たとえばそんな晴れた日に
「……なにか面白いことないかしら」
お嬢様はいつだって憂鬱だ――と、いうわけでもないのだが、物思う季節を迎えて沢近愛理の周辺には『面白くないこと』が山積みになっていた。もちろん、その大半が播磨拳児に関するフクザツカイキな感情――友人たる高野晶辺りから見れば、逆に単純極まりない感情ではあるが――によるものだということを彼女が認めるはずもなく、さらにはそこに少なからず自身が掘った墓穴がある、などという話になれば、こちらはもうそんなことに考えすら及ばない。
曰く、アイツが全部悪いのよ、である。
ともあれ、そんなこんなでせっかくの休日にもかかわらず、秋空の下でお嬢様は溜息をつくのである。
「お嬢様」
そんな彼女に声をかけたのは、執事の中村。さしでがましいようですが、私でよければなにか準備いたしましょうか、そう言葉を続ける。
「……あなたが?」
「はい」
彼が優秀な執事である、ということについては彼女も認めるところである。主人が不在であることの多いこの屋敷を、必要最低限の人員で切り盛りしているところは、ひとえに彼の手腕によるものである。
――だとしても。
彼がそれを補って余りある奇行を示すのもまた事実である。平たく言えば、大抵はろくなことにならない。
「そう。じゃお願いするわ」
にもかかわらずそんな返事を返していたのは、それだけ彼女が憂鬱だった、ということだろう。そして、それに気づいたときにはもう遅い、ではしばらくお待ち下さい、という言葉を残した執事の姿はすでにない。さすがにしまったという表情になるが、過ぎたことはもう取り戻せない。ならどうするのか、を少し考えてから席を立つ。
「……出かけよう」
自分の意思を確かめるように呟く。そう、こんなに天気がいいんだからいいことの一つくらいはきっとあるはずだし、誰か一人くらいはつかまるでしょ、だからろくでもないことにならないうちに――心の内はそんなところ。よし、と頷いたあとの行動は素早い――が。人間慌てていると、それこそろくなことにならない、というのを彼女が思い知るのは、そのすぐ後のことだったりするわけで。
◆
「……どうするのよ」
それに彼女が気がついたのは、街に出てしばらくしてから。忘れたのだ、携帯を。
これさえあれば大丈夫、万能アイテムとしてのそれがすっかり浸透した現代は、つまりはそれがなければどうにもならないことが増えた、ということでもある。誰かと連絡を取ろうにも、その連絡先は携帯の中にしか存在しない。直接家に遊びに行くのも手ではあるが、それで空振りになった場合は目も当てられない。
そうなると、上昇に向かいかけていた気分もあっさり下降に転じる。今更一人ショッピング、という気分にもなれず、結果として馴染みの喫茶店で暇を持て余すのみ。楽しげに道行く人々を窓越しに眺めながら、空になったグラスのストローをもてあそぶ。からりからりと音を立てる氷に、在庫の一斉処分でも始めたかのように溜息は尽きることがない。
「これなら家にいた方がよかったかしら」
それなら少なくとも一人じゃなかった、そんな呟きに当然ながら返事はない。頬杖をついてもう一つ溜息――と、その視界に見覚えのある人影が映る。
「美琴――」
これでやっと、そう立ち上がりかけた身体は、しかしそこで動きを止めて再び椅子に座り直す。彼女の周りをはしゃぎまわる子供たちの姿が見えたからだ。愛理も彼女の面倒見のよさはよく知っている。なにより、
『あいつらうるさいったらありゃしない』
いつだったか、そう言って笑う楽しそうな顔をはっきりと覚えていた。
「さすがに、ね」
小さく苦笑した視線の先を、子供たちの集団、そしてもう一人のクラスメイト、花井春樹が通り過ぎて行く。そこにあったのは、『面白いこと』にあふれた確かに楽しげな空気。
「あーあ、まったく」
溜息一つ。けれど、それはこれまでとは違う、どこかなにかに吹っ切れたような前向きなもの。続いて、帰ろっか、そう呟いて今度こそ立ち上がる表情には明るさが戻ってきている。
――中村に付き合ってあげるのも悪くない、か。
そんなことを考えながら勘定をすまして外に出る。どこまでも続いているような秋の青空は、今度こそいいことがある、そう言っているように彼女には見えた。
◆
――さてそして。
屋敷に戻ってきた彼女を出迎えたのは、やはり執事だった。お待ちしておりました、という言葉とともに接客に用いている広間へと先導する。
「どこへ行かれたのかと心配しておりましたが……とにかく、無駄足にならずにすんでよかった」
「悪かったわね。……ところで本当に面白いんでしょうね、それ」
「はい。お嬢様なら必ずや喜んでいただけるかと」
確信に満ちた態度と言葉。逆にそれが怪しいのよね、と内心不安に思う愛理。そしてまあ当然ながら、その不安はきっちりと的中するわけで。
「――ナカムラ」
「はい」
「コレはなにかしら」
指差した先、広間の床には簀巻きにされた上に猿ぐつわをかまされた『なにか』。
「御覧になったままですが」
しれっとしたその回答に思わず頭を抱える。それでも、どうにか気を取り直してとりあえず猿ぐつわだけでも外してやると、すぐさまその口から飛んでくる怒声。
「テメェなにしやがるっ!」
「おや。あなたが素直に招待に応じて下さらなかったので、それなりの対応をとっただけなのですが」
「ンだとっ!」
「頭痛い……」
執事とその『なにか』――播磨拳児の間で繰り広げられる不毛な会話。いろいろな意味でそれに半分泣きそうになりながら、事態の収拾を試みる愛理。
「……で、なにやってんのよ」
「……そこのオッサンがな、いきなり『なにも言わずに私と一緒にお越し下さい』とかぬかしやがったんだよ。んなもんに付き合う義理はねぇからな、断ったら……くそっ、あれか、お前の差し金か」
「なんで私がそんなことしなきゃいけないのよ。……ナカムラ?」
「おおむね間違いありませんな」
「……そう」
はあ、と深々とした溜息をついて状況を整理する。
つまりは。
どこでなにを聞きつけたのかは知らないが、よりにもよって『コレ』が彼女にとって『面白いこと』だと判断して連行してきたというのだ、この執事は。
「なによそれ……」
「ご満足いただけませんでしたか?」
いつもと変わらず真顔で訊いてくる。彼女としては、どこに満足すればいいのよ、と言う他ない。
「そうですか……では――埋めますか?」
「なんでそうなるのよっ!」
「なんでそうなるっ!」
期せず重なる声に思わず顔を見合わす二人だが、すぐに気まずそうな様子になってどちらからともなく目をそらす。
「……もういいわ。ナカムラ、あなたは下がりなさい」
こっちはどうにかするから、という彼女の言葉に、特に異議を唱えることもなく一礼して去る中村。こういうところは実によく出来た執事である。そんな姿を半眼で見送ってから、今度はまだ簀巻きのままで床に転がされている拳児に一言。
「ほら、あんたもさっさと出てきなさいよ」
「出来るかっ!」
◆
――で。
「ったく、なんなんだよあのオッサンは……」
「ウチの執事よ、執事」
何故か連れ立って歩いている二人の姿があったりする。要は、『なんとなく』そのまま追い返すのも悪いような気がした愛理が、『なんとなく』そうしてみた、というだけの話。ちなみに、当然ながら拳児の方は嫌がったのだが、彼女にぎろりと睨まれただけであっさりと敗北している。情けないとは言うなかれ、その気になってしまえば人間まんじゅうだってなんだって怖いものである。少なくとも、彼にとって彼女はそういう対象だ。
「なんで執事があんなに強いんだよ」
「昔軍隊にいたとか言ってたわね。ま、あんたじゃ勝てる相手じゃなかった、ってことよ」
「……バカにしてんのかてめぇ」
「なによ、相手はプロなんだから負けても恥じゃないって言ってあげてるんじゃない」
そう口にした後で、なんだって自分はこんなヤツのフォローをしているんだろう、と自分で自分に首を捻る愛理。
拳児も拳児で、思いもかけない相手から思いもかけない言葉を聞いた、と眉をひそめている。
「……」
「……」
どことなく気まずい沈黙に、たまらず愛理が口を開く。
「あんたに訊いてもしょうがないと思うんだけど、なにか面白いことってない? 別にものでも場所でもいいんだけど」
「あん?」
そして、尋ねてからまたしまったと思う。どう考えたところで、この男と自分に共通して面白いと感じることなどあるとは思えない。そもそもからして、訊く相手を間違っている。
「ごめん、忘れて。私が馬鹿だったわ」
「お前やっぱバカにしてんだろ! いいぜ、だったら教えてやるからついてきやがれ!」
だがしかし、こちらもこちらで理不尽なことの連続に参っていたのか、そう言い放つ拳児。え、と彼女が言う間もなく、一気に歩みを早める。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
仕方なくそれを追いかける愛理。よくよく考えたなら、そんな必要はどこにもないのではあるのだが。
そして。
「――ここだ」
やがて二人の行き着いた場所は。
「……動物園じゃない」
呆れたような顔をしつつ、内心ではそれなりに驚いている愛理。まず、この播磨拳児という男にこの場所は似つかわしくない、という思い。加えてこの動物園という場所は、彼女にとっても嫌いではない、むしろ好きな部類に入る場所だったからだ。
――まさか、それを知ってて。
一瞬そんなことを考えるが、即座に打ち消す。この男に限って、それだけは絶対にありえない、と。
「それで、なにが面白いの? あんたのことだから猿山?」
「……とことん分からせてやる必要があるみてぇだな」
完全にどこかのメーターが振り切れているのか、さっさと入園してしまう拳児。こうなると、愛理の方も後には引けない。入園料を払ってその後に続く。
「見てやがれ……」
「はいはい」
生返事よろしくさほど期待などしていない彼女だったが――以降繰り広げられた展開は大いに裏切られるものだった。
ライオンが宙返り、ゾウが逆立ちし、トラが二本足で歩いてみせる。
それだけではない、二人の訪れたありとあらゆる場所で、彼の合図一つで動物たちは素晴らしい芸をやってのけた。確かにそれはサーカスにでも行けば見られる類のものだったかもしれない。だとしても、そんなものが目の前で見られることに、いつしか彼女は魅了されていた。次は一体なにが見られるのか、それを誰より楽しみにしている自分がいて――
「おい、そろそろ休憩しねぇか?」
――その声で夢からさめた。
自分がどこに誰といて、なにをしているのか。それを思い出す。そして思い出してしまえば、そこにあるのは特別でもなんでもない、ごくありふれた日常だった。
「……そうね」
自ら驚いてしまうほどに覇気のない声でそう言って、近くのベンチに腰掛ける。忘れていた疲労が一息に押し寄せて来て、瞳を閉じて天を仰ぐ。一方、その様子に気がついているのかいないのか、なんか食いもん買ってくる、と拳児。思えば昼前からなにも口にしていない、と同行を申し出る愛理だったが、
「……お前、俺と一緒に並びたいのか?」
その一言で諦める。考えてみれば、今は休日の昼下がり、売店もそれなりに混雑しているはず。このテンションでその中に、しかも隣にいるのが彼となれば、この選択は道理、ということになるだろう。買ってきてやるから逃げんじゃねぇぞ、という台詞を切り返す気力もなく見送る愛理。
「なにやってるのかしら」
グチにも似たささやき。辺りを見回せば、先程までの空気はとうの昔になく、動物たちは檻の中で悠然としている。囚われの身にもかかわらず、彼らの瞳には諦観も反抗もない。ただ強い意志の色、それだけがある。
「檻の中なのに」
どうして、と呟いたその鼻先に、突如突き出されるサンドイッチ。視線を上げればいつのまにか拳児が戻ってきていた。なにを訊いてくるわけでもなく、普段通りの不機嫌な顔で、ほれ、とただそれを差し出してくる。
「……ありがとう」
別にそれが嬉しかったわけでもなんでもないが、彼女にしては珍しくその言葉を口にして受け取る。気を取り直すためにも、とそれに手をつけようとするが、何故かその目の前には彼の手が差し出されたまま。その意図が読めずに首を捻っていると、代金だよ代金、という身も蓋もない言葉がやってくる。
「俺は誰かと違ってんな金持ちじゃねぇんだよ」
「……そう」
なにやら腹が立つ以前に呆れる方が先に来てしまい、言われた通りの金額を手渡す愛理。いろいろと考えていた自分が馬鹿らしくなり、黙ってサンドイッチにかじりつく。意外においしいのが少し悔しい。
「――あいつらはな」
「え?」
独り言のようにぽつりと呟く拳児に、驚いてその横顔を見る。けれど、彼の視線はここではないどこか遠くに向けられている。
「あいつらはな、ここに居場所を見つけたんだ」
だからいいとも、だから悪いとも言わず、ただそれだけを呟く。
「――ねえ」
その言葉になにを思い、なにを言おうとしたのか。結局、その後彼女には思い出せなかった。その日そのときその瞬間にしか紡げない言葉、というのは確かに存在するのだ。
「よう」
だから、そのとき唐突にそうやって話しかけられたことが、愛理にとって幸運だったのか、はたまたその逆だったのか、それも分からない。ただ、現実はそうやって進んだ、というだけのこと。
「っ! ……美琴?」
「偶然だな、こんなとこで会うなんて。で、なにやってんだ?」
「なにって……」
あらためて訊かれると困る、とそこまで考えてはたと気づく。
隣に座るのはまだサンドイッチをぱくついているあいつ。
休みの日。
動物園。
二人きり。
そこから導かれる結論といえば――
「ちょっ……美琴、あなた変なこと考えてないでしょうね」
「変っつーか、まあ普通に考えたらデ」
「だからそれが変なのよ!」
叫んでみたところでもう遅い。辺りはいつのまにやら物珍しげな子供たちによって囲まれているし、美琴は美琴で、やるじゃん、などと言いながら肩を叩いてくる。ワラにすがる思いで隣を見れば、
「……播磨。そういうことだったのか」
「そういうってのはどういう意味だ」
「いや、でもまさかな……」
「おいこらメガネ、なに一人で納得してやがるっ!」
案の定まったく助けにもならず、むしろ頭痛の種が増す一方。そしてさらに火種に油を注ぐ存在が現れる。
「あれ? にーちゃんってこないだ教会に来てたよな」
「……なに?」
「ほら、八雲ねーちゃんがお嫁さんやったとき」
その発言に、男性陣二人の顔が歪む。それぞれにあまり思い出したくはない記憶だ。しかし、その発言に興味を持つ者が一名。
「ねえ、それってどういうことなのかしら」
即ち、愛理である。清々しいくらいに爽やかな笑顔で質問。逆に怖い。
「……えっと。ホントは花井がしんろー――でいいんだっけ――だったんだけど、それを途中からこのにーちゃんが乱入してきて、八雲ねーちゃんさらっていこうと」
「待てガキ。ありゃあな、ただちっとばかり間違えただけで」
「あら、一体なにをどう間違えたのかしら」
「そりゃあ」
そこで止まってしまう拳児。
言えない。言えるわけがない。こんなところでそれを口にした日には、どうなることか想像も出来ない。故に、彼に
出来るのは何故かとげとげしい目つきで睨んでくる愛理の視線に無言で立ち向かうのみ。
そんな剣呑な空気の中、ことの原因を作った彼が一言。
「――さんかくかんけい?」
「違うわよ!」
「ちげぇよ!」
◆
「じゃーねー」
疲れを知らない子供たちの声にも、力なく手を振るだけの愛理と拳児。それぞれ別れ際、美琴と春樹に、元気出せよ、などと言われているのだが、それでどうにかなるくらいなら誰も苦労はしない。その集団が見えなくなった後、二人してがくりと大きく肩を落とす。
――結局。
あのままなし崩しに大騒ぎ、子供たちに引き回されるような形で、二人も動物園をぐるりと回ることになった、という次第である。子供の扱いは慣れているならともかく、そうでないなら著しく体力気力を消耗する。この場合もまさしくその通り。
「疲れたわ……」
心底げんなりした顔でそう言ってから、でも、と小さく笑う愛理。
「それなりに楽しかったわよ」
別に答を期待していたわけではなかったが、横に立つ拳児の方をちらりと見る。
――と。
「……まあ、退屈じゃなかったな」
「――そう」
もう御免だけどな、伸びをしながら言うその顔は疲れ切っていて、確かにもう金輪際お断りだ、という様子。それでも、『楽しかった』ではないにしろ、予想外の言葉が返ってきて若干戸惑う愛理。変なことを言われた言い返してやる、そう思って準備していた言葉があっさりと霧散する。
「じゃあな」
そして、これだけ慌ただしかった一日なのに、その終わりはどうしようもないほどにあっさりしていた。そんなことを何故か残念がっている自分に、ぶんぶんと首を振る愛理。
「じゃあね――」
それでもささやかな冒険として。
「――播磨くん」
最後に彼の名前を呼んでみた。返事はない。先程もう別れの挨拶はすませた、ということなのだろう。その素っ気なさに、再び何故かむっとする彼女だったが、まあいいか、と思うことにする。
その程度には楽しかったのだ、今日は。
そんな思いを胸に家路への一歩を踏み出してから、なんとはなしに肩越しに振り返ってみる。その先には、金色の夕焼けに照らされた長い影法師、そして遠くを行く彼の小さな背中が見えた――