「こういう恰好はあまり性に合わないんだけどね……」
 姿見の前で一人ぼやくのは、刑部絃子。そこに映っているのは、きっちりとスーツを着込んだ自分の姿。どちらかと言えばラフな服装が多い彼女にしては、確かに珍しいことである。
「まあ、仕方ない。大事な式典だしね」
 それに、ともう一つの理由は口にせず、そのままバッグを片手に玄関へと向かう。そして家を出る前に居候に一言。
「それじゃ私は先に行くが、まさか今日は遅刻するんじゃないよ?」
「るせぇ。それくらい」
「分かってるならいいさ。何せ今日は君の――」
 言いかけた絃子の脳裏を、刹那の瞬間に数多の光景がよぎる。これじゃまるで走馬燈じゃないか、などと縁起でもないことを考えて苦笑しつつ、続く言葉を告げる。
「――卒業式なんだからね」


HeartBreaker, or CrossRoad


 爽、と緩やかな春の風が吹き、絃子の長い黒髪を揺らす。彼女の視線の先、眼下の校庭では生徒達の喧噪が止むことなく続いている。
 証書を持って記念写真を撮る者、後輩からだろうか、抱えきれないほどの花束を受け取っている者、何が楽しいのか――むしろ特に意味はないのだろうが、歓声とともに校庭を駆け抜ける者。各人各様、その行為は様々であるものの、その意味するところはただ一つ。
「思い出作り、か」
 そんな光景を屋上から一人見下ろしつつ呟く。どんな些細なことさえ、重ねられた時の果てにかけがえのないものに変わることを知っている者として、その表情は柔らかい。
「いのち短し、だ。恋とは言わず、人生は謳歌するべきだよ」
 なあそうは思わないか、と。背を向けたままで階下へと繋がっている扉の向こうに声をかける。
「知るかよ、んなこと。ったく、こんな分かりにくいとこにいやがって……」
 ぶつくさとこぼしながらそこから現れたのは、目下の所彼女の居候たる播磨拳児。どうやらずいぶんと彼女のことを探し回ったらしく、いささかげんなりとした表情。
「いいじゃないか、それくらい」
 そこで振り返る絃子。今度は風ではなく、その動きによって長い髪が後を追って回る。
「君はちゃんと私を見つけてくれたんだ、問題ないだろう?」
 にやりと笑う。それは、結局一度も打ち負かすことの出来なかった笑み。思えば、いつもそれにやり込められていた気がする、と振り返る拳児。
 そして、そんな彼の心中を見通しているかのように、絃子は淡々と言葉を紡いでいく。
「ようやく君も高校卒業、か。思えばいろいろあったね……ロクでもない思い出ばかりで、おかげで私には一生忘れられそうにないよ」
 うん、まったくだ、と誰にともなく言って肩をすくめる。
「さて、君はどうかな? これからも私のことを忘れずにいてくれるだろうか」
「絃子、お前」
「『さん』をつけろと前から言っているだろう……まあ、今はいいとしようか」
 呆れ顔でそう言ってから。
「――出て行くんだろう?」
 拳児の目を真っ直ぐに見据える。それはもう、問いかけというよりは確認に近い、そんな一言。
「……知ってたのか」
「……あのね、拳児君。一応一つ屋根の下に住んでいるんだから、知ってるも何もないだろう。そもそも、君が私に隠し事なんて出来ると思っていたのかな?」
 そして、またあの笑み。こうなると、もう拳児としては『はいそうですよ』と答える他ない。
「お前、その性格絶対何とかした方がいいと思うぜ」
「結構、余計なお世話だよ。さてそれで、だ。わざわざ今日、ということは、やはりもう明日すぐに、ということかな」
「……ああ。だからよ、コレは返しとく」
 言葉とともに拳児が放ってきたのは、彼女の家の鍵。片手で受け取ったそれを見て、ふん、と小さく笑ってから、今度はそのまま投げ返す。
「おい、どういう」
「私からの餞別だ、受け取っておいてくれ」
「……絃子」
「そうそうひよって戻ってこられても困るけどね。ま、たまには顔くらい見せに来てくれ」
 それくらいは別に構わないだろう、と呆然とした風の拳児に笑いかける。それは、今まで彼が見たことのないような――否、そうではない。
「その程度にはウチは君の帰る場所で、私は君の家族だと、そう思っているんだが――」
 ずっとずっと遠い昔、まだ彼が無邪気に彼女の後をついてまわっていた、そんな日々の記憶。
「――それともこれは自惚れかな? 播磨拳児君?」
「……ぇよ」
「ん? 聞こえないな、もう一度言ってくれるとありがたいんだが?」
「……ねぇよ」
「拳児君、君は肝心なところで」
「だからんなことねぇって言ってんだろうが!」
 これ以上ないくらいいつも通りに乗せられて、最後は肩で息をするほどの大声を出した拳児。
 一方の絃子は。
「そうか、それはよかった」
 にやにやと笑う。してやったりの表情だ。
「――こんなところかな。あまりいじめるのも可哀想だしね、それに」
 小さく振り返り、フェンス越しに校舎の入り口に佇む一人の少女を見る。
「君の連れも待っているようだしね、早く行ってやるといい」
「っ……わーったよ」
 一瞬何かを言い返そうとした拳児だったが、結局諦めてそのまま背を向けて階下への扉を開き――そこで動きを止める。
「世話になった」
「なに、可愛い君のためだ。迷惑だなんて思ったことはないよ」
 絃子の軽口にも今度は乗らず、真っ直ぐ言葉を返す。
「絶対に、忘れねぇ」
「ああ、期待してるよ」
 そんなやりとりを最後、扉は再び閉じ、彼の姿は屋上から消える。
「……約束、か」
 その気配が完全に感じ取れなくなってから、絃子はフェンスに背中を預けて言葉を放つ。
「私の知ってる『播磨拳児』という男はね、喧嘩はするわ肝心なところで抜けているところがあるわ、相当にロクでもないヤツだよ」
 本当にそうだ、と思う。
「それでもね、不思議と昔から私とした約束は守ってくれるんだ。だからね」
 ――だから。
「『絃子姉ちゃん』としては、それくらい信じてあげるよ」
 それくらいはね、と最後にもう一度呟いてから、身体を起こして校庭を見やる。
 そこには、ちょうど校舎から出てきて、待っていた少女と連れ立って歩き出す拳児の姿。
 その姿が、振り返って校舎の屋上を見上げようとして――結局何もせずにそのまま去っていく。
「それでいい」
 それを見て絃子は笑う。
 世界に不満など何一つないというように。
「君は君の道を歩いていけばいい」
 そう言って絃子は笑う。
 世界は幸福で満ちているというように。
「そしていつか」
 そして絃子は――
「その道が私の歩く道ともう一度交差するのを願っているよ」
 ―― 一粒だけ涙を流して、笑う。
 それでいい、と。
「……さて、それじゃ私も歩き出そうとしようか」
 刑部絃子が生きるべき道を、心の中でそう呟く。
「彼が帰ってきたときに笑われないようにしないとな」
 それまでさよならだ、そう言い残して屋上を去る。





 ――無人の屋上。
 春風に乗って、ゆらゆらと舞っていた桜の花が、気紛れにそんなところにまで吹き上がり、やがてゆっくりと舞い落ちる。
 季節は春。
 別れと、そして新しい出会いの季節。