Invisible full moon




「ちょっとがっかりだね……」
 縁側に腰掛け、足をぶらぶらとさせながら天満が嘆いている。腕の中に伊織を抱きつつ、うん、と頷いて八雲がともに見上げる空は薄い雲に覆われていて、その向こうにあるべきもの――月の姿を隠している。そこにあるのは、夜にあってなおうっすらと白く煙る、そんな空だけ。
 月が見られない。別段それだけであればどうということもなく、一年という時間の中ではそんなことはいくらでもあること。
 けれど。
 それが十五夜――中秋の名月となるとまた話は別となる。何気なく目に入った、ということではなしに、能動的に人々が空を見上げる、唯一と言ってもいい晩。それが十五夜である。普段は気にすることがなくとも、誰しも自然とそれにこだわってしまうような、そんな一つの文化。
「あーあ、残念」
 もう一度そんな声をあげてから、お風呂入ってくるね、と立ち上がる天満。それからお団子食べちゃおう、などと言っているその顔は、立ち直りが早いのかどうなのか、既に笑顔。つられるように、小さく笑みを浮かべながらその後ろ姿を見送ってから、あらためて空を見上げる八雲。当然ながら、月の姿はやはりない。
「伊織も見たかった……?」
 黒猫は答えない。
 黙ったまま、ただ静かにその空を見つめている――と、不意にその身を起こし、ぴんと耳を立てる。その仕草に八雲が訝る暇もなく――

 ――りぃん。

「え……?」
 どこかで鈴に似た音色がした。ひどく遠くで鳴っている、けれどどこまでも届くような、そんな音。

 ――りぃん。

 ゆっくりとしたリズムを刻むように、音色は鳴り響く。そして、するりと八雲の腕を抜け出した伊織が、誘われるようにして走り出す。
「伊織……!」
 呼び止める声も、伸ばした腕も届くことなく、黒猫は同じ夜の黒の中に消えていく。慌ててその後を追おうとした八雲の脳裏で、いくつかのことが制止を呼びかける。
 たとえば、姉を一人家に残していくこと。
 たとえば、これは黒猫の気紛れに過ぎないという可能性。
 それでも八雲は足を踏み出す。
「すぐ帰ってくるから」
 庭先のサンダルをつっかけて走り出す。
 ――行かないと。
 理由も分からない、そんな衝動に駆られて。





 完全な闇、というものは都市においてはほぼ存在しない。月の光、星の光がなくとも、街の灯りが消えることはなく、夜は煌々と照らされている。そんな明るい夜の下、漆黒の猫と少女は駆けていく。止むことなく鳴り響く、りぃん、という音を追うように、あるいは誘われるようにして。
 そして、果てなく続くかに見えた追跡劇はその予想を裏切って、意外に早く終着点へと到達する。
「神社……?」
 八雲の視線の先、伊織が駆け上がる石段の先にあるのは矢神神社のみ。こんな不可思議な出来事の目的地には相応しい、その場所を前にして八雲は足を止める。
 乱れた呼吸を整えながら考えるのは、今ならまだ引き返せる、という現実。
 そして目の前にあるのは、戻れないかもしれない幻実。
「――伊織」
 けれど、八雲は石段へと足をかける。
 その黒猫を捨て置くことなど出来るはずもないのだから。 
 ゆっくりと、それでも確かに一段一段ずつ踏みしめるようにして登っていく石段。やがて辿り着いたその頂点、石畳の向こうにある境内に――

 ――りぃん。

 幻想が、あった。  周囲を木々に囲まれ、街の灯りが届かないその場所を照らすのは、宙に漂う淡い光。
 そして、こちらに背を向けて、その光とともに白い少女が舞っていた。
 手にした祭具が響かせる、ただその一音のみを背景に。
 少女の足下には行儀よく座ったままそれを見上げる黒猫。その姿を見て、ようやく八雲は我に返り、同時、少女もゆるりと舞の動きを止める。
「今夜はずいぶんとお客様が多いのね」
 囁くような声は彼女にとって聞き覚えのあるもので。
「ようこそ、年に一度の宴の席へ――久しぶりね、ヤクモ」
 振り向いたそこにあったのは、いつかの美術室で見た、あの顔だった。





 あなたを呼ぶつもりはなかったのだけれど、状況の掴めていない八雲にそう前置きをしてから、少女は静かに語り出す。
「幻想、狂気、月はいろんな言い方をされるわ。そしてそれは間違いじゃない」
 謡うような言葉。
「月に兎はいなくても、そこに確かに『力』はあるのよ」
 私みたいな半端者がこの世界にいるための、ささやかな祀り、とそこで一呼吸おいて。
「だから、こんな晩なら――」
 雲の向こう、見えないはずの月を視るような眼差しで。
「――奇蹟の一つも起こせるかもしれないわね」
 少女は言の葉を放つ。
「奇蹟……」
「そう、あなたが望めばそれは叶うかもしれない」
 そして、八雲の前で初めて表情を変え――笑ってみせた。冷たく。
「たとえば、誰かの気持ちを――」
「――ダメ」
 それを最後まで聞く前に、八雲はそう答えていた。その言葉の先に何が続くのかは分からなかったけれど。
「それは絶対しちゃいけないことだと思う」
 彼女にしては珍しく、激しいとさえいえる強い口調。
 一瞬の緊張が場を支配して――
「冗談よ」
 それを断ち切ったのは、少女のあっけらかんとしたような一言だった。
「そう、ただの冗談」
 繰り返すその顔からは先程の冷たい笑みは消え、あの無表情だけがそこにある。
「月に力があるのは本当だけれど、私にそんな奇蹟は起こせない」
 これだってただの借り物だしね、と振ってみせた祭具が、りぃん、と音を立てる。
「あなたの答は分かっていたけれど、ちょっとからかってみただけ」
 ごめんなさいね、と肩をすくめてみせる。
「最近こんな言葉の意味を知ったのよ。『退屈』、知らなくてもよかったのに、ね」
 永い時を過ごしてきたと言った彼女。その彼女の『退屈』という言葉の意味を思って、何も言えなくなる八雲。
「困ったわね、そんな顔をされると……」
 しばらく考える素振りをみせてから、やがて、そうだ、と少女は呟く。
「お詫びに私にも出来る奇蹟を見せてあげるわ。それで今日はお開きよ」
 え、と八雲が訊き返すより早く、とん、と少女は地面を蹴る。
「また会いましょう、ヤクモ」
 その表情は柔らかな微笑。
「今度は、新月の晩にでも――」

 ――りぃん。

 もう一度その音色が静かに響いて。
 そして八雲は確かに見た。
 雲に覆われた夜空の向こう、見えるはずもない真円の月。
 金色にも似た光を放つ、その姿を――





「あ……」  どれほどの時間が経ったのか、あるいはほんの一瞬だったのか、次に八雲が我に返ったときには、そこにはもう何もなかった。
 雲に覆われた空。
 誰もいない境内。
 ただ、その足下でじっと彼女を見上げる黒猫だけが、あの出来事が現実だったことをかろうじて示している。
「あの子、笑ってた」
 何が本当で、何が嘘なのか。
 それは彼女には分からないことだったけれど、最後に見たあの表情、そこには嘘がなかったと、そう思う八雲。
 ――なら、それでいい。
 真実ではないかもしれない、それでも自分にとっての現実を胸に、踵を返す。
「帰ろう。きっと姉さんが心配してる」
 わずかに頷く素振りを見せて、伊織もその後を追って歩き出す。
 そして残されたのは、無人の境内。
 動くものは何もない、静かに闇に沈むその場所で、もう一度だけ名残を惜しむようにあの音色が響いた。
 ――りぃん、と。