My dear




『……え?本当に?』
『ああ、久しぶりに休みが取れてね』
『それじゃ明日は一緒に……』
『もちろんだ。まだ行ったことのない場所がいいな……そう、確か近くに動物園があったね』
『うん。あそこなら私もよく行くから案内もできるわ』
『尚更じゃないか。ではそうしよう。明日、二人で動物園に』
『わかったわ。楽しみにしてるから』
『私もだよ、折角の娘との休日だからね。ではおやすみ、愛理』
『おやすみなさい、お父様』





 翌日。
 約束通りに沢近は父と動物園を訪れていた。
『じゃあ次はあっちに行きましょう!』
『おいおい、少しは落ち着いたらどうだい?まるで小さな子供みたいじゃないか』
 急な仕事、突然の用事、忙しく飛び回る父の仕事柄、約束を反故にされたことは数知れない彼女。その度に笑顔で気にしていない、という風を装い続けてきた。
『だって嬉しいんだもの。ほら早く、お父様』
『わかったよ。やれやれ、しょうがないな、愛理は』
 実のところを言えば、今回もそうなるかもしれない、と思っていたのだった。しかし、今回は久しぶりに――いつ以来なのか思い出すのに苦労するほどに――本当に久しぶりの二人での外出だった。彼女が浮かれるのも無理はない、と言える。
『おいおい、そんなに走っていると……』
『大丈夫、平気へい……きゃっ!』
「うおっ!」
 そんな高揚した気分のせいか、彼女らしくもなく動物を眺めていた人とぶつかってしまう。
「ごめんなさい、ちょっとよそ見、を……?」
「いや、こっちの方こそちょっとぼけっと……?」
 互いに謝ろうとした二人だったが、その相手に気がついて愕然とする。
「なんだ、ヒゲじゃない」
「……だからヒゲって言うんじゃねぇ」
 よりにもよってなのかなんなのか、沢近がぶつかった相手は播磨だった。さっそく流れ始めるいつものじとっとした空気。
「なんでアンタがこんなとこにいるのよ」
「うるせぇ。いいだろうが、別に」
「よくないわよ。だいたいアンタがぼけっとしてるから……」
「何?今のはどう考えてもお前の方が……」
 相変わらず売り言葉に買い言葉の二人。
 そこに。
『だから言ったじゃないか、愛理。……それで、そちらの方はお友達かな?』
『え、あの、そんなことないわ、ただの通りすがりの……』
「おい、何話してんだ?つーか誰だ、このオッサげふ」
 突然目の前で英語の会話を繰り広げられ、わけがわからない、といった様子で沢近に尋ねる播磨。ちなみに最後の一言のせいでありがたい一撃(父からは見えない絶妙の角度)を頂戴している。
「オッサンじゃないわよ!お父様よ、私の」
「そ、そうか……それは、スマン……」
 うずくまりそうになりながらも、どうにか平静を装って言う。
『やはり知り合いのように見えるのだが……』
『……通りすがりのクラスメイト。そう言おうと思ったの』
『クラスメイトか、それは奇遇だね。そうだ、せっかくだし彼にもご一緒してもらったらどうかな』
『え……!そんな、お父様私は……』
『今もずいぶんと仲がよさそうだったじゃないか。なに、私は全然気にしないよ』
『そうじゃなくて、私が……!』
「……」
 ……などという会話が繰り広げられているとはつゆ知らず、なんとなく手持ちぶさたの播磨。さすがに黙って立ち去るのは気まずいし、一声かけようにも会話に割り込めない。
 そんなやりとりがしばらく続いた後。
「あの、ね……」
「お、おう。なんだ」
 やけに深刻そうな顔で言ってくる沢近にたじろぐ播磨。
「私はどうしても嫌だ、って言ったんだけど」
「な、なんだよ」
「お父様がね……あなたも一緒に、って」
「……ハイ?」
 何を言っているのか理解できない、という顔。
「だから、私たちと一緒に来なさい、って言ってるの」
「なんで俺がそんなことしなきゃなんねェんだよ!」
「私が訊きたいわよ、そんなの!……とにかく、お父様は言い出したら聞かないの。お願い」
「お、おい……わかったよ、行けばいいんだろ、行けば」
 言って頭を下げる沢近に、女の子のそういう態度には弱い播磨は渋々承諾する。
『お父様、こちらクラスメイトの播磨くん』
『ふむ、ハリマか……なかなかいい名前だね』
 そう言ってから、今度は播磨に片言の日本語で挨拶する。
「ヨロシク」
「あ、いや、こちらこそヨロシク」
 妙に畏まってしまう播磨。その脇腹を沢近がちょんちょんとつつく。
「……ちょっと」
「……なんだよ」
「わかったと思うけど、お父様はあんまり日本語が得意じゃないの。でもだからって変なこと言ったら……わかるわよね?」
「……ああ」
 もう殴られたしな、というのはさらに頂戴しそうだったので口に出さず、なんでこんなことに、と心の中で嘆く播磨。





 ともあれ、そんな風にしてやけに上機嫌の父に少し複雑な気分のその娘、そしてなんだかもうよくわからないそのクラスメイト、という風変わりな三人での動物園巡りが始まった。
 最初は不機嫌そうな沢近だったが、歩き始めてからは播磨の意外な一面に驚かされ通しだった。
 動物たちのあまり知られていない面白い習性、人気スポットの穴場、といった動物園の楽しみ方に加えて、果ては何匹かの動物にはちょっとした芸までさせてみせた。
「ちょっと……どうやってるのよ、それ」
「ん、まあいろいろとな……」
 と当人はあまり多くを語らなかったが、よくよく周りを見てみれば、播磨のそれを楽しみにしている人たちもいるらしく、ここではずいぶんと有名人らしい、ということを知る。
 一方の播磨は、なんかシャクだよなあ、と思いつつも、沢近の後ろに立っている父親だという男がしきりに感心してくれるため、檻の中の友人たちに頭を下げつつ芸をやってもらっていた。
「ねえ、あの子は何が出来るの?」
「あいつか。あいつは――」
 そしていつのまにやら沢近までも楽しそうにして尋ねてくる。普段は目にしないそんな様子も、つまりは父親の存在によるものだろう、と思う播磨は、
(ま、たまにはこういうのも悪くはねェか)
 あくまでたまに、だけどな、などと考えたりする。
 そしてその間、沢近の父はあまり口をはさまずに、娘とその友人のにぎやかなやりとりを穏やかな視線でじっと見守っていた。
 数時間後、これで一通りだぜ、という播磨の一言で腰を下ろす三人。けっこうな距離を歩き回ったせいか、心地よい疲労感に襲われる。
『私、なにか飲み物買ってくるわ。お父様は何がいい?』
『愛理に任せるよ』
 わかったわ、と今度は播磨に尋ねる。
「飲み物買ってくるんだけど、播磨くんは何がいい?」
(播磨くん……?)
 その言葉に疑問を持ちつつ、いや任せる、と答える播磨。すると、その答えに何故かふふっ、と笑みをこぼす沢近。なんだよ、と訊くと。
「ごめんなさい、たいしたことじゃないの。なんだか二人とも似てるな、って。それだけ」
 それじゃ行ってくるわね、と去っていく沢近。
(……なんっかなあ)
 そのあまりに大きすぎる普段とのギャップに、そういうもんなのかねえ、とちらりと横の男を見る。
 と。
「ハリマくん、だったね」
「ああ、そうっすけど……?」
 かけられた声に返事をしてから気がつく。
「……日本語?」
「ああ、愛理には内緒にしておいてくれると嬉しいよ。数少ない父の秘密、というやつでね」
 などと言いながらにっこり微笑んでみせる。食えねえ親父だ、と思いつつ、わかりました、と返事。
「あの子とはずいぶん仲がいいようだね」
「いや、そんなことないっすけど」
「そうかな?あれだけ笑顔でいるあの子を久しぶりに見たよ」
 もっともかまってやれない私が悪いんだけどね、と自嘲気味の表情に、何も言えなくなってしまう播磨。
「なかなか難しい子だろう?怒ったり拗ねてみせたり」
 その様子に気をつかったのか話題を変えてくれたのだが、実のところ播磨としてはこれも答えにくい話題である。
「難しいっつーか……まあそうですね、ハイ」
「遠慮しなくてもいいよ。まあともかく、あの子にもいろいろとあってね、なかなかストレートに感情を出さないんだよ」
 あくまで私から見て、だよ、と付け加える。どうやら英国と日本の違いに考慮しているらしい。
「その辺り、君ならきちんと受け取ってくれそうに見えたんだがね」
「……全然ないっすよ、そんなこと」
「君がそう言うならそういうことにしておこうか。……そうだ、何か訊きたいことはあるかな?愛理のことでも答えられる範囲で答えてあげよう」
「いや別にそれは……」
 と、ふと思いついたことがあったので尋ねてみる播磨。
「……カレーと肉じゃがってどっちが好きっすか」
「その二つならカレーだが……?」
「いや、なんとなくなんで」
 質問の意図を汲み取ろうとしばらく思案顔だったが、やがてなるほど、という顔をする沢近父。
「やはり君のような人があの子の友人でよかったよ」
「別に友人ってわけじゃ……」
 そこで視界に沢近の姿を捉える二人。
「おや、そろそろ戻ってくるね。くれぐれも内緒に、頼むよ」
「それはいいっすけど……」
「それはよかった。では最後に一つだけ」
「……なんっすか」
「娘をよろしく頼むよ」
 どういう意味、と聞き返そうとする播磨だったが、沢近の姿はもうすぐ近く、約束通り会話はもう出来ない。仕方なしにじと目で父親の姿を見てみるが、なんでもない様子で微笑んでいる。
(やっぱり食えねえ親父だ……)
「おまたせ……何?変な顔して」
「なんでもねェよ、別に」
 ならいいけど、と今度は父に向き直り、コーヒーのカップを渡す。
『おまたせ。何かお話してたの?』
『彼の英語と私の日本語じゃ無理だよ』
『それもそうよね。ううん、なんだか向こうから見たときにそんな風に見えたから』
 そう言って腰を下ろした沢近と入れ替わるようにして立ち上がる父。
『お父様……?』
『すまないね、愛理。そろそろ行かなくてはいけないんだ』
『……え?』
 沢近の顔に一瞬よぎる影。
『今朝になって入った用事でね……本当にすまない』
『ううん、いいの。半日付き合ってくれただけでも感謝しないと』
 それは笑顔という名の仮面をつけた、彼女の言葉。
『愛理……でもね、ちゃんと夕食までには帰ってくるよ』
『え――――』
『期待していいんだろう?今日の夕食』
『――うん、楽しみにしててよ。びっくり……びっくりさせちゃうんだから』
『ああ、楽しみにしているよ』
 そう言って、知らずこぼれた沢近の涙をそっとぬぐう。
『では彼にもよろしく言っておいてもらえるかな』
『うん、わかったわ』
 じゃあ、と軽く片手を上げてから去っていく。その姿を、沢近は見えなくなるまでじっと見つめていた。





「お父様がよろしく、だって」
「そうか」
 先ほどまでは自分の居場所のなさに縮こまっていた播磨、ようやく一息つく。
(よろしく、ねえ……)
 娘を、の一語がないだけで、こうも印象が変わるのかね、などと考えたりする。
「……悪かったな、今日は」
 邪魔しちまったみてェだ、とそれでも一応謝っておく。やっぱり悪いのは沢近の方だと思うのだが、それを言ってもどうにもならないことはいい加減学習済みだ。
「そうね、最悪よ。天満や美琴ならともかく、よりにもよってアンタだなんて……」
 いつも通りの愚痴。
 けれど――
「……でも今日はありがとう。なんだかんだ言っても、けっこう楽しかったわ、私も」
 もちろん、それでもアンタがヒゲで馬鹿なのは変わらないけどね、と付け加える。
「……うるせえ」
 言葉こそとげとげしいものの、いつものじっとりした雰囲気はない。
「そろそろお昼ね……ねえ、ここのお勧めとかあるんでしょう?」
「まあな」
「じゃ、案内しなさいよ。今日はそれで許してあげるわ」
「……わーったよ。ったく……」
 播磨はぶつくさ言いながら、沢近は相変わらず楽しそうに、それぞれ立ち上がる。
 その姿。
 もし一切何も知らない人が離れた場所から見ていたとするなら――どう、見えただろうか。
 ともあれ。
 そうやって、珍しく二人は並んで歩き出した。