Feeling your heart
休日のお昼時、ともなれば、さほど大きくないこの街でもやはり繁華街は人混みであふれかえる。そんな中を修治はぶらぶらと歩いていた。別に確たる目的があったわけでもなく、単にインドアよりアウトドア、というそれだけの理由である。
(つっても一人じゃなあ……)
そんなことを思いながら、なんとはなしに見回した視界に見慣れた姿が飛び込んでくる。
「……兄貴?」
喫茶店のガラスの向こうにあったのは、兄・拳児の姿だった。常日頃から金に苦労している、そんな兄が喫茶店などという似つかわしくない場所にいるのを不思議に思い、声をかけてみようと店内に入る修治。
「お客様、お一人でしょうか」
「えーと、その、連れが……」
連れはないだろう、と思いながらも、こういうときどう言っていいのかわからずそう口にする。幸い、店員の方で、窓際のお客様ですね、お連れさまがいらしたらご案内するよう言われています、とわざわざ案内してくれた。
(お連れさま、じゃないんだけどな)
とは言え、わざわざその勘違いを正す必要もない、と大人しくついていく。
「お客様、お連れの方がお見えになりました」
「よう、兄貴!」
「おう、わざわざ……ってなんでオメェが来るんだよっ!」
テーブルの上に広げてあった紙――当然、原稿――を慌ててかき集める。
「ん?なんだよ、それ」
「あー気にすんな、お前にゃ関係ねぇ……っつーか帰れ、さっさと」
「あの、お客様……?」
訳がわからない、という様子で訊いてくる店員に、俺の連れは、と説明を始める播磨。
「なんだよ、誰かと待ち合わせ?」
「悪ぃかよ。あー、で、ですね、連れはコイツじゃなくて――」
「……あの、お待たせしました、播磨さん」
「そう、そこのカノジョみたいな――」
「八雲姉ちゃん!?」
「修治君?」
よりにもよってなのか何なのか、そのタイミングで現れたのは、播磨が本当に会う予定だった相手――八雲だった。
「えっと……兄貴が、八雲姉ちゃんと待ち合わせ――?」
(いやでも別にオカシナことじゃないよなほらあの夏休みのときだってでも連れってのは一人なわけでだったら他に誰もいないってことはつまりそれって二人っきりってことでそれってつまり二人は)
ほんの一瞬の間に、修治の頭の中を無数の思考が飛び交う。
「オイ、どうかしたのか?」
「修治君……?」
「……」
そして出た結論は。
「……ゴメン、俺、邪魔だったみたいだな」
「はぁ?何言って――おい!」
「きゃっ!」
「っと!」
八雲と店員を突き飛ばすようにして、逃げるように店を飛び出していく修治。播磨の声にも足を止める素振りはない。
「何考えてやがんだ、アイツ……」
普段とはまるで違うその様子に眉をひそめてから、大丈夫か、と八雲に手を差し出す。
「あ、大丈夫、です……」
「あんたは?」
「いえ、私の方も……それよりお客様、今のは……」
「いや、今のはコッチが悪い。すまねぇな」
困ったような表情の店員に、とりあえずコーヒー二つな、と注文をする播磨。かしこまりました、コーヒー二つですね、と答える店員はさすがにプロ、外してくれ、という言外の意味をきっちり汲み取ってくれたようで、伝票を置いてすっと店の奥へと戻っていく。
「……あー、なんか妙なことになっちまったな」
「私は別に……でも修治君が……」
心配そうな八雲に、俺にもさっぱりわからねぇ、と播磨。
「後でちゃんと訊いとくからよ、そんな心配いらねぇって。……つっても、コイツを見てもらうような雰囲気じゃねぇしな」
ったく、とぼやきながら財布を取り出す。
「あの、播磨さん……?」
「わざわざ来てもらっといてすまねぇんだけどよ、今日は俺のおごりってことで勘弁してくれ」
ちっと探してくるわ、と千円札を置いて席を立つ。
「そんな!私も……」
「いいから気にすんなって。ま、身内のことだしよ、じゃあな」
ゆっくりしてけよ、と言い残して店を出て行く播磨。その勢いに取り残された恰好になった八雲の前に、コーヒーが運ばれてくる。その数は一つ。
「あの……?」
「お気になさらないで下さい。それよりも、まず少し落ち着かれては?それからでも遅くはないと思いますよ」
そう言って穏やかに微笑んでから、差し出がましい真似を失礼いたしました、ごゆっくり、と店の奥に下がっていく店員。
「……」
そのコーヒーに一口手をつけてから、窓の外を見る八雲。
(修治君……)
あのとき流れ込んできた心の声。それはひどく乱れていて、意味の通らない部分もずいぶんと多かった。
けれど。
その悲しみだけははっきりと感じ取れた。
(だったら……)
自分のやることは決まっている。
(――行こう)
ゆっくりと、けれど一息にコーヒーを飲み干してから、後を追うように八雲も席を立った。
◆
ここで、舞台を少し離れた場所に移す。ウィンドウショッピングをするように歩いている二人組――沢近と晶である。
「ごめんね、急に呼び出しちゃったりして」
「私は構わないよ」
いつも通りのポーカーフェイスで答えてから、美琴は何か用事?、と自分が呼び出されたであろう理由を尋ねる晶。
「ええ……試合が近いからやっぱりやめとく、だって」
しょうがない、といったような口振りで続ける。
「おまけに新しい服なんてわざわざ、よ。あのコももうちょっとこういうのに気を遣えばいいのに」
センスは悪くないのに、とぼやくその表情は、けれど口調とは違って柔らかいもの。隣を歩く沢近のそんな表情を見て、素直じゃない、と晶は思う。もっとも、そこが彼女の彼女たる由縁であるし、加えて自分のことは完全に棚に上げている、とわかっているけれど。
「ま、その方が美琴らしいんだけど……って何よ、その顔」
(こういうところは昔より鋭くなったかな)
それとも自分の方が、などと考えながらも、さっと表情を切り替えていつも通りの返事をする。
「別に。ただ愛理は愛理だなって思っただけ」
「……あのね、私は――きゃっ!?」
「っと!」
反論すべく口を開いた沢近に、角から飛び出してきた少年がちょうど体当たりするような恰好になる。
「っつ……もう、気をつけなさいよ!」
スカートの裾を払いながら立ち上がる沢近から目を背け、再び走り出そうとする少年。
が――
「――修治君?」
「あ――」
びくり、と小さく肩を震わせる少年――修治。
「どうかしたの?」
「……っ」
問いかける晶に一瞬何かを言いかける素振りを見せてから、うつむいて走り出す。
「……」
「……晶、あの子知ってるの?」
無言で頷く。
「……」
そして、視線を彼が走り去った方に向けてから。
「行こうか」
と晶は言った。それを聞いて、珍しいこともあるわね、と大袈裟に肩をすくめてみせる沢近。
「晶が私に遠慮するなんて初めてじゃない?あ、明日は雨かしら」
「愛理……」
「気にしないで。追いかけるんでしょ?あの子。だったら早くしないと」
私はほら、一人でも行くところはいろいろあるし、と微笑む。
「それに、あなたに貸しが作れるなんてこの先なさそうだし、ね」
「……ありがとう」
そう言って駆けていく背中を見送る。
「なんだかフラれてばっかりよね、今日」
はあ、と小さく溜息。
「ま、しょうがないわよね。貸し二つ、ってとこでガマンするしかない、か」
そう気を取り直してから、さてどこに行こうか、と算段を巡らせながら沢近も歩き出した。
◆
「はあ、はあ、はあ……」
行き先もないままにがむしゃらに走り続けた修治は、いつのまにか公園の中にいた。
(何やってんだ、俺)
別に八雲が誰と会って何をしようと、自分にそれを止めることなんて出来るわけがないのに。
(でもなんで、兄貴が)
それも二人は知り合いなのだから、不思議なことではないとわかっているのに。
(俺は……)
なんだかよくわからない感情に突き動かされて、逃げてきてしまった。あまつさえ、その八雲を突き飛ばして。
「どう、しよう……」
視界に入ったベンチに崩れ落ちるように座り込み、うつむいて目を閉じる。
何も見えず、何も聞こえない。
そんな時間が暫く過ぎてから。
ふと、目の前に立つ誰かの気配を感じた。
「――隣り、いいかな」
静かな、けれどよく通るその声の持ち主――晶は、修治の返事を聞く前に、その隣りに腰掛けた。
「……」
「……」
どうしたの、という問いかけの声はない。ただ、話したければ話していいし、そうでないならば無理はしなくていい、
そんな空気だけがそこにあった。
かさかさと、朱く染まった葉が風に吹かれていく。
「もう、秋だね」
口を開いた晶は、それだけを言った。
「……晶、姉ちゃん」
断ち切られた静寂につられるように、修治も口を開く。
「俺、俺……」
泣き出しそうなその声に、優しく念を押すように訊く。
「本当にいいの?私で」
「……うん。晶姉ちゃんなら」
ぽつりとそう言って、修治は話し始めた。
◆
一方、播磨。
「つってもアイツが行きそうな場所なんてわかんねぇんだけどな……」
ぼやきながらも、とりあえずは修治が飛び出していった方向にあたりをつけて探し回る……が、さすがに分が悪い。
(ちっ、こういうとき誰かいりゃ助かるんだけどよ……)
ないものねだりとわかっていながらも、人混みの中に見知った顔を探して首を巡らせる。
と。
「っと、悪ぃ」
「あ、ごめんなさい。私の方こそ――って」
前から歩いてきた相手とぶつかってしまう。そしてその相手は。
「……げ」
「どういう意味よ、それ」
二つにまとめた金髪と刺すような視線――沢近愛理、その人だった。
(なんでよりにもよってコイツなんだよ……)
思いつつ、なんでもねぇよ、悪かったな、と言い残して立ち去ろうとする播磨だったが、数歩行ったところで立ち止まる。
(なんかシャクだけどよ……)
まったく見知らぬ相手に訊くよりは幾分かマシ、と思い直して振り返る。
「……あのよ」
「……何よ」
そこにはまだこちらを睨みつけている沢近。その姿に少しばかり気圧されつつ、こういうガキ見なかったか、と修治のことを尋ねてみる。
「あのね、どれだけ人がいると思ってるのよ。わかるわけないじゃない、そんなの」
「くっ、そりゃそうなんだけどよ……あー、そうだ。ちっと様子がおかしかったハズだぜ」
ワラにもすがる、という思いで、妙に急いでるっつーか焦ってるっつーか、と説明を続ける播磨。
「……その子、名前は?」
その説明を聞いて、先ほどの出来事を思い出す沢近。まさかね、と思いつつ尋ねてみる。
「シュージ、ってんだが……」
「――今日は厄日かしら」
思わず天を仰ぐ沢近に、知ってんのか、と思わず詰め寄ってその肩を揺さぶる。
「なっ、ちょっ、痛っ」
「あ……す、すまねぇ」
我に返り慌ててその手を離す播磨。
「もう、なんなのよ……で、何?その子がどうかしたわけ?」
「……あー」
そこで言葉につまる。マンガうんぬんに関しては絶対に知られたくないものの、それを省いてはたして上手く説明出来るのか、それともただ探してる、だけでいいのか。悩み始める播磨。
(……ふうん)
そんな播磨の姿を見て、沢近の方が口を開く。
「――いいわ、付き合ってあげる」
「……は?」
「探してるんでしょ?その子」
「あ、ああ」
乗りかかった舟、って言うのかしら、こういうのって、と嘆息しつつも何故か楽しそうに笑う沢近。
「どうせアンタ一人じゃ誰かに訊く、なんてのも出来なかったのよね?」
「ぐ……」
確かにどこからどう見ても不良の播磨、コレに声をかけられて素直に受け答えしてくれる人などそうそういるはずもなく、足で探す他に手はなかった、というのが実際のところである。
「さ、急いでるんでしょ?行くわよ!」
「お、おい……」
(ったくなんだおい……)
とは言え何故沢近が好意的なのか、その理由もさっぱりわからない播磨。それでも置いて行かれるわけにはいかず、慌てて前を行く後ろ姿を追い始めた。
◆
「……そう」
すべてを語り終えた修治に、晶は一言だけそう言った。
「……なあ、晶姉ちゃん」
すがるような声。
「俺――俺、どうしたらいいのかな」
思い詰めたような表情で自分を見上げる修治に、晶は小さく――本当に小さく、けれど確かに微笑んだ。
「修治君は八雲のことが本当に大事なんだね」
「俺は……」
だったらね、と。その瞳を見据えて短いアドバイスを与える。
「――君はもう、どうすればいいか知ってると思うよ」
それで十分、と思いながら。
「……」
沈黙の合間に、風の音だけが聞こえる。
「……そっか。そうだよな」
その言葉にしばらく考え込むようにしていた修治が、わかった、という様子で立ち上がる。
「ありがと、晶姉ちゃん」
「お礼を言われるほどのことじゃないよ」
「えっと、そうじゃなくってさ……俺が言いたいって思ったんだ、お礼」
そういうこと、だよな、と笑ってみせる修治。
「合格」
返す晶も、もう一度微笑んでみせる。
「それじゃ行ってくるぜ!」
「今度は人にぶつからないようにね」
「ちぇっ、わかってるよ」
そう言って駆け出した修治だったが、何かを思い出したように公園の入り口でくるりと振り返る。
「晶ねーちゃん!」
何?、という顔をした晶に向かって。
「俺、八雲ねーちゃんの次に晶ねーちゃんのこと、好きだから!」
じゃまたな、と言い残し、今度こそ飛び出すようにして公園から出て行く。
「……」
一方、後に残された晶は。
「ホントに素直でいい子――だと思わない?」
そう言って覗き込んだベンチの下からは、なおう、という鳴き声。黒い毛並みに特徴ある額の印――伊織である。
「お前はいつも八雲の味方だから、そうは思わないかな」
問に答える気があるのかないのか、すっとベンチに上がって丸くなる伊織。
「……そうだね、お前からしたら八雲の周りにいるのはみんな同じ――」
なおう、と黒猫が鳴いた。先ほどよりも強く、まるで抗議するかのように。
「……伊織」
その声にもう一度向けた視線の先には、何事もなかったかのように再び丸くなって午睡を決め込む黒猫の姿。
「――フフ」
その姿に、珍しく苦笑めいた笑顔を見せてから立ち上がる。
「それじゃあ私は行くから」
黒猫からの返事はなく、ただその尻尾がわずかに揺れた――ように晶には見えた。ふ、とその態度にもう一度苦笑をもらしてから歩き出す。
自分もいつか彼のように素直になれるだろうか、と思いながら。
◆
(修治君……)
街中を探し回ったものの、修治を見つけることが出来なかった八雲、その足取りは重い。もともと彼が普段どこで何をしているか、そんな情報を一切知らずに探そう、ということ自体に無理があったとも言える。
けれど。
(それでも待ってるだけなんて……)
出来ないと思ったから自分も探しに出た。その結果が今現在である。既に陽はもうずいぶんと傾いて、街には金色の秋の夕暮れが訪れている。
(後は……)
もしかしたら、という一縷の望みとともに八雲が向かう先は、出発点のあの喫茶店。戻ってきている、という可能性はそれほど高いものではない。それでも、時間を考えれば闇雲に動き回ることも出来ず、彼女が最後に選んだのはそこだった。
(……お願い)
祈るようにして辿り着いたその場所に――
「……」
――しかし、修治の姿はなかった。
思わずへたり込みそうになってしまった身体を必死に支え、零れそうになった涙を押し止める。
「……修治君」
うつむいて呟いた、そのとき。
「八雲姉ちゃん――――!」
◆
「ううん、こっちの方こそごめんなさい」
(……)
目の前では沢近が道行く人に声をかけ、修治のことを尋ねている。最初は何かの冗談か、さもなくば新手の嫌がらせだと警戒していた播磨も、こうなっては本気で手伝ってくれていると認めざるを得ない。
(でもどう考えてもおかしいだろ)
ただ、その理由がいくら考えてもわからない。むしろ捨て置かれて当然、というはずなわけで――
「ちょっと、何ぼさっとしてるの?」
さっさと来なさい、とすっかり主導権を握っている沢近の声に我に返る。
「……悪ぃ」
「もう……私は一度見かけただけなんだから、最後はアンタが頼りなのよ?」
ほら、と歩き出す。
その背中に。
「――なあ」
播磨は声をかけた。
「……何?」
煩わしそうに首だけで振り返る沢近。
「手伝ってもらっといてなんなんだけどよ……その、なんでだ?」
あまり訊くべきではない、とも確かに思った。しかし、それではやはりどこか気持ち悪い、そう考えて尋ねた播磨。
対する沢近は。
「……そんなこといいじゃない、別に」
素っ気なくそう言って小走りに駆け出し、また別の通行人に声をかける。
「おい!……ちっ」
おかげでもやもやとした気持ちが更に増してしまった播磨、仕方なしにその後を追う。
と――
「あっちね?ありがとう!」
してやったり、という表情で駆け寄ってくる沢近。
「さっきそれらしい子があっちに走っていったらしいんだけど……心当たりない?」
言われて見やるその道は、なんだか既視感を覚える道で――
「――そうか」
「何?わかったの?」
多分な、と答えて走り出す播磨。
「ちょっ、もう!待ちなさいよ!」
遅れて走り始めた沢近のその声に、気づかれないようわずかにスピードを緩める播磨。
「大丈夫なんでしょうね」
「これでハズレだったら諦める」
既に街は夕焼けに染まりつつあり、時間はいつまでもあるわけではない。
「……そう」
会話は途切れ、無言で走る二人。
「……」
「……」
しばらくして、沢近が口を開いた。
「――アンタでもあんな顔するんだ、って思ったのよ。それだけ」
呟くようにそう言って、うつむき気味に顔を背ける。
「……?」
脈絡のない言葉に戸惑う播磨だったが、それが先ほどの問いかけに対する返答であるとようやく気がつく。
(……)
ちらりと覗き見た沢近の表情は、夕陽の朱に沈んでよく見えない。
それきり、また無言で走る二人。
やがて。
「――あそこだ」
目的地――出発点の喫茶店を視界に捉える播磨。
そして、そこには――
◆
「八雲姉ちゃん――――!」
喫茶店の前でうつむくその姿に、思わず叫んでいた。
「――修治、君」
「はあ……はあ……よかった……」
八雲、そして播磨と同じように、ここしかあてに出来る場所のなかった修治。求めていた八雲の姿をそこに認め、肩で大きく息をしながらも安堵の呟きをもらす。
「大丈夫……?」
心配そうに駆け寄ってくる八雲を、大丈夫、というように腕で押さえる仕草を見せて、呼吸を整えてから。
「……八雲姉ちゃん」
その瞳をまっすぐ見つめて。
「ゴメン。ほんとに、ゴメン」
考えていた言葉はあった、でもそれはうまく形にならず、出てきたのはただそれだけ。
ただそれだけのまっすぐな謝罪の言葉。
「修治君……」
「あ――」
だから、八雲は彼の肩をそっと抱いて言った。
「ごめんね……」
「そんな、悪いのは八雲姉ちゃんじゃなくて、」
「ううん、そうじゃない……悪いのは修治君じゃないよ」
私のせい、なんだよね、と背に回したその手にぎゅっと力を込める。
「だからそうじゃなくって!」
思わずその手を振りほどこうとした修治に。
「――だったら」
珍しく強い口調で。
「だったら、あいこ、だよ」
そう言って、八雲は涙目で微笑んだ。
「……八雲姉ちゃん」
思わずその顔を見上げる。
「――ね?」
その笑顔に。
「――うん」
泣き笑いの表情で、修治は頷いた。
◆
「よくわからないけど――」
夕暮れの中、長い影が尾を引く二人の姿を少し離れたところから見つめている播磨と沢近。
「――よかったのよね?」
「……みてぇだな」
駆けつけた二人が見たのは、静かに修治を抱きしめる八雲の姿。何があったのか、はわからなかったものの、少なくともその場にあった雰囲気は事態が悪い方向には転ばなかったことを示していた。
(ったく……)
妙な心配かけやがって、と心の中でぼやく播磨だったが、一発ぶん殴ってやる、という考えはとりあえず保留にしておく。
「……ねえ、行くわよ」
あんまり他人が見るものじゃないわ、と軽く肩をすくめて歩き出す沢近に、播磨も後に続く。
「結局なんだったの……っていうのは訊かない方がいいのよね」
しばらく歩いてから、疑問というよりは確認をするように言う沢近。
「……悪ぃ、そうしてくれ」
「いいわよ、別に。ま、これで借りはなし、ってことにしてもらうけど」
「……借り?なんだそりゃ」
「あのね……だから、それよ、それ」
言って播磨のアゴを指差す。
「もしかしてヒゲか?お前まだんなこと……」
頭はともかく、ヒゲに関しては天満の一言でもはや気にも留めていなかった播磨、拍子抜けの表情。
「んなことってねぇ……それで人を舎弟だのなんだの言ってたのはどこの誰よ!」
それがシャクに障ったのか、一転していつもの鬼の形相になる沢近。
「何よもう、そんなことならほっとけばよかったわよ!じゃ・あ・ね!」
フン、と言い残して背を向ける。
「いや、その悪かった……って待てよおい!」
「何?私の方は用なんてこれっぽっちもないんだけど」
振り返ったその視線には極上の怒気が乗せられている。
(くっ……)
その鬼気迫る表情に、昼間と同様気圧されつつも、これだけは、と口を開く。
「……そのだな、今日は世話になった。助かったぜ、沢近」
「――え?」
その言葉に、何を言われたのか理解できない、という表情になる沢近。
「だからだな、俺は礼を……」
「……そんなの当然じゃない。そうじゃなくて、そのあと……」
「な、なんだよ」
今までの怒りのそれとは違う、どこか切羽詰まったような表情に戸惑って身構える。
「……なんでもないわ」
「……へ?」
「だから、なんでもないって言ってるの!」
「お、おう」
一転、また元の表情に戻る沢近にますますワケがわからない播磨。
「……いいわよもう。じゃあね!」
「……」
そのままくるりと身を翻し、さっさと行ってしまう沢近を呆然と見送る。
「……いや、だからなんなんだよ」
そんな呟きはただ風に流れるだけ。
――そして。
自分が一体何にそれほど動揺しているのかもよくわからず、ずんずんと歩き続けていた沢近だったが。
「……」
やがて立ち止まる。
「――名前」
別にそれは初めて、というわけではなく、ずいぶんと前に呼ばれたこともあった気がする。けれど、そのときには決してこんな妙な――くすぐったいような、そしてどこか嬉しいような気分にはならなかった、と思う。
理由はわからない。わからないけれど、それは悪い気分ではなかった。
「……なんなのよ、もう」
そんなよくわからない気持ちを胸にぽつりと呟いた声は、播磨のそれと同じように、ただ風の中に流れて消えた。