Like a Rolling Stone




 ――気まずい。

 刑部絃子が味わっているこの部屋の空気は、まさしくその一言で表わされるものだった。
 茶道部部室、今現在そこにいるのは彼女とあと一人だけ。その一人――塚本八雲の存在が、この微妙な空気の元凶である。
 もっとも、元凶とは言っても別段彼女が悪いというわけでもなく、真の元凶はまったく別のところにあったりする。言うまでもなく、先日の絃子宅における鉢合わせ、である。
 当然、事態を招いた張本人がその重大性にまったく気づくことなく過ごしている、という点もいささか問題ではあるのだが、八雲はもちろん、絃子の方もそれについてとやかく言うつもりは今のところはない。言うだけ無駄である、などという冴えない理由ではあるのだが。
 ともあれ、である。事情を知る由もない八雲ではあるが、教師を問い質す、などという行為が出来るはずもなく、絃子は絃子で、なんとなく話しづらい――そんな理由で事態はずるずると引き延ばされている、といった次第。

 ――私が悪いんだろうな、きっと。

 すっかり冷めてしまった紅茶、その水面に映る自分の顔、そして視界の端にどことなく落ち着かない様子の八雲の姿を収めつつ、心の内で呟く絃子。
 確かに、八雲の性格を考えれば話したところで他人に吹聴して回ることもまずないはずで、さほど大事なるとは思えない。教師としての体面、などという建前は、そもそも同居を目撃された時点で意味をなさない。
 ならば。

 ――どうして話したくないのかな、私は。

 そうしなければ事態は好転しない、それどころか話せば丸く収まる公算の方が高いにも関わらず、どういうわけか気乗りのしない自分に溜息をつく。体面以外に話したくない理由があるのだろうか、そう考え始めると今一つ個人的に認めたくない結果に落ち着く気がして、一瞬身震いが走る。

 ――やめだやめ。それよりも、だ。

 偶然にも二人きり、そして幸か不幸か誰かがやってくる様な気配はない。話してしまえばすぐ終わることだ、そんな決心をようやくしてから思い切って顔を上げる。

「あのさ」
「あの」

 期せずして、互いの言葉と視線が重なる。どうやら八雲も同じことを考えていたらしく、顔を見合わせたまましばらく二人して見つめ合ってしまう。ほんの一時、奇妙な沈黙が場を支配するが、やがてどちらともなくもらした苦笑いにも似た笑みに、和やかな空気へと塗り替えられる。

「その、すみません……」
「いや、いいよ。私もちょっと驚いた。……それに、話の内容も見当がつくし、ね」

 そこで一拍置いてから、ようやく絃子はその話題を口にした。

「――拳児君のこと、だよな」

 あえて『播磨君』と呼ばなかったことに対しても、わずかに目を見開いただけで、はい、と小さく頷いた八雲。それを見て、やはり話しても大丈夫だ、と思うと同時、もっと早く話しておくべきだった、と後悔する絃子。

「すまなかったね。本当ならあのときにでもきっちり説明しておかなきゃいけなかったんだが……」
「いえ、そんな……」

 申し訳なさそうに頭を下げる八雲に、君が悪いんじゃないよ、と言ってから、さて、と本題に入る。

「実はね」
「……はい」
「私は彼のイトコなんだ」
「え……?」
「――なんて言い方をしたら、どこかの誰かと同じでいらない誤解を招くんだろうね。まあ、嘘じゃないのは確かだけど」
「それはどういう……?」
「うん、私の名前がまずいんだ、この場合。それがなければわりと簡単に分かることだよ」

 名前、と呟いて思案顔になった八雲が、すぐに、あ、と声をあげる。分かれば簡単なことだろう、と苦笑する絃子。

「親族の方の従姉弟だったんですね」
「そう、正解。まあ、それでも同居してる説明にはならないんだが……」

 さて、どこから話したものかな、と少し遠い目をする絃子。もちろん、事情を説明するだけなら彼が高校に入った辺りのいきさつだけで十分なのだが――

「あの、プライベートなお話でしたら、別に……」
「そんな大したものじゃないさ。昔話だよ、ただの」

 そう言って、取り留めもなく語り出す絃子。
 別にそんな必要はなかったけれど、どこからか湧いてくる衝動にも似た想いにつられて、『生意気そうに見えたガキ』の話をゆっくりと綴っていく。
 それは、今はもう昔話にしか過ぎない、遠い日々の他愛もないいくつかのエピソード。

「――と、こんなところかな」

 最後に彼が彼女の家に転がり込んできた顛末まで語り終え、小さく肩をすくめてみせる絃子。一方、最後まで聞き終えた八雲は、しばらく言葉を選ぶ様にしてから口を開いた。

「先生は播磨さんのこと……大切にしてるんですね」
「……別に私は」
「でも、さっき話してるときの先生、なんだか嬉しそうでした」
「……」
「それに――」

 似てる様な気がしたんです、と八雲。気のせいかもしれませんけど、そう前置きをしてから告げる。

「姉さんが私を見るときの目にそっくりでした」
「そんなことは」

 ない、と続けようとして、ふと八雲の視線に気がつく絃子。そこにあったのは、ただ見たことを、ただ思ったまま告げた、真っ直ぐな視線。

 ――何をむきになっているんだろうね、まったく。

 柔らかなその視線に、胸の奥にあったわだかまりがふっと消える。ここまできて、今更意地を張る必要なんてどこにもない、と。

「そう――かもしれないな」

 その一言で、心なしか肩も軽くなる。

「確かに、昔はいろいろ振り回されてね、年の離れた弟が出来たみたいに思ってたこともあった。今じゃもうかわいげも何もないけどさ」
「……そうですか?」
「うん?」
「あ、いえ、何も」
「でもまあ、確かに一緒に暮らしていればあれでも情はうつる。そういう意味では――」

 八雲の呟きはあえて追求せず、代わりに自分の心の底にあった言葉を紡ぐ。

「――家族、なのかな」

 らしくないかもしれない、そう思いながら言った台詞に、八雲は微笑みを返してくれた。そんなことを少しばかり気恥ずかしく思っているところに、携帯の着信音が鳴り響く。ほんの少し慌てたような素振りでそれを取りだし、メールの文面をあらためた八雲が申し訳なさそうに立ち上がる。

「すみません、私ちょっと……」
「ああ、構わないよ。それより」
「なんでしょう」
「噂をすれば、なのかな」

 思わせぶりに鎌をかけてみると、面白い様にそれに引っ掛かって言葉に詰まる八雲。その姿に、ごめんごめんと謝ってから、すぐ行ってやるといい、と小さく手を振る。

「あの、それじゃ失礼します」

 どこか彼女らしくない動揺を身にまとったままの八雲。その後ろ姿を見送ってから、誰もいない部屋で苦笑混じりの溜息をもらす絃子。その表情がわずかに険しいものへと変わる。

「さて、君はどうするつもりなのかな、拳児君」

 彼女は彼の思い人を知る数少ない一人であり、そしてまた、その思いがそう簡単に変わらないことも知っている。けれど、この半年程度で彼の身の回りに様々な事態が生じていることは、断片程度の情報からでも知れること。

「誰も泣かない結末があればいいんだけど、ね」

 それが難しいことは、彼女自身の人生経験が教えてくれること。とは言っても、さすがにそこに介入することはしたくないし、するべきではないと思っている絃子。出来るのはこうして人知れず祈ることのみ。

 ――なんだ、結局まだまだ彼に振り回されてるんじゃないか。

 今更ながらに気がついた事実。
 そんなことを胸にしながら口にした冷たい紅茶は、ほんの少し、苦かった。