しあわせは子猫のかたち




「姉さん、朝よ」
「うーん……あと2時間……」
「……そんなに寝てたら遅刻だよ」
 姉さんは妹の私から見ても、ちょっと抜けたところのある人だ。おおらか、という言い方もできるけれど、おおらかすぎてトラブルに巻き込まれたり、巻き込まれたことにさえ気がつかなかったりする、そんな人。
 でも私は自分の姉がこの人でよかった、と心の底から思う。
 姉さんは私の姉さんだから。
 これはそんな、私の大好きな姉さんの話。





 騒動の幕を開けたのは、やっぱり姉さんだった。
「八雲八雲八雲、どうしよう大変だよ!」
「どうしたの?」
 その日、いつになく取り乱した様子で姉さんは家に駆け込んできた。その腕の中には、白い毛を赤く染めた子猫が一匹。
「姉さん、この子……!」
「そこの通りで苦しそうに倒れてたんだよ!八雲、この辺に獣医さんって……」
「伊織がお世話になってる人がいるから、すぐに行こう」
「うんっ」
 苦しそうにしている子猫の姿、そしてまるで自分がその子を傷つけてしまった
みたいに悲しそうな姉さんの姿に、私もすぐに立ち上がって獣医さんの所に向かった。





 幸い、子猫の命に別状はない、ということだった。
 けれど。
「子供の悪戯じゃな、あれは」
「そう、ですか……」
 この子についてるから、という姉さんを奥の部屋に残して、私が先生から聞いた話はあまり愉快なものではなかった。
「まったく、最近のガキどもは」
 苦虫を噛み潰したような先生。私も胸が苦しい。姉さんがこの場にいなくてよかった、と本当に思う。きっと泣き出してしまうだろう、姉さんは優しすぎるから。
「でもまあ、無事だったんだからひとまずよしとせんとな」
 私を元気づけるように、気を取り直した声で先生が言う。
「それで、あいつどうするね。見たところまだまだチビだ、どこかの飼い猫の子供、というところみたいじゃが」
「そうですね」
 確かに怪我をしていたとは言え、見ず知らずの私たちから逃げようとする素振りは全然見せなかった。人に慣れていると私も感じた。
「あの、だったらウチで預かってもいいでしょうか」
「……姉さん」
「その、ちゃんと最後まで……」
 ここに置いてもらった方が、と私は言おうとしたけれど、それを制して先生が言う。
「ふむ、そうじゃな。八雲ちゃんのところなら伊織もおるしな、問題ないじゃろ」
「ありがとうございますっ!」
 ぺこぺこと見ている方が恥ずかしくなるほどお辞儀をする姉さん。
「先生……」
「なに、この年頃は傷の治りも早い。時々はワシのところに見せに来ればいい」
 それにな、とにやっと笑って付け加える。
「その程度にはお前さん達のことを信用しておるつもりじゃよ」
「……ありがとうございます」
 軽くウインクしてみせる先生のその言葉に、私も深々と頭を下げた。





「へへ〜、ほらおいでおいで〜」
 先生の言葉通り回復は順調で、子猫はすぐに走り回れるようになった。
「姉さん、気をつけないと」
「え?なに〜、っと、あ゛!」
 およそ女の子らしくない声を上げてうずくまる姉さん。どこかぶつけたみたい。
「ほら、もう……」
「うー、今のは八雲が急に声かけるからだよー」
「……姉さん」
「冗談、冗談だよ。あいたたた……」
 そんなどこか微笑ましい光景が我が家の中で見られるようになった。伊織はどこかツンとしているところがって、姉さんの遊び相手、という感じではなかったけれど、この子はどうやら相性がいいらしい。
 その伊織はと言えば、普段は気のない素振りをしつつ、隠れて毛繕いをしてあげたりしているみたいで、なんだか気に入っているみたい。
「もうずいぶん元気になったから、そろそろ飼い主の人、探してあげないとね」
「……」
 何気なく言ったその言葉に、一瞬姉さんの動きが止まる。
「姉さん?」
「うん、そうだよね」
 よし、お前のご主人様を見つけてやるからな、と笑顔で答えたその表情に、影はもうなかった。
 でも。





「あの、張り紙を見たんですが」
 その日はすぐにやってきた。飼い主の方を探しています、という張り紙をして数日後、人の良さそうな女性が家を訪れた。
 そして。
 姉さんは、まだ帰っていなかった。
「この子でしょうか」
「ああ……はい、そうです」
 嬉しさと安堵の表情を浮かべるその人に、今までの経緯を説明した。先生の所に行ってもらえれば確認は取れますから、と言ったけれど、
「いえ、その必要はないと思うわ」
「あの、どうしてでしょう」
「貴女は嘘をつくような人には見えないもの」
 本当にありがとう、そしてごめんなさいね、これからはもうこの子に危ない目はあわせないから、と。彼女はそう言った。
「いえ、そんな……」
 それを聞いて私も安心した。心のどこかにあった『飼い主がやったのではないか』という嫌な想像が外れていると信じられたから。
「それじゃ、本当にお世話になりました」
「はい、それでは」
 そう言って送り出そうとした時に。
「あ――」
「姉さん」
 姉さんが帰ってきた。
 そして、子猫とその人、私を順に見つめて。
「そっか、ちゃんと見つかったんだね」
 笑顔でそう言った。
「お前、元気でいるんだぞ」
 笑顔で涙を流しながら、そう言った。
「姉さん……」
「あれ、どうしたんだろ私。変、だよね。あはは、初めましての人の前なのに」
 ごめんなさい、そう言い残して家の中に駆け込んでしまった。
「あの子は……」
「あの、すみません。私の姉なんですが、ずいぶんその子を可愛がっていて……」
 こんな時どうしていいか分からなくて、すみませんとしか言えない自分が情けなかった。





 そんな気まずい雰囲気でその人とお別れをしたあと、私も急いで姉さんの部屋に向かった。
「姉さん……」
 部屋のまんなかで、膝を抱えて姉さんが泣いていた。
「分かってたんだよ、こうなるって。だから名前もつけないで、ずっとお前って」
 うつむけていた顔を上げる。
「でも……でもやっぱりお別れは悲しいよ。こんな、こんなに……」
「姉さん」
 ぎゅっ、と。
 その小さな身体を抱きしめる。
 いつも私を助けてくれる姉さんを。
「八雲、やくもぉ……」
「ねえさん……」
 いつの間にか私も涙を流していた。あの子のためか、姉さんのためか、それは分からなかったけど。
 どれくらいの時間か、ずっとそうしていて、姉さんはいつの間にか眠りに落ちていた。顔にははっきり残る涙のあと。放っておくわけにもいかなかったけど、起こしてしまうわけにもいかず、結局そっとベッドに寝かせておくことにした。
「……」
 姉さんをベッドに横たえたあと、私は表に出た。ただ無性に外の空気が吸いたくて。
「……伊織」
 足下にそっと伊織が寄り添ってくる。その姿にもどこかいつもの凛とした空気が抜けている。それを見て、私は黙って抱き上げる。暴れもせずに素直に抱かれた伊織と空を見上げる。
 欠けたところのない、満月だった。





 翌日、日曜日。珍しくお昼近くまで寝過ごしてしまった私は、慌てて着替えて居間に向かった。急いで姉さんを起こして食事の支度を、と思っていたら。
「おはよう、八雲」
「姉さん?」
 これもまた珍しく、姉さんが私より先に起きていた。確かにずいぶんと寝坊はしたけれど、いつもなら私が起こすまで寝ているような人なのに。
「あ、なんか驚いた顔してる。ひどいなー、八雲は私が一人じゃ起きられないって思ってるんだ。私だってそれくらいできますよーだ」
 昨日とは打って変わって、元気一杯のいつもの姉さんがいた。
「そんなこと思ってないよ。姉さんは私の姉さんだもの」
 そう言うと、えへへ、と笑ったあとで。
「それでね」
「何?」
「ちょっとお腹が空いたかなー、なんて……」
 食事の用意まではしていなかったみたい。
「もう、姉さんたら」
「あはは」
 場にあるのは温かな、いつも通りの空気。
 と。呼び鈴が鳴った。
「あれ、誰だろう」
 私が出るね、と玄関に向かう。ドアを開けたそこにいたのは――





「ごめんなさいね、昨日の今日で」
「どうも、昨日は……」
 飼い主の方だった。胸にはあの子を抱いている。
「あのね、昨日のお姉さんの様子を見て、一晩考えたの」
 少し恥ずかしそうにして、その人は言った。
「私もこの子が大好きだけど、あれだけ好いてくれる人の所から連れて行くのも、取り上げるみたいだと思うのよ」
「え……あの……」
「それでね、時々は遊びに来させようと思うんだけど……駄目かしら」
「いえそんな」
「本当ですか!?」
 後ろから飛び出すようにして姉さんが出てくる。
「ええ、もしあなた達がよければ、だけど」
「全然何の問題もちっともありませんっ」
 満面の笑顔で答える姉さん。
「そう、よかった」
 言って、私の方を見てにっこりと笑う。
「ありがとうございます」
 私も笑顔でそう答える。
「あの、この子名前、なんていうんですか?」
 ひとしきり喜んだあと、姉さんがそう訊いた。
「アリスよ。ほら、不思議の国の」
「アリス。アリスか……」
 白い子猫を抱き上げて、
「よろしくね、アリス」
 姉さんは初めてその子の名を呼んだ。





「姉さん、もう本当にぎりぎりだよ」
「まだだいじょーぶだよ……」
「もう……」
 ちょっと人より抜けてるところはあるけれど。
 誰より優しくて。
 誰よりも素敵な。
 私の姉さんは、そういう人です。