつだって微笑んでいたというのに。
それなのに、その笑顔がどうしても思い出せない。
脳裏に浮かぶのは、あの泣き出してしまいそうな笑顔だけ。
「っ……」
そして今日も、その部分だけを残して鉛筆を動かす手は止まってしまう。出来上がったのはもう幾つ目になるのか、顔のない肖像画。溜息とともにページを繰れば、粛々とそれが並んでいる。
嘘でもいいから描いてしまえ、とそう思い、けれどそれは出来ない、といつも踏みとどまる。
そうしてしまえば、今までのすべてさえ嘘になってしまいそうで。
「……サラ」
やり場のない想いを胸にその名を呟いたとき、ふと視線を感じる。
ここのところ、こうして絵を描いているとどこからか毎日感じられるそれ。決して悪意によるものではなく、じっと静かに見守っているような眼差し。
ただ、その主だけがいつも見つからない。どうせ今日も、そう思いながら辺りを見回してくるりと振り向いた視線のその先、教室の入り口に、いつもなら影も形も見えない人の姿。
「……笹倉先生」
そこで微笑みながら小さく手を振っていたのは、笹倉葉子その人だった。
「最近塚本さん頑張ってるな、って思ってね」
邪魔しちゃったかな、と教室に入ってきた葉子は、そんなこと、という八雲の言葉に、ありがとう、と言ってからそこかしこに立てかけられた絵を眺めながら話し始める。
「あ……じゃあいつも見に来てるのって先生なんですか?」
「毎日じゃないけどね。塚本さんがよく来てるのは知ってるよ」
それはつまり、何を描いているのかも知っている、ということ。胸元にスケッチブックを抱える八雲の手に、わずかに力がこもる。けれど、葉子は何も訊かず、何も言わない。
「……あの、先生」
「何かしら」
それが、まるで自分を待っているようにも思えて、自ら話し出す八雲。
「先生は描きたいものが描けなくなったこと、ありますか?」
「……それは技術的に、じゃないんだよね」
「はい」
そうだな、と言いながら、ゆっくりと八雲の前に腰掛ける葉子。
「あるよ、私にも。どうしても描いたものに納得出来なくて、こんなはずじゃないって」
「……どうしたんですか、そのとき」
おずおずと、不安と期待の入り混じった瞳で見上げるようにして尋ねる八雲。対する葉子は瞳を閉じて、思い出を辿る。
「描いて描いて、好きだったはずの描くことが嫌になるくらいまで描いて、そしてね」
「……そして?」
さらりと。
「描くのをやめちゃった――なんて、何かの受け売りみたいだけどね」
ほら、あの魔女の女の子の、と微笑む葉子。
「やめちゃった……んですか?」
「完全に、じゃないけどね。ただ、離れてみるのもいいんじゃないか」
懐かしそうな表情、遠くを見つめる瞳。
「近すぎても見えないものってあるから、そんなこと言われてね、ああそうなのかなって」
あれは効いたな、と小さな呟き。
「駄目押しはね、それは君が本当に描きたいものなのか、もう一度ゆっくり考えてみることだ、これかな」
「本当に描きたいもの……」
「そのとき思ったの、私はこの人を描いてみたい、自分の持てるすべてで……なんてね」
幸せそうに笑う葉子。それは、為すべきことを、為せることを、為したいことを見つけた者の笑み。
「絵を描くっていうのはね、とても難しくてとても簡単なこと、私はそう思うの」
「……はい」
「そしてね、自分が傷つくことも、相手を傷つけることも、どちらも恐れないで踏み込む勇気が必要なときもあるの」
「踏み込む、勇気」
「……私はそれに助けてもらったから」
これは絵に限ったことじゃないけど、そう話を結ぶ。
「なんだか、話し過ぎちゃったね」
「いえ、そんなことありません」
ありがとうございました、と頭を下げて荷物をまとめ始める八雲。
「いいえ、どういたしまして。今日はもう帰るんだ」
「はい。……私も考えてみます、いろいろ」
それでは、と教室を出て行こうとしたが、あ、と思いついたことがあって足を止める。
「あの、先生。さっきのお話の方とは今も……」
「ええ、今もちゃんと友達よ。一番大事な、ね」
葉子の答は、やはり笑顔とともにあった。
/2
「今日は先輩だけですか?」
いつものように――ただし一人で――部室を訪れたサラが、文庫本に目を落としている晶にそう声をかける。もっとも、今日『は』と言ったものの、いつも通りと言えばいつも通りの光景である。
「ウチの方針は開店休業だからね」
それに対しては別段何も思っていないのか、冗談とも本気ともつかないような答えを返す晶。
「いいんですか? 部長がそんなこと言ってて」
「いいんだよ。来る者拒まず去る者追わず、本気でお茶をやりたいなら教えるけど、そこまでじゃないでしょう?」
「うーん、そうですね。あ、でも来る者拒まず、って花井先輩は……」
「彼は別格」
どうやらこれは本気らしく、にべもなく言い放つ。そんないつもながらの態度に苦笑しつつも、どうしてなんです、と尋ねてみるサラ。しばらく考えて晶の出した答は――
「――なんとなく」
これ以上ないというくらいに『らしい』解答に、今度は思わず吹き出してしまう。
「なんとなく、ですか。それじゃしょうがないですね」
「そ。まあ、あれくらいじゃ懲りないよ、彼」
それはそれで楽しいのか、小さく――本当に小さく笑みを浮かべて、再び手にした本に目を落とす。
一方、どこか手持ち無沙汰なサラ、なんとはなしに備品の点検や整理をしてみるものの、気分はどこか落ち着かない。結局それも数分で終わってしまい、溜息混じりに椅子に腰を下ろす。
部屋に在るのは静かなページをめくる音だけ。これもまた、ある意味で以前ならよくある光景、決してそれを不快に感じることなどなかったはずなのに、今のサラはそこに居心地の悪さを見てしまう。
「先輩、何読んでるんですか?」
結果、しばらく迷ってからもう一度晶に声をかける。うん、と返事をした晶は、どう答えるかしばらく考えた様子だったが、やがて映画のノベライズ、と口にした。
「映画ですか。どんなお話か訊いてもいいですか?」
「そうだね……」
かいつまんでそのストーリーを話す晶。
人々が争うのは『怒り』という感情を持つからである――そんな理由から、薬物により感情の発露を押さえ込むことで、恒久的な平和を実現しようとする社会。一見それは成功しているようで、けれど一方では薬物摂取をやめ、芸術を始めとした『感情』を必要とする行為を愛でる者たちを、一方的に『排除』していく。
その中で、『排除』の実働部隊の一員であった主人公は、友人がそんな『反乱者』の一人であったことを知り、彼を自らの手で『排除』してしまったことから、社会に対し疑問を持ち、やがて反乱の中に身を投じることとなる――
概略をまとめるならば、このようになる。
「どう思う?」
語り終えた晶が問うてくる。いつものポーカーフェイスで見つめるのは、サラの瞳。
「よくある話……なんて言っちゃいけないんですよね」
「うん、これだけならそうかもしれないね」
恐る恐る、といった様子で答えたサラを肯定する晶。ただし、でもね、と言葉は続く。
「この世界を作り替えるために、結局主人公は戦って敵を『排除』するの。それに、物語はこの反乱が起きたところで終わってる。それが上手くいくのかどうかは誰にも分からない。ただ、一つの『戦争』が始まった――分かるのはそれだけ」
彼女にしては珍しく饒舌に、淡々と言葉を綴っていく。
「感情がなければ争うこともない、でも笑いあうことさえ出来ない」
――謡うようなその言葉は。
「けれど笑いあうためには傷つけあうことも覚悟しないといけない」
――小さな棘のように心に刺さる。
「ねえ、サラ――」
――そして。
「――どちらが正しいと思う?」
誰と争うこともなく、けれど誰とも交わることなく生きていく。
誰と争うとしても、それでも誰かと交わり生きていく。
――そのどちらが正しいか、そんな問いかけ。
『みんなが幸せであればいい、って思ってますから』
『――君の幸せとは何かな?』
昨日のやりとりが脳裏をよぎる。鈍い痛み。
「私は……」
わずかにうつむき、知らず拳を握りしめたサラが、それでも答えようとしたとき。
「ごめん、意地悪だったかな」
「え……?」
晶の方が先に口を開く。
「これはね、どちらが正しいかじゃないと思うの、本当は。ただ、選ぶというのがどういうことなのか、それだけ」
どちらを選んだとしても、何も傷つけずにいることは出来ない。それでもどちらかを選び、進んで行かなくてはいけない。そういうことなのだと、晶は言う。
「だからさっきの質問はちょっと意地悪だね。答えられないのも分かる」
「……先輩」
「でもね、それを考えるのは悪いことじゃないと思う」
そう締めくくり、それじゃ私は、と立ち上がる。
「あなたはどうする?」
「……もう少しだけ、残っていきます」
「……そう。それじゃ戸締まりよろしくね」
はい、というサラの返事を聞いて、晶は出て行き、一人部屋に取り残されるサラ。窓の向こうの空には、いつのまにか夕闇の翳りが足音をひそめて忍び寄ってきていた。
◆
Prelude
――美術室。
八雲の姿が見えなくなるまで見送ってから、椅子に腰を下ろす葉子。
「……塚本さん」
頑張って、と小さな囁き。
「今の私が描きたいのは、あなたたちの笑顔だから」
宵闇が遠く忍び寄る教室の中で、その言葉だけが確かに響く。
――校庭。
昏い蒼の混じり始めた、けれどまだ目の醒めるような赤光の中、立ち止まって校舎を振り返る晶。
「……ごめん、サラ」
紡がれたのは謝罪の言葉。
「私には何も出来ないから……」
その先に続く想いはもはや放たれることなく仕舞い込まれ、晶は再び歩き出す。
――冬の宵。
それは驚くほどに素早く空を黒く溶かしていく。
音もなく、ただ静かに――
◆
§3 With every step you take ―― Dec.22 Wed.
/0
――その日。
前日の雨天という予報とは裏腹に、空は朝から素晴らしいくらいに晴れ上がっていた。
蒼く、ただ蒼く――
/1
「っしゃ、終わりっと」
「あー! そこまだでしょ!」
授業はなしの、やることは大掃除のみ、加えて翌日が祝日ともなれば――何をか況や、という状況。掃除もそこそこに飛び出していく者、それを連れ戻す者、様々な駆け引きと高々度の情報戦がその裏では行われている、とはもっぱらの噂。
微笑ましいと言えば微笑ましい、そんな光景にわずかに顔を綻ばせる八雲。しばらく続いていた鬱々とし気分を変えさせたのは、やはり昨日の葉子との会話。
――歩きだそう。
ただ待っているだけでは変えられないことがある。だから、たとえそこに何があっても。
――決めたから。
なら、後は最初の一歩を。
「サラは今日何か用事ある?」
その距離を縮める為に。
「ううん、大丈夫だよ」
記憶の中の姿に手を伸ばすように。
「それじゃ、二人でどこか行こうか」
距離を置いてみるのもいい、葉子はそうも言った。
けれどそれは逃げ出すということではなく、一度近づけるところまで近づいて、それからだと。
「――うん、そうだね」
久しぶりに、そう笑うサラ。
けれど、やはりそれは八雲が見たかった笑顔ではない。
じくり――滲むような鈍い痛み。
――でも。
八雲は思う。
もう逃げたりはしないと。
それが、小さい、けれど確かな、彼女の誓い。
/2
「ホント、なんだか久しぶりだよね、こういうの」
「……うん」
そして、一日は終わりを告げようとしている。
最後に、とカフェテリアで軽い休憩を取る二人。時刻は既に黄昏時、普段なら燃えるような茜色に染まる空、けれど今あるそれは、思い出したように予報を追いかけて、天を覆うのは鈍色の雲。
じきに降り出す――そんな空を窓越しに見上げながら、もう一度だけ考える八雲。
学校を出た二人が向かったのは、駅前のメインストリート。学校帰りに高額の持ち合わせなど当然あるはずもなく、お決まりのウィンドウショッピングをしながら、幾つかの店を巡った。
洋服、アクセサリ、エトセトラ。目を輝かせてそれらを見てまわり、喜々として会話するサラのその姿は、八雲にとって本当に随分と久しぶりに見るかつての彼女の姿で。
――このままでいいんじゃないか。
そんな思いが脳裏をよぎった。
その向こうに何かがあるのは絶対に確か、それでも目を瞑ってしまいさえすれば、こんなにも幸せだから。
何事もなかったように。
当たり前のように。
あの騒がしくも楽しい日々を。
――それでも。
「ねえ、サラ」
「ん? 何?」
――果たすべき誓いが、ある。
「……少し、歩こうか」
昼間と同じその道は、しかし低く垂れ籠めた空に引きずられるように、どこか沈んで見える。クリスマスを目前にした意匠や電飾の色彩だけが、現実と乖離したように自己主張をしている。
そんなちぐはぐのモザイク染みた通りを、サラを背後に八雲は黙々と歩く。初めこそ言葉を投げかけてきていたサラも、彼女の雰囲気に何かを感じ取ったのか、今はただ黙ってその後に続いている。
やがて辿り着いたその場所は。
「……学校?」
どうして、という顔で疑問を口にしたサラにも足を止めず、そのまま中へと歩を進める八雲。
――そして。
「……ここで初めてサラに逢ったんだよね」
中庭の中心で、ようやく口を開く。
「それまでは、ただのクラスメイトだった。でも、あの日からそうじゃなくなったよね」
そう言って瞳を閉じる。
目蓋の裏には色褪せない光景。
吠える野犬。
腕の中の伊織。
――とても大きく見えた、サラの背中。
「『サラって呼んで』、そう言われたのが嬉しかった。友達になれたって思えたから」
きっとそれが、どこか浮世離れしていた彼女が周囲に溶け込んでいく分岐点。
「あれからずっと、サラのこと友達だって思ってる」
それは今も。
「……だから教えて」
そしてこれからも。
「――サラ、私に何か隠してる」
その言葉に、うつむいていたサラの肩がびくりと震える。
「私じゃ力になれるか、役に立てるかどうか分からない。でも友達だから」
一言毎に、突き刺さるような痛みを訴える心。
けれど、もう逃げないと決めたから。
「今じゃなくてもいい、でも必ず聞かせて」
返事はない。
それでも。
「私は……私はずっと待ってるから」
/3
「私は……私はずっと待ってるから」
そう言った八雲の顔が見られない。
――どうしても、うつむいた顔が上げられない。
何かを言おう、そんな思考は胸の奥で空回りし続ける。
――そもそも、一体何を言おうというのか。
どれくらいそうしていたのか、地面だけが広がるその視界の片隅で動き出す八雲。
「……っ!」
ようやく上げられた顔、そして見えたのは去っていく彼女の姿。
けれど、待って、という言葉は声にならなず、かは、という吐息だけが空気を揺らす。
伸ばした指は空を掴み。
踏みだそうとした足は一歩も動くことなく。
ただその後ろ姿だけが小さくなっていき――消える。
「や、くも」
くずおれそうな身体からようやく放たれたその声は、まるで自分のものではないかのように歪に捻れ、届けるべき相手に届くことは決してない。
――ぽつり、と。
そんなサラの上に、遙か空から水滴が落ちてくる。ぽつり、ぽつりと、様子を窺うようにしていたそれは、やがて数を増し、強さを増し、途切れることのない雨へと変わる。
厚い雲の向こうで沈み往く陽に翳り往く景色。
その中で、サラはただ立ち尽くす。
「――雨、止まないや」
遠く聞こえる車の音。それだけを残して、不規則という名の規則に乗った水滴の奏でる旋律で、世界は閉ざされていく。
「……八雲」
呟きはそんな雨音に掻き消され、何処にも届かない――筈だった。
「ときには雨に打たれてみるのも悪くはないと思うが……どうもそういうわけではないみたいだね」
不意に背後から聞き覚えのある声。一瞬息を詰まらせ、そしてゆっくりと振り向けば。
「……刑部先生」
そこにあったのは、深いブルーの傘を差して佇む絃子の姿だった。奇遇だね、と本気か冗談か分からないいつも通りのその口調は、責めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただサラへと向けられる。
「さて、こんなところで立ち話もなんだし、何よりこの季節にそのままではね」
行こうか、そうすっと差し出された傘は。
「……はい」
――とても大きく見えた。
/4
「取り敢えず風呂を沸かしてくるよ。しばらくそれで我慢してくれ」
道すがら、サラのことをおもんばかってなのか一切口を開かなかった絃子。家に到着したあとの第一声はそれだった。その言葉に従い、手渡された大きなバスタオルを頭からぼっくりとかぶり、濡れた衣服を脱ぐサラ。
「……お邪魔します」
そう言って足を踏み入れたのはリビング。シンプルな内装に、目立つものと言えば大型のテレビくらいのもの。ある意味で実践主義とも言える絃子には相応しい様子である。
――と。
「あれ……?」
そんな中、場違いな空気を放っている物を見つけるサラ。
――ぬいぐるみ。
360°、どこから見てもそうとしか見えないそれは、部屋の片隅でひっそりと愛嬌を振りまいている。
「悪いね、もう少し……っと、どうかしたのかな?」
「あ、いえ……」
準備を終えたらしく、こちらへと戻ってきた絃子に尋ねられ、なんとなくバツが悪く誤魔化してしまう……が、その視線を辿って言わんとすることは悟られてしまったらしい。
「ああ、それか。私じゃなくて居候のだよ」
変なところで寂しがりなヤツでね、とやや呆れたような表情。
「他に住んでる方がいらっしゃるんですか?」
「いらっしゃると言うか……ま、さっき部屋にきっちりと押し込んでおいたから気にしないでくれ」
「はあ……あの、ご挨拶とかは……」
「いらないいらない、そんな気をつかう必要は微塵もない。それに、その恰好は些か刺激的だと思うよ」
今更のように自分がバスタオル一枚、などというとんでもない恰好でいたことを思い出すサラ。同性である絃子の前とはいえ、頬が熱くなるのを感じる。
「着替えは適当に見繕っておくよ。若干問題がないわけでもなさそうだが……」
何を見てそう言ったのか、サラが追った視線のその先は――
「……先生、ひどいです」
「いやいや、客観的な事実、というやつだよ。それより」
ふ、と表情を崩す絃子。
「ちゃんと笑えるじゃないか。安心したよ」
「――あ」
そこで初めて、どういう訳か自分が安心していることに気がつく。あのとき八雲の背中を見送った不安は、決して消えてはいないものの、今心の中の大半を占めているのはそれではない。
それが何故か――その理由を考えて、一つのことに思い当たるサラ。
今、自分はこの人に頼っているのだと。
皮肉めいた物言いの裏にある優しさ。
突き放したようでそばにいる距離感。
言葉にしてしまえばどうということのないそれは、つまり刑部絃子という人の魅力。それは誰しもが持っているわけではない、不思議と人を惹きつける力。
「そんな風に頼ってもらえると、教師冥利に尽きるというものだよ」
「先生……」
ゆっくりと、独り抱え込んでいた何かが解けていく感覚。
「さて、それじゃどのみち帰りは遅くなる。電話の一つも入れておくといい」
くい、と指差された電話を前にして。
「……一晩だけ泊まっても構いませんか?」
知らず、サラはそう尋ねていた。限られた時間の中、もし何かを変えようとするなら今しかないと、直感がそう囁いている。
「ふむ、君がそれでいいと言うなら私は別に構わないよ。ただしちゃんと許可はもらうこと」
はい、と頷いて、一番馴染みの、けれど実際にかけることはそう多くない番号をプッシュする。
「あ、お母さん? ……あのね、今日友達の家に泊まるんだけど」
友達、という単語にわずかに眉をひそめる絃子。一方、サラはそんな様子にも構わず、電話の向こう側に告げる。
「――塚本さん」
「……何?」
思わず呟いたその言葉にも、目を瞑って。
「うん――うん、それじゃ」
かちゃり、と受話器を置いた。
「……嘘、ついちゃいました」
えへへ、とサラは笑った。自分の意思で、自分のために。
「やれやれ、そんなことまで教えたつもりはないんだがな……」
苦笑混じりの溜息を一つの絃子、そして遠くからは小さな電子音。
「ほら、さっさと入ってきたまえ。夜は短い」
「はい!」
――と、そうは言われたところで、いざ入浴するとなれば手を抜けないのが女の子。サラがあがってきたのは随分と経った後。そして絃子も絃子でそれを読んでいたのか、計っていたようなタイミングで出来上がる紅茶。
「君が淹れるのにはとても敵わないけどね」
「……おいしいです」
微笑みとともに差し出されたそれは、確かにとてもおいしくて――とても暖かかった。
しばらくの間、無言でそれを味わう二人。
そうやって一息ついてから。
「もう大丈夫、かな」
正面からサラを見据える絃子。
ゆらりと鎌首をもたげる不安。
それでも。
「……はい」
サラはしっかりと頷いた。
そして――
/5
――雨が、落ち始める。
言うべきことはすべて言った、そう思う八雲。けれど、そこにあるのは達成感などではなく、ただ斬りつけられたように痛むその胸。
――こんなにも辛いことなんですか?
心の中、葉子に向かって問う。
顔を背けず、逃げずに踏み込んだ先。
うつむいたままのサラの姿。
そうさせてしまった自分。
間違ってはいないと、そう思うのに。
――雨は降り続ける。
鞄を開ければ傘はある。それでも、八雲は差そうとはしない。
そうしていれば、誰にも涙を見られることはないから。
だからただ、冷たい雨の中を歩き続ける。
黙々と。
まるで、それが犯した罪への罰だとでもいうかのように。
「……ただいま」
家に帰り着くころには、上から下まで完全に濡れ鼠になっていた。どうやったら汚さないで入れるか――回らない頭でそんなことを考えながら、ぼう、と玄関先に立ち尽くす。
「あ、お帰り八雲。遅かった……」
とてとてと奥から小走りに出てきた天満の言葉が途中で消える。
「八雲……?」
「……どうしよう、ねえさん」
その姿を見て、張りつめていたものがふっと途切れる八雲。容赦なく降りしきる氷雨に感覚をなくしかけていた足は、もはや身体を支えることなく、ゆっくりと前に倒れかけ――
「八雲っ!」
――そして天満に抱きとめられる。
決して大きくはないその体躯で、やわらかく、しっかりと妹の身体を抱きしめる天満。
「姉さん、濡れちゃう……」
「……八雲だってびしょびしょだよ」
背に回されたその手に、ぎゅっと力がこもる。
冷えた身体を暖めるように。
「ね、八雲」
耳元でそっと囁かれる言葉。
「何があったか、全然分からないけど」
それでも、と。
「大丈夫だよ。私には分かるもん」
「……どうして」
「――だって、私は八雲のお姉ちゃんだぞ」
天満は微笑む。
誰よりも、何よりも。
強く、優しく。
――そんな風にして一段落がついて。
「ちょうどお風呂沸いてるから入っちゃって」
「うん……でも姉さんも……」
言われて、あー、と自分の姿を見回す天満。当然と言えば当然ながら、ずぶ濡れの八雲を抱きしめたのだから、彼女もまたずぶ濡れである。
「私は後でいいよ、八雲の方が冷え切っちゃってて大変だもん」
「……でも」
こんなときでも姉のことを第一に考えてしまう八雲、何はなくとも妹第一『お姉ちゃん』、拮抗する状況。
「――あ」
と、そこに妙案を思いついた、という様子の天満。
「だったらさ、一緒に入ればいいんだよ!」
「え……? 姉さん、それは……」
「うんうん、そうだよ。ほら行こっ、八雲!」
言うが早いか八雲の背を押して目的地へと一直線。こうなるとどうしたところで止められない、と為すがままの八雲。
――そして結局。
湯船に首までしっかりつかる八雲の目の前に、鼻歌交じりに身体を洗う天満がいたりする。身体を洗う、そんなどうということもない行為も、天満がやれば不思議とこの上なく楽しそうに見えて、心に安堵を覚える。
落ち込むこともあれば、勘違いは数知れず、それでも持ち前の底なしの明るさで、いつでも前向き一直線――そんな姉の姿に、絶対に敵わない、そう思う八雲。
『お姉ちゃんだから』――それだけで親身になってくれるこの人は、たとえ家族ではなかったとしても何かの理由で、或いは何の理由もなく、助けてくれるに違いない。
一番近くにいる一番大切な人――それが塚本八雲にとっての塚本天満。
だから。
「今日は早く寝た方がいいよ」
風呂上がり、そう言って部屋を出て行こうとする彼女を。
「待って、姉さん」
自然、呼び止めていた。
誰よりも大切な人だから、心配はさせたくないから。
「もう、大丈夫なんだよね」
そんな表情を、正面から受け止める天満。
「……うん」
しっかりと頷く八雲。
そして――
/6
そして――
「それじゃあ――」
「それじゃ――」
――錆びついた歯車が再び回り出す。
「――話を聞こうか」
「――話、聞こうか」
◆
Variation
――深夜、学校。
冬の嵐が踊る屋上に、一つの影が在った。
影の主は一人の少女。
その長い黒髪は吹き荒ぶ風にも揺れることなく。
その白い肌は打ちつける冷たい雨にも濡れることなく。
まるで刻を止めたかのように、微動だにせず少女は独り。
その瞳は閉じられて。
その耳だけが澄まされる。
「聞かせて」
ごう、という風の中。
「あなたの答を」
囁くような声だけが響く。
「――ヤクモ」
◆
§4 It's you I can't replace ―― Dec.23 Thur.
/1
「そっか、それで最近八雲元気なかったんだ」
話が終わって、天満のもらした第一声はそれだった。
「……気づいてたの? 姉さん」
「私は八雲のお姉ちゃんなんだぞ」
さっきも言ったけど、というその顔は、これ以上ないくらいに得意満面。その一点に関しては、何があっても譲れない――譲りようもないのだが――ところらしい。そんな天満の様子に、知らず八雲の表情も緩み、和やかな空気が流れる。
その中で重ねられる天満の問。
「八雲はさ、自分が間違ったことしたって思ってる?」
「……ううん、そんなことない」
「信じてるんだよね、サラちゃんのこと」
「うん」
「だったら大丈夫だよ」
今日三度目の『大丈夫』、その言葉が八雲の心に優しく響く。
「ずーっと仲良くできたらいいんだけどね、友達ってそれだけじゃないんだよね。ケンカすることだってあるし、気まずくなっちゃうことだってあるし。でもね、ホントに友達だったら絶対仲直り出来るの。怒っても泣いても、友達はやっぱり友達だから」
微笑む天満。
「八雲はケンカとか全然しないからよく分からないかもしれないけど、そうなの。それにね、一回そういうのを乗り越えたら、あとはもうずっとずっと仲良しなんだから」
だから大丈夫だよ――最後にもう一度、ダメを押すように。
「……ありがとう、姉さん」
心から礼を言い、そしてふと気になったことを尋ねてみる。
「姉さんにもそんな人、いるの……?」
「えっと……ケンカはしたことないかも……」
「……え?」
つい今しがた、自分がとうとうと語ったことを否定するかのような発言。
「あ、でもほら、ケンカしなくても仲がいい人は仲がいい、って言うか……」
しどろもどろになって、それでもどれだけ自分の友達がいい人なのかを説明しようとする天満。その姿に、この人こそ絶対にケンカが出来ない人だ、そう思う八雲。
「……ね、その……って聞いてる? 八雲?」
「あ、うん。聞いてるよ」
「ホントに……? 何だかさっきからずっと笑ってるみたいだし……」
「笑ってる……?」
「うん、ずーっとにこにこしてる」
「……笑ってたんだ、私」
それは本当に、随分久しぶりのような気がして。
「……? 八雲?」
「なんでもないよ。それより、何の話してたんだっけ……」
「やーくーもー」
そんな穏やかな空気に包まれて、夜は更けていき――そして。
「ん……」
八雲の前には、そのまま床で眠り込んでしまった天満の姿がある。暖房を効かせてあるとは言え、この季節に毛布の一枚もなしに寝入ってしまう、それもまた彼女らしさなのかどうなのか。ともあれ、慣れた手つきでその身体を抱え上げ、部屋へと静かに運ぶ八雲。腕にかかるのは、どこにあれだけの元気が詰まっているのか、そんなことを思わせるほどの軽さ。
「……姉さん」
どんな夢を見ているのか、幸せそうな寝顔の主をベッドのうえに横たえる。
「おやすみ」
そしてありがとう、と。
もう一度だけそう言って、八雲の長い一日は終わりを告げた。
/2
「成程、ね」
身じろぎ一つせず、じっとサラの話に耳を傾けていた絃子が呟く。
「……あんな八雲、初めて見ました。いつもは私の方が、八雲はもっと自信持っていいよ、なんて言ってるのに、いざ自分から前に出てきた八雲の姿を見たら、何も出来なくて。嬉しかったんです、本当は。あんなに私を想ってくれる人がいて。……泣いてくれる人がいて。なのに、私……」
最初から全部話しておけばよかったですね、言葉は自嘲めいた笑みとともに。
「それはどうかな?」
「……え?」
けれど、絃子はそれを肯定しない。
「そう思うのは、この『今』があるからだよ。白状するとね、確かに君の選択を聞いたときにあまりいいようには 転がらないとは思った。だからと言って、どちらが正しいかは結果を見ないと分からない。一般論がいつでも通用する訳じゃないんだ。過去を振り返って未来にフィードバックする、それは大いに結構……むしろやらない方が問題だな、いろいろと。でもね、君にとって今はそのときじゃない。目の前にやるべきことがあって、」
そして、と。
「自分がどうしたいのか、それはもう分かっているんだろう?」
「……はい」
「なら、私がとやかく言うようなことはないさ。為すべきことを為せばいい。きっと、君はもう間違えないよ。……本当はね、そんなに難しいことじゃないんだ。ただ、人間時々目の前が見えなくなることがある。それだけのことだ」
Take it easy、結構じゃないか。目を閉じさえしなければね――そう笑って。
「彼女の覚悟はちゃんと受け取れたんだ。だったら次は君が応える番だ」
話を締めくくる絃子。
「さて、そんなところかな。今の君ならこれで十分過ぎるくらいだろう。疲れてるだろうし、今日はもう寝た寝た」
「……あの」
ん、と軽く伸びをして立ち上がりかけた絃子を呼び止めるサラ。
「先生も昔、こういうこと……あったんですか?」
「……世の中、なかなか思った通りには生きられてないものさ」
返答は、そんな答と呼べるかどうか微妙なもの。ともあれ、それを最後に絃子は立ち上がり、こっちだよ、とサラを手招きして寝室へと案内する。
「多少ちらかっているかもしれないが、気にしないでくれ」
「ここ、先生のお部屋ですか?」
一体どこがちらかっているのか、と思わせるほどに整理整頓が行き届いた部屋を見回してながら尋ねる。
「ああ、そうだ」
「だったら先生はどこで……」
当然のように、部屋にはベッドが一つしかない。
「ん? 私ならその辺で適当に寝るさ」
「そんな、悪いです。いくらなんでも」
「と言われてもなあ……ふむ」
何かを思いついたのか、そのまま廊下に出て、
「居候クンの部屋で寝るというのはどうだろうね」
途端、がたん、という壁を蹴り飛ばしたような音がする。
「冗談だよ、冗談」
それに対してなのか、今度はそう言ってにやにやしながら戻ってくる。するとどこかでもう一つ、今度は控えめに、かつん、という音。
「そんなわけで、だ」
「え? あの、何が何だか……」
「ま、先生の言うことは聞くものだよ。じゃ、おやすみ」
言い残すが早いか、有無を言わさず部屋を出て行く絃子。
「あ……」
結局、どうあってもこの部屋で寝る以外に道はないらしい、とようやく悟る。絃子の性格からして、その他の選択肢はそもそも存在しない、ということだろう。
「刑部先生……」
そしてそれもまた、優しさの一つの形ではあると思う。不器用ではあるけれど。
――けれど。
不器用ではあっても、決してそれは手を抜いたものなどではなくて、何よりも真摯なものであるからこそ、誰かに
届き、そしてその周りに集う人々がいる。
「ありがとうございます」
いつか自分も、あんな風に誰かに気持ちを届けることが出来るだろうか、そう思いながら部屋の灯りを落とす。
『出来るさ』
――その晩、サラは夢を見た。
そうやって綺麗に笑う、絃子の夢を。
/3
――嵐が去って。
「おはよう」
「……おふぁよ」
とろんとした寝ぼけ眼の天満を迎えるのは、とんとんとん、とリズミカルな音を立てて包丁を動かす八雲。昨晩のことを考えれば、ここで立場が逆ならば、というところなのだが、塚本天満とはそういう人物ではない。
完全無欠にはほど遠く、どちらかと言えば目立つのは欠点。それでも皆に愛されているのが彼女の魅力、といったところになる。友人たちに言わせれば、天満は天満だから、らしいが。
ともあれ、ようやく布団を抜け出してきた、という様子の天満は、引き続き安楽の地を求め、今度はコタツへと潜り込もうとしている。フー、という先客たる黒猫の呻り声もなんのその、どこかの唄のように丸くなる。
「もう、姉さん……」
口ではそう言いながらも、もはや恒例となっている毎朝の光景、取り立てて注意するでもなく、手早く朝食の準備をこなしていく。白いご飯に卵焼き、豆腐の味噌汁にほうれん草のおひたし、と食卓に並べられていくのは典型的な和風の朝食。パンにコーヒー、それにサラダ、という洋風な朝食も嫌いではないが、いざ作るとなると、出来るだけ自分の手が入れられるものを、と考えてしまう八雲だったりする。
「ご飯だよ」
その言葉にもぞもぞとコタツからはい出して、いただきます、と手を合わせる天満。本能的になのかどうなのか、そういうところはきちんとしている。そして一口二口、と箸を進めていくうちに眠気も飛んできた様子で、ごちそうさまを言う頃にはいつもの彼女、洗いものは私がするね、と率先して立ち上がる。
「八雲は今日どうするの?」
「学校に行くつもり」
てっきりサラに会いに行くと思っていたのか、食器をゆすぐ天満の手が止まる。
「学校? 何かあるの?」
「うん。やりたいことがあるから」
今日こそはちゃんと彼女の絵を描こう、そう考えていた八雲はしっかりと頷く。
今ならもう迷わずに描けるはずだから、と。
「そっか。大事なことがあるんだね」
それ以上は聞かず、がんばって、と天満は笑う。
言葉にしなくても届くものはあるから――そんな笑顔で。
「失礼します」
ちょっと早すぎたかな、そんなことを考えながら職員室の戸に手をかける八雲。祝日とはいえ、熱心な活動を行っている部活動も多く、誰かが常駐しているその部屋に鍵はかかっていない。からからと鳴るその戸を引いて、中に足を踏み入れると、馴染みの声がかけられる。
「あら、塚本さん」
「笹倉先生、いらっしゃってたんですか」
「ええ、ちょっといろいろあってね」
答えてから、美術室の鍵よね、と机の上に置いてあったそれを差し出す。
「あの、先生が何かされるんでしたら、私は無理に……」
「遠慮する必要なんてないわよ。それに、私はこっちに用事があるし」
ほら、と書類をひらひらと振ってみせる。
「心置きなくどうぞ。――それより」
「……何ですか?」
「いいことあったんだね、何か」
「え……」
「今の塚本さん、すごくいい顔してるもの。このあいだとは全然違う」
「そう、ですか……?」
「うん。そう――何か見つかった、そんな顔」
見つけたもの。
それなら分かる、と脳裏にその姿を思い描く。ピントのずれた写真のように、ぼやけていたそのイメージ。それがはっきりと一つの像に結ばれていく。
――サラの笑顔。
「――はい」
「それならもう大丈夫ね」
『大丈夫』、昨日天満に言われたのとまったく同じその言葉に期せず微笑んでしまう。
「笹倉先生のおかげです」
「あら、私は何もしていないけど?」
とぼけているのかどうなのか、小首をかしげてみせる葉子に、それでも構わない、と思う八雲。一番最初に自分の背を押してくれたのは、葉子の言葉だった――それは絶対に確かなことだったから。
「ありがとうございました」
だから、鍵を受け取った八雲は、深く深く、頭を下げた。
かちゃり、と鍵を回して美術室に足を踏み入れ、どこかすえた匂いのするその教室のカーテンを引いて窓を開け放つ。
吹き込んでくるのは、緊とした冬の風。
そんな風に吹かれながら、もう一人、礼を言うべき相手の名を呼ぼうとして――はたと気がつく八雲。
「……名前」
よくよく考えれば、彼女の名前など聞いていないし、ましてそれがあるのかすらも分からない相手。思わず途方にくれそうになった――その背中に。
「……肝心なところで詰めが甘いのね」
そこがあなたらしい気もするけれど、とかけられる声。
「久しぶりね、ヤクモ」
「うん、久しぶりだね」
音もなく宙から現れた少女に、よかった、と微笑んでみせる八雲。
「ずっと見ていてくれたんだよね」
毎日感じていた視線、けれどその第一候補、葉子が見に来ていたのは毎日ではない。
そして、決して見当たらない視線の主。
――なら、その齟齬を埋めるのは。
「ありがとう」
少女の沈黙、それは肯定と同意。
「ねえ、どうして……」
「……意味なんてないわ。私はあなたに興味があるの、ただそれだけ」
変わらない表情と淡々とした口調。その裏に真意があるのかさえも読み取ることは出来ない。
それでも。
「それでも、ありがとう」
「……」
この気持ちは確かなものだから、と言葉を重ねる八雲。それを黙って聞いていた少女は、やがて話をそらすようにまったく違うことを口にする。
「もう迷ってはいないようね」
「……うん」
「そう――」
その顔に幽かに笑みが浮かんだのは、目の錯覚か――八雲がそれを確かめるより先に、少女は次の言葉を放つ。
「――ほら、お客さんよ」
はっとして振り返れば、教室の入り口に、大きく肩で息をする――
「八雲――」
「――サラ」
/4
「おはようございます」
「ん、おはよう……にはちょっと遅いかな」
昨日は気持ちが張りつめていたせいか、ほとんど自覚はなかったものの、やはり精神的にも肉体的にもそれなりの極限状態にあったサラ、深い眠りから覚めたのは、遅い冬の朝よりもまだ遅く、随分と陽が高くなってからだった。
「すみません、私すっかり……」
「昨日が昨日だから仕方ないさ。それに、そろそろ起こそうと思っていたしちょうどよかったよ」
確かに、見れば居間のテーブルの上にはパンとサラダが並び、あとは飲み物を淹れれば準備万端、という状態になっている。きちんとオーブンで焼き目を入れているパンに、即席のようでよくよく見れば細かいところで凝っているサラダ、とブランチにしてはなかなか豪勢な仕様。
「すごいですね、先生」
「褒められるほどのものじゃないが……まあ、料理は嫌いじゃないしね」
こぽこぽと音を立てるコーヒーメーカーのスイッチを切り、出来上がったコーヒーをカップに注ぎながら、どこか照れたようにして答える絃子。
「さて、それじゃ食べようか」
「あの、居候さんは……」
居候さん、というのは変な呼び方、とは思いつつも、他に呼びようもなくそう訊いてみるサラ。
「ああ、それは別に気にしなくてもいいよ。なに、一食や二食抜いたところでどうなるようなもんじゃない」
「はあ……」
昨晩同様、にべもない台詞で切って捨てられる。本当にいいんだろうか、そう気にはなるものの、家主が言うのだから、ととりあえず納得して席に着く。
「いただきます」
「どうぞ。君の口に合うといいんだが……」
謙遜なのか、そんな台詞を口にする絃子だったが、サラダを一口頬張ったサラの感想は、おいしいです、の一言。
「……すごく、おいしいです」
そして。
「あ、れ。どうして……」
理由もないのに、悲しくもないのに、涙があふれて止まらなくなる。
「せんせい、わたし」
黙ってハンカチを差し出す絃子。
「ありがとう、ございます」
――止まらない。
まるで昨日の雨のように、その涙が止まらない。
「……変な顔じゃないですよね」
結局時間にすればわずか数分ほど、それでも一生分のそれを流し尽くしたような気分のサラ。洗面所で嫌というほど洗顔を繰り返し、泣き腫らしたその目蓋も誤魔化せたはず、と絃子に尋ねる。
「ああ、ついさっきまでぼろぼろ泣いていたようにはとても見えないよ」
「……先生」
「冗談だよ。今の君はね、そう――」
うん、と頷いて。
「――とてもいい顔をしているよ。それじゃ、行ってくるといい」
笑顔で送り出す絃子。
「はい、行ってきます」
だから、送り出されるサラもまた、笑顔で家を出た。
塚本家の前、インターホンに伸ばした自分の手が震えているのに苦笑するサラ。
「仕方ないなあ……」
声を向けた先は自分。しっかりしろ、私――そう心の中で囁いて、ボタンを押し込む。
ぴんぽーん。どこか間の抜けた音が冬空の下で響く。ふと空を見上げてみる。青。快晴だ。
「はーい」
やがて、ぱたぱたという足音とともに聞こえてきた声は八雲のものではなく。
「――あ、サラちゃん」
「こんにちは、塚本先輩」
出てきたのは姉の天満。それも、何故か、参った、という表情をしている。あまり見たことのないその様子に、内心首を捻りつつも、恐る恐る尋ねる。
「あの、八雲は……」
「あのね、さっき学校に行くって出かけちゃったんだ」
「学校……ですか?」
「うん、やりたいことがあるんだって」
ごめんね、と謝る天満に、こちらこそ連絡もなしに、と頭を下げる。
「それじゃ、学校に行ってみますね」
「あ、ちょっと待って!」
くるりと振り返ったところを呼び止められ、何ですか、と向き直ろうとしたそのとき。
「え、あ、つ、塚本先輩?」
――後ろから抱きしめられた。
やさしく、ぎゅっと。
「あのね、」
そこで途切れる天満の声。何かを言おうとして、でもそれが言葉にならない――そんな気配。
「先輩」
その背に天満の温かさを感じたまま、立ち尽くす。
「あのね、」
やがて天満はようやく、ただ一言を口にする。
「大丈夫だから」
とくんと――脈打つの鼓動の音と、その言葉を、サラは確かに聞いた。
――そして、サラは学校へと向かう。
ゆっくりとした歩みはやがて早足となり、そしてもつれるような駆け足へと加速していく。
身を切るような冬の寒さも気にならない。
ただ、吐く息の白さだけがその冷たさを伝える。
「は、あ……っ」
倒れ込むようにして辿り着いた昇降口、靴を履き替える、そんな動作さえもどかしい。
「やく、も」
彼女はどこにいるのか。
教室――違う。
彼女のやりたいことは何か。
部室――違う。
直感の出した答は。
なら――あそこしかない。
刹那、身体はまた動き出す。
――そして。
「八雲――」
「――サラ」
驚いたような顔で八雲がこちらを見つめている。
鼓動が早くなる。
このまま逃げ出してしまいたくなる。
けれど、今やるべきことはここにあって、ここにしかない。
「八雲」
もう一度その名を呼ぶ。
また歩き出すために。
「あのね、私――」
◆
Interlude
「君に会いに来ただけのつもりだったんだが……」
見つからないよう、そっと美術室の様子を窺いながら小声で囁く絃子。
「雨降って、というやつかな」
そこにあるのは確かに二人の笑顔。そうですね、と頷く葉子も笑顔。
「さて、あとは、と……」
おもむろに携帯を取り出し、二言三言の短い通話を交わし、満足げな表情で電源を切る。
「これでよし」
「何かあるんですか?」
「ま、いろいろとね」
そうやって質問をはぐらかし、もう一度教室の中を見やる。
サラがどうやって伝え、また八雲がどう受け取ったのか、それは分からない。分からないが、何より確かなものがそこにあると、そう思う絃子。
「……よかったよ、本当に」
「刑部さんのおかげ、もあると思いますよ」
「まさか。私は何もしてないよ、動いたのは彼女自身だ」
「そうですか? でも昨日中庭で……」
言いかけた葉子を、待て、と止める。
「……見てたのか、葉子」
「ええ、たまたまですけど」
「最初は不干渉のつもりだったんだよ……」
当事者がどうにかしないと意味がないからさ、とにこやかな葉子を見てから軽く天を仰ぐ。
「無理に決まってるじゃないですか、そんなの。刑部さんは計算より感情で動く人ですから」
「……そんなことは」
「ない、ですか。それじゃ思い出せるように話してあげます。最初は……」
「あー、分かった。悪かった」
そうだよそうだったよ、とふてくされたように言う絃子に、ダメ押しの一言。
「私は感謝してますよ、あの頃の刑部さんに」
そして今も、と。
「……どっちかと言えば、それは私の台詞なんだけどね」
「何か言いました?」
「いや、別に」
聞こえないように、普段は胸の奥にしまってある本音を囁いて空惚ける。そんな絃子を怪訝そうに見ていた葉子だったが、埒があかないと思ったのか、ところで、と話題を変える。
「少し前からやりたいと思ってたんですけど……」
小さく耳打ち。
「成程、それはいい」
聞いた絃子もすぐさま同意。その視界の隅には笑顔のサラ、そしてスケッチブックと鉛筆を手にした八雲。
「あの二人の絵か、それはきっと――」
「――いい絵になるわ」
教室の中で二人を見守っていた少女もまた、そう呟いた。
◆
§5 Long for your embrace ―― Dec.24 Fri.
/1
どこか気の抜けた終業式――実際、やることと言えば『ありがたいおはなし』を訊く程度。ならば生徒の心がこの先の休みに一直線なのは道理というものである――も終わり、校舎全体に漂うのはどこか浮ついた空気。
そんな中、余所とは違う雰囲気に包まれているのが1-Dの教室。
朝のHRでされた、式の後に大事な話がある、という絃子の言葉、そして。
「なあ、昨日の連絡網、なんだったんだ?」
「さあな、とりあえず何が何でも明日は空けとけ、って話だったけど」
昨日の絃子の電話の正体がそれである。理由は告げず、されど相手にそうするか、と思わせるのは教師であること以前に絃子の絃子たる由縁でもある。……もっとも、さすがに今回は、クリスマスなのに、という声もあるようだが。
ともあれ。
そんな要因が絡み合い、緊の色を帯びた教室に、職員室での打ち合わせを終えた絃子が戻ってくる。
「悪いね、遅くなった。……さて」
一度言葉を切り、じっくりと教室中を、一人一人の顔を見渡す。
「うん、全員いるな。じゃあ――」
「――はい」
促されて立ち上がるサラ。そのままゆっくりと前に進み出る。それがあまりいい知らせではないと、そう直感的に悟っている者が多いのか、注がれる視線は不安げな様子が大半を占める。
その一つ一つをしっかりと受け止めてから、我がことのように心配そうな顔をしている八雲に手を振って、サラは話し始める。
「――国に、帰ることになりました」
一言。
それで教室のざわめきが消える。
「本当は余計な心配かけたくなかったから、言わないでおこうと思ってたんだけど、それじゃ駄目だってやっと分かったから。さよならは言われるより言われない方が、そっちの方が辛い……よね」
その迷いや葛藤は言葉にしてしきれるものではない――それでも、出来る限りの想いを込めて言葉を紡ぐ。
「……だから」
そしてそこからあふれた想いは涙へと変わり、うつむくサラ。
――そこに。
「んじゃ、盛大になんかやらねーとな」
「そうね、絶対に忘れられないくらいにしないと」
声が上がる。
「え……?」
「なんか最近様子がおかしいからさ、どうしたんだ、って心配してたんだぜ」
「アンタね、そんな簡単に言わないの。さよなら、っていうのはね、言う方がずっと辛いんだから」
一転してざわめきに包まれた教室、そこかしこで交わされる会話は皆彼女を想った温かいもの。恨み辛み、そんな馬鹿げたものはどこにもない。
「みんな……」
「私はね」
呆然とするサラに語りかける絃子。
「教師としてはまだまだ未熟だけど、人を見る目はそれなりに持ってるつもりなんだ。その私から見てね」
にわかにお祭りめいてきた教室を、先ほどと同じように見渡して。
「このクラスはそれなりに自慢出来るクラスだよ」
そして君はその中にちゃんといる、自信を持ちたまえ、と。優しく微笑む。
「……先生」
「よかったね、サラ」
まだ呆としているその隣には、いつのまにか八雲が立っていて、その手をとってそっと握る。
「――さて」
そんな二人の様子に横目で微笑みつつ、混沌としてきた場を再び仕切る絃子。
「盛り上がっているところに残念な話なんだけどね、彼女の出発は明後日だ」
その言葉に、しんと静まりかえる教室。
「要は時間が余りない、ということだ。でもまあ、心配はしていないよ。一日で一生分の思い出を作るくらい、君たちならなんてことないだろう」
と言うわけでだ、そう言って取り出したのは、近隣の大型テーマパークのチケット。
「明日の予定、ちゃんと空けてあるだろうね――?」
ぐるりと教室を見渡して。
「――私のおごり」
その言葉にどっと沸く教室――しかし。
「……と言いたいところなんだけどね、あいにくと逆立ちしたって全員分は無理だ。だから特別に主役の二人だけ、ということにしたいんだが」
どうかな、と言うより先に、えー、という声が上がる。もっとも、笑顔から放たれるそれは予定調和の中の抗議、当然受ける絃子も、フン、と不敵に応える。
「何を言っている。これはね、大きな貸しだよ。何せこの私に散々心配をかけてくれたんだからな、金銭なんかで返せるものじゃない。きっちりと付き合ってもらう、ということだよ。――これからも、ね」
にやりと笑った絃子の、その最後の言葉に再び沸く教室。
「先生……」
驚いたような、はにかんだような、そんな表情のサラ。そしてそれを優しい眼差しで見つめる八雲。その空気に満足した様子で、教室が静まるのをしばらく待ってから、もう一つ、と話を続ける絃子。
「これも申し訳ないんだけど、本日午後のこの二人の優先権は私にあるんだ」
悪く思わないでくれよ、という台詞にまたしても上がる不満の声。
「分かりやすいクラスだね……折角のクリスマスイブだよ? 恋人とでも何でも過ごせばいい」
これが火に油を注ぐ、ということなのか、極一部を除いてさらに大きくなる不満の声。『付き合いたい』と『付き合える』の間には、幾光年もの距離がある――それが現実。世の中なんて、そんなもの。
「ああ分かった、そう騒ぐな、まったく……。なに、君たちにも素敵なプレゼントがあるんだ、それで我慢してくれ」
プレゼント――その単語一つであっさり静まりかえる教室。単純明快さもここまで来るとどうしたものか、とは思うものの、自分の高校時代を思い返し、そんなものか、と納得して。
「――では私からのせめてもの気持ちだ、しっかり受け取ってもらおうか」
そう言って絃子が取り出したのは――
「通知票かよ!」
――暗転。
/2
「……冗談の分からない連中だ」
「さすがにあそこで通知票はないと思いますよ? ねえ、八雲」
「うん……」
三度巻き起こった教室の紛糾をぞっとするような――比喩ではない――笑顔一つで一掃し、さっさとその作業を終えた絃子。二人を連れ立って向かう先は約束通りに葉子の待つ美術室である。まったく、と呟くその姿は意外に本気で拗ねているらしく、まあまあ、とサラになだめられている。
そんな二人を見て、ようやく心に安堵を覚える八雲。確かに、昨日の一件で二人の間のわだかまりはなくなったと思っている。それでも、本当にたった一日で以前のような関係に戻れるのか――そんな不安は小さく燻っていた。
けれど、それももうどこにもない。目の前で笑うのは、確かにいつものサラ――そう信じられる。
「どうかした? 八雲」
「ううん、なんでもない」
さすがに面と向かって言うのは恥ずかしく、とりあえず取り繕ってみたものの、その向こうではお見通し、といった様子でにやにやと笑う絃子の姿。抗議の一つもしようとしたところに、目的地へと到着する。
とんとん、という絃子の軽いノックに、いらっしゃい、と顔を出す葉子。
「準備は出来てますから、どうぞ」
その言葉に従って足を踏み入れた教室は、昨日までと違い机が隅に片付けられており、窓際には大きな古ぼけたソファー。そして、まだ無地で白一色の大きなキャンバス。
「私たちはここ……ですよね」
「うん、そう。適当にお喋りしていてくれたらいいよ、そんなに時間はかけないし」
「……そうなんですか?」
葉子の言葉に小さく首をかしげる八雲。確かに、通常絵画は一時間やそこらで完成するようなものではない。
「あんまり二人の邪魔するのも悪いしね、今日はデッサンだけのつもりだから」
「心配しなくても、彼女の絵の出来は私が保証するよ」
壁にもたれかかりながら、我がことのように確信をもって答える絃子。何せ長い付き合いだしね、と続けられた言葉に、あ、とサラが反応する。
「お二人は学生時代からのお友達なんですよね」
「うん、そうなるかな」
「もしよかったら、その頃のお話なんて聞かせてもらえると……」
途端、ぴたりと動きを止める絃子。
「……いや、それはだな」
「いいですね、それ」
教師二人、まったく正反対のその答。
「……聞いてもあまり面白くないだろう?」
「私はそんなことないと思いますけど」
抵抗は試みてみたものの。
「大体、昔の話にいいところないじゃないか、私は」
「そんなことありません。十分過ぎるくらい格好良かったですよ?」
あっさりと翻弄される刑部絃子――そんなものを初めて見た二人は、初めこそ驚いていたものの、やがてなんだか可笑しくなって笑い出してしまう。
「先生、私その話聞きたいです」
「……私も」
綺麗な援護射撃を受けて、ほら、と微笑む葉子。こうなるとどうやったところで分が悪いのは絃子の方、元より昔から肝心なところで葉子に頭が上がらない、というのが始末に負えない。
「分かったよ。まったく……」
折角昨日、と溜息混じりに言いながらも、話すしかないのなら、と気を引き締め直す絃子。
美化することも、卑下することもなく、あの頃の自分たちのことを正しく語ろう――そう決める。
「――もう、ずっと昔の話だよ」
そうやって、絃子はゆっくりと語り出した。
昔々の話、刑部絃子が笹倉葉子という無二の友人を得た頃の話を。
◆
Nocturne
――その日はお祭りだった。
後になって思い出したとき、サラが抱いた感想はそれだった。
朝一で入場したテーマパーク、次々に乗ったアトラクション、待ち時間の他愛のない会話、数え切れないくらい撮った写真。
語り尽くすことなど出来るはずもない、そんな一生分の思い出が詰まったその日のことを、ただ一言で表わすなら。
――その日はクリスマスで、そしてまさしくお祭りだった。
そう、サラは思う。
そんな魔法にかけられたような長く短い一日、その最後――
「なんだか変な風に気を使われちゃったね」
「……うん」
苦笑混じりのサラの隣には八雲。最後は、と考えてくれたのだろう。友人たちは少し離れた所で一団になっている。一応引率めいたことをしていた絃子は、現像は間に合わせるさ、と含みのある笑いを残し、皆のカメラとともに一足先に帰っていった。翌日は用事があるということだったが、晶に委細は任せてあるとのこと。
――そして。
「でも、八雲と二人っきりになれるのなんて、これが最後だもんね」
「サラ……」
まるでなんでもないように告げられたその言葉が、八雲の胸に突き刺さる。
「――でもね」
そんな八雲にその先を続けるサラ。
――ドン。
同時、夜空を切り裂くようにして打ち上がり始める花火。
「私――」
冬の夜空に大輪の花が咲く。
「――八雲に逢えてよかった」
次々と、途切れることなく。
「――私も」
その下で、見守られるようにして。
「サラに逢えて本当によかった」
二人は静かに向かい合う。
ずっと、その魔法がとけるまで――
◆
§6 I'll be watching you ―― Dec.26 Sun.
/1
――翌日、空港。
祭の後には現実がやってくる。それが世の常ではあるものの、予定よりわずかに遅れて空港のロビーに到着したサラは、まだ自分にかけられていた魔法がとけていないことを知った。
ずらりとそろったクラスの面々に加え、天満、晶を始め、拳児、春樹、美琴に愛理、そして修治の姿までもがそこにはあった。前日用事があると言っていた絃子を除けば、関わりのあったメンバーの大半が顔を揃えたことになる。
――ありがとうございます。
信じてはいたものの、それが当たり前過ぎてわざわざ祈ることもなかった――そんな存在に、サラは初めて感謝した。
「よかったね」
驚きと好奇心が先に立ち、クラスメイトのところよりまずそちらに来てしまった彼女を出迎えたのは、天満のそんな一言だった。三日前、大丈夫と言ってくれたその人の姿に、だからこの人はお姉さんなんだ、そう思うサラ。
――姉さんは姉さんだから。
八雲のはにかんだ笑顔が脳裏に浮かぶ。
「――はい、ありがとうございます」
うん、と頷く天満は満面の笑顔。その横で、次は春樹が口を開く。
「何か言おうと思ってきたのだが……」
その必要はないようだね、と満足げに言う。
「いい顔をしている、それなら……っ!?」
大丈夫、と言おうとしたその首を後ろから美琴に絞められてもがく春樹。
「周防、お前、何を……」
「お前にゃそういうの似合わないって」
なあ、と同意を求めてくるが、さすがに本人を前に頷くわけにもいかず、あはは、ととりあえず笑っておく。そんなサラに、やっぱりいい子だね、と美琴。
「コイツのことでもいろいろ世話になったね。向こう行ってもさ、そのままでいなよ。それできっと大丈夫だから」
「……はい」
数えるほどしか会っていない、けれどその強さという名の優しさを十二分に見せてくれた相手に、笑顔で頷く。
「……あなたも十分恥ずかしいこと言ってるじゃない」
「いいだろ、別に……それより、私は沢近が来てる方が驚きなんだけど」
呆れた、という顔で横合いから口を出してきた愛理に、逆に言い返す美琴。
「それは……いいじゃない、別に。一度でも会ったことのある相手がいなくなるなんて、寝覚めが悪いじゃない」
そっぽを向いてどこか照れたように言う愛理。確かに、サラからすると花火の際に一度会ったきりの相手、来てもらって嬉しくない、などということはないが、そこまでしてもらう関係かと言われると首を捻るところ。
「愛理はね――」
「っ、晶! 余計なことは言わなくて……」
「美琴」
「ん」
「ちょ……っ!」
そこに楔を打ち込むのはやはり晶。反論しかかった愛理だったが、その指示を受けた美琴にあっさりと口をふさがれる。
「愛理はね、心配してたんだよ。自分も似たようなものだから」
「え――?」
「……ああもう、そうよ。悪い?」
言われてしまうと引き下がれないのか、わずかに天を仰いでから開き直る。
「私もね、向こうに残してきた人たちがいるの。でもこちらでも――」
そこでちらりと周囲に視線を走らせてから、恥ずかしそうに言う。
「――その、友人は出来たわ。そして向こうのことだって忘れた訳じゃない。だから」
――だから。
「あなたも胸を張りなさい。決して不幸になりに行くのではないと」
それだけよ、と。最後まで言い切ったその顔はもう真っ赤になっている。
「いいこと言うね、珍しく」
「美琴、あなたね……」
にやにやと笑う美琴に詰め寄る愛理、どたばたがまた始まりそうな雰囲気に、慌てて、沢近先輩、と声をかける。
「あの、ありがとうございます、本当に」
「まあ、頑張りなさい。難しいことじゃないわ」
そう答えた笑顔は、恰好良い、まさしくその言葉がぴたりとはまるものだった……が。
「それじゃ美琴、分かってるわね……?」
「いや待て、さっきのは高野がだな……」
「ごちゃごちゃ言わないの!」
ひょいひょいと逃げ回る美琴に、追いすがろうとする愛理。端からすると微笑ましい光景にも見える。
「あの二人はあれが普通だから」
「はあ……」
淡々とそう言ってから、それじゃまず、と頭を下げる晶。
「ごめんね」
「……先輩?」
唐突に謝られ戸惑うサラに、そのままで続ける。
「本当はね、刑部先生から聞いて知っていたの。……でも、何もしなかった」
だからごめんなさい、と。頭を下げ続ける晶。
「そんな、先輩は全然悪くないです。全部私が……」
「あなたならそう言うと思った」
そこで顔を上げ、続く言葉を遮る。
「だからこれで差し引きなし、サラも自分のことを悪く言わないで」
そう言ってから、今度は何かがぎっしりと詰まった封筒を取り出す。
「刑部先生から頼まれてた昨日の写真だね」
「……こんなに。よく現像間に合いましたね」
「蛇の道は蛇、だよ」
はぐらかすような返事に、訊いても無駄と経験から判断して、一番上の一枚を抜き取る。
「――これ」
そこに写っていたのは逃げていく野犬、そして安堵の表情で地面にへたり込む自分の姿と黒猫を抱く八雲。
二人が初めて会話を交わした、あの日の光景だった。
「成程、それがサービスね」
「サービス、ですか?」
「ええ。現像してくれた彼がね、事情を話したらそういうことなら、って」
「そうなんですか……」
いつのまに撮られたのかも分からないその写真は、けれど確かに決定的な光景を切り取っていた。それ自体は褒められる行為ではないにしろ、写真というものに対する情熱は感じられる、そんな一枚。
「それじゃ、まだまだ待ってる人もいるようだし」
初めて見せる――そんな綺麗な笑顔と一緒に、元気で、と締めくくる。
「はい、先輩も」
そんな人に涙は見せられない、とどうにか堪えて笑顔を作って一礼し、次の相手――播磨兄弟のところに向かう。
「お待たせしました、先輩。それに修治君も」
「――おう」
頭をかきながら一言そう答えるだけの拳児にじと目の修治。
「兄貴、こういうときはもうちょっと気の利いたこと言おうぜ……」
「うるせえ。俺はこれでいいんだよ」
「いいんだよ、修治君。来てくれただけで私は十分嬉しいから」
どこか似たもの同士のやりとりに思わず微笑みながら、そんな言葉を返す。
「その、なんだ……世話んなったな、いろいろとよ」
それが精一杯、といった様子で、ありがとよ、と拳児。不器用なその様子は、やはり微笑ましい。
「いえ、私の方こそ楽しかったです」
そう答えてから、それじゃ今度は修治君かな、と話の水先を向ける。すると、途端威勢のよさは影をひそめ、兄同様に頭をかきつつ、あー、と言葉を探す弟の姿。
そして。
「……俺」
「うん」
「俺、八雲姉ちゃんが好きだけど、サラ姉ちゃんのことも好きだ」
「……修治君」
「だから――」
そこで言葉に詰まってうつむくその頭を、拳児の大きな手がわしわしと乱暴になでる。修治もそれを振り払うことはない。
「ありがとう、修治君」
その胸の奥の葛藤すべてを汲み取れるとは思わない、けれど自分を想ってくれるその気持ちは本物だと感じたから。
「先輩」
「任せとけ。コイツの世話は昔からよくやってる」
なあ、とかけられた声に、うるせえ、とようやく顔を上げる修治。そこにあるのは泣き笑いの表情。
「――また、会えるよな」
問いかけと確認の言葉。
「うん、絶対に」
/2
「もうすぐ行っちゃうんだよね……」
「……うん」
「サラがいないと寂しくなるな」
「何言ってるの、一番寂しいの八雲なんだから。ねえ?」
「え、あ……うん。そう、かな」
「ほら見なさい。それにね、アンタには私がいるんだから、それで我慢しなさい」
「……お前な」
出発までの時間を惜しむように、サラと八雲を取り巻く友人たちの談笑は途切れない。くだらないと言ってしまえばそれまでの、だからこそかけがえのない時間。その中心で一緒に笑いあいながら、この光景を心にしっかり刻みつけようと辺りを見回す。
「あ……」
その視線が天満のそれと交錯する。笑顔で手を振ってくる彼女にこちらも手を振り返しながら、つい先ほどのやりとりを思い返す。
最後の一言、それは迷わずに言えたと思う。いつかきっと、この騒がしくも楽しい、そんな喧噪の中に戻ってくる――そう考えながら再び巡らせ始めた視界に、思いがけない相手が映る。
「――麻生先輩」
ロビーの入り口、たった今着いたというように、肩で息をしているのは広義の姿だった。思わず、ごめんね、と周囲の友人たちに断ってからそちらに駆け寄る。
「なんとか間に合ったみたいだな」
「先輩どうしたんですか、私何も言ってなかったのに……」
「店長から聞いた」
店閉めて自分が行く、なんて言い出すから大変だったけどな、と呆れ顔を見せる。
「……で、代わりに預かってきた」
そう言って取り出したのは、一枚の色紙。
「先輩、これ――」
「ああ、店長から常連の客まで総出の寄せ書きらしい」
白い正方形を埋めるのは、びっしりと書き込まれた黒い文字。余白の方が少ないのでは、そう思わせるほどの代物。
「すごいですね……」
「それだけお前が大事にされてる、ってことだろ」
「それはすごく嬉しいんですけど……」
語尾を濁らせてしまうその訳は。
「……確かに意味が分からないな、これじゃ」
ですよね、と言いながら見るそこにあるのは、すべて漢字。中国語を話せない二人にはその意味は読み取れない。
「まあ、向こうに行ったら暇見つけて読んでくれ。それで――」
そこで珍しく言い淀む広義。先輩、と様子を窺うサラの声に、ああ、と複雑な表情を見せてから。
「――帰ってきたときにでも教えてくれよ」
そう言った。
一瞬の沈黙。
「……先輩」
「……なんだよ」
「それ、誰に言えって言われたんですか?」
その一言に、大きく溜息をついて肩を落とす。
「分かるよな、やっぱり」
「当然です、先輩ってそういうこと絶対言わない人ですから」
それで、誰なんです、と重ねられた問に、店長だよ、といささか投げやり気味に答える。
「手紙で確認取るから言わなかったら、ってな。そこまでするか、普通」
「……店長らしいですね」
どっと疲れた、という様子の広義に、でも、と続けるサラ。
「別に言わなくてもそんなに問題じゃないですよね、それって」
「……まあな」
「それじゃ、先輩の意思で言った、って思ってもいいんですよね?」
またしても、沈黙。
それを破ったのは広義の一言。
「……やっぱお前、変わってるよ」
「いえいえ、先輩ほどじゃないですよ」
そんなやりとりの後、どちらからともなく笑い出す二人。何が可笑しいのか、それもよく分からなかったものの、しばらくの間そうやって笑いあう。
「じゃあな」
ひとしきりそうしてから、時計に目をやって別れを告げる。
「はい、ちゃんと待ってて下さいね?」
悪戯っぽく言ったサラのその言葉に、小さく、けれど確かに広義は頷いた。
/3
――そして、長かった祭にも終わりの刻が訪れる。
航空機への搭乗が始まり、ロビーの出口に両親と並んで立つサラ。
見送る面々がその正面にずらりと並び、代表するようにして八雲が一歩前に出ている。
「皆さん、お世話になりました」
一人一人の顔をしっかりと見つめながら、背をぴんと伸ばしてサラが言う。
「それじゃ、お別れです――そして、またいつか」
そう言ってから、八雲の方に歩み寄る。
「――じゃあね、八雲」
「うん。またいつか、絶対」
そんな短い別れの言葉、そして契約にも等しい約束を交わし、しっかりと互いの手を握りしめる。その向こうからは、誰が始めたのか拍手が鳴り始め、やがてそれは万雷の響きとなる。ロビーにいた他の乗客たちが怪訝そうな顔をするが、鳴りやむ気配をまるで見せない。
「……ありがとう」
その拍手を背に受けて、心の隅に気恥ずかしさを覚えつつ、それでも。
振り返ることなく、サラは搭乗口へと歩き出した。
◆
Finale
「――時間だな」
学校の美術室、窓際の席に腰掛けていた絃子がぽつりと呟く。
「そんなに気になるなら行けばよかったじゃないですか」
それを聞いて、絵筆を片手に苦笑気味に言う葉子。
「こういうのはね、生徒たちだけでやるからいいんだよ。それに私はそこまで気にしているわけじゃ……」
「朝から時計見ながらそわそわしてたじゃないですか。それにあの子たちは気にしませんよ、そんなこと」
きっちりと返され、む、と言葉につまる絃子。
「それで、本当の理由は何です?」
「……」
「お・さ・か・べ・さん?」
「分かった、分かったよ。言えばいいんだろ」
ふん、と言うその顔は、しかし窓の外を向いたまま。
「――みっともないだろう」
「……刑部さん?」
「いい歳して、あまり見せたくないんだよ」
涙なんてさ、背を向けられている葉子にはその表情は見えない。けれど、きっと微笑んでいるのに違いないと彼女は思う。目の端に涙を浮かべつつ、それでも。
「昔から変わりませんね、そういうところ」
「……そんなものさ、人間なんて」
一呼吸置いて振り返った瞳に、涙の跡は既にない。つまりそれが刑部絃子であると、改めて思う葉子。
「さて、私のことはいいとして、だ。君の方はどうなのかな」
そう言って立ち上がり、つかつかと葉子に歩み寄って後ろからその絵を覗き込む。
「ほう――」
キャンパスの中に踊るのは、柔らかな色彩、そして光。薄く塗り重ねられた絵の具が独特の淡い色合いを湛えている。
「いい絵じゃないか、なかなか」
「ふふ、モデルがいいんですよ」
思わず呟いたそんな感想に、笑みとともにそう返す。
モデルとなった少女二人は、穏やかな笑顔をこれ以上の幸せはないといったように浮かべている。
「……でも」
納得はしているものの満足はしていない、そんな様子で首を捻る葉子。
「何か足りないんですよね、まだ」
「ふむ、言われてみればそんな気もするな」
微笑みを浮かべる二人の少女。
窓の向こうの青い空。
しばらくそれをじっと見つめていた絃子だったが、一つのことを思いつくと葉子にそれを耳打ちする。
「あ、いいかもしれませんね」
その言に従い、早速画面に描き入れ始める葉子、やがてそれは在るべき場所に収まった――そんな印象さえ与えるほどに、キャンバスの上で七色の色彩を放つ。
――虹。
それが欠けていた最後のピースの名前。
「雨上がりの空にはね――」
謡うように呟いて、絃子は窓の外、彼女のいる空を見上げる。
「――虹が架かるんだ」
◆
Epilogue I
――懐かしい記憶がある。
窓の向こう、機体の下に広がる白い雲海を見つめながら、彼女は思う。
――まず、何を言おうか。
それはまだ考えていない。
――時間は、もうあと少し。
けれど不思議と不安はない。
――きっと、大丈夫。
そのときになれば、一番相応しい言葉が自然と出てくる、そんな確信めいた予感。
――交わした約束がある。
視界を埋めるのは、果てなく広がる白い世界。
その向こう、今は見えないけれど、やがて必ず見えてくるはずの光景のことを、彼女は想う。
二番目の故郷である、その地のことを――
―――――――― Every move you make, Every vow you break
___________________________________________Every smile you fake, Every claim you stake
____________________________________________________________________________I'll be watching you.