Quo Vadis domine
「どうぞ、先生」
「……ん。ああ、ありがとう」
サラが笑顔で差し出した紅茶に、難しい顔をして溜息混じりに書類とにらめっこをしていた絃子が顔を上げる。これで一息つけるよ、そんなことを言いながらカップを口元へと運ぶ。
時は放課後所は部室、活動方針からその内容まであってないが如くのこの部活、いつものように閑古鳥が鳴く中で、そこにいるのは現在サラと絃子の二人だけである。
「――うん。いつもながら素晴らしいね」
「私の腕じゃなくて、先生が用意してくれる茶葉がいいんですよ」
でもそのお言葉はありがたく受け取っておきます、そう笑ってから、あの、と言葉を続けるサラ。
「何かお悩み……ですか?」
気を煩わせることもない――そう考えて、いや、と否定しようとした絃子だったが、先刻からの自分の様子を顧みれば、今更隠したところで仕様がなく、小さく肩をすくめてみせる。
「そんなに大したことじゃないんだ。ただちょっと……身内のことでね」
いつもの泰然自若とした語り口も、濁した語尾と一緒にどこかに影をひそめているような絃子。そんな様子に、なら、とサラ。
「私でよければ伺いますよ。お力になれるか分かりませんけど、普段似たようなこともしてますし」
似たようなこと、というのにわずかに首を捻った絃子だったが、すぐにその理由に思い当たる。
「ああ、確か君の所は教会だったね」
「はい。……と言っても、話を聞くのは子供たちから、ですけど」
そう言って少し気恥ずかしそうに笑うサラだったが、逆にそれこそが大切なことだと知っている絃子は口を開く。
「それは立派なことだよ。教師だから言うわけじゃないけど、子供の話を聞く方が余程大変だ」
「時と場合によりけり、ですね。シンプルだから難しい、っていうこともありますから」
少し考えながらそう言ってから先を続けるサラ。
「それで、難しいかどうかはともかくとして、そうやって話を聞いてあげた後に、教会としては本当ならありがたいお話の一つもしないといけないんですけど……」
「君はそうしない、ということかな」
「はい。神様だとかそういうものって、あまり意識しすぎるものじゃないですから」
信じるな、っていうわけじゃないんですけど、と一つ苦笑い。
「信じてるから頑張れる。それは別に、神様なんて特別なものじゃなくてもいいと思うんです」
友達、恋人、指折り数えていたそれを一旦区切って。
「――それに、家族でも」
すっと自分の方を見据える視線に、見透かされているかな、と胸の奥で苦笑いする絃子。
「成程。そういう考え方もある、か」
それでも顔には出さず、さらりとそう答えてから、どっちにしても、と続ける。
「私はその神様に嫌われてるんだよ、きっと」
意識したわけではなかったものの、どこか自嘲めいた呟き。
それに対して。
「だったら、振り向かせればいいんですよ」
――誰もが誰かにとって特別で、そしてだからこそ普通に接すればいい。
あっさりと、何一つてらうことなくそう言ってのけるサラ。
「……」
「……あの、先生?」
「……いや、参った」
参ったよ、もう一度繰り返しながら、笑いが堪えきれないといった様子で肩を震わせながら、もしかすると似ているのかもしれない、と腐れ縁の友人――笹倉葉子を思い起こす絃子。
もちろん具体的にどこがどう、というわけではない。それを言ってしまえば、容姿から性格に至るまで、共通点を探す方が難しいかもしれない、そんなまるで違う二人である。
ただ、その身に纏う雰囲気、それが似通っている、そう考える。
決して強制ではなく、けれどふと気がつけば相手を自分の領域に引き込んで包み込む、そんな一風変わった強さと優しさ。
「うん、どうやら君の方がよっぽど大人のようだ」
こういう『友人』は本当に心強い、そう思いながら楽しげに言う絃子。そしてさすがに正面切って言われると恥ずかしかったのか、はにかんだような表情で、そんなこと、とサラ。
「それにしても不思議だね、私は何も話してないはずなんだが、ずいぶんと楽になった気がするよ。それとも乗せられたかな?」
「さあどうでしょう」
冗談交じりの絃子の牽制を煙に巻いてから、でも、と続けて。
「お役に立てたならよかったです」
そう笑ってみせる。ありがとう、と返す絃子も当然笑顔。
「それじゃ先生、私そろそろ……」
言いながら空になったカップを手にシンクの方に向かいかけるサラを、構わないよ、と引き留める絃子。
「今日は世話になったからね。せめてそれくらいはさせてもらうさ」
「……いいんですか?」
「いいんだよ、ほら、私の気が変わらないうちに行った行った」
そんな冗談めいた言葉に、若干きょとんとしていたサラも、それじゃあお言葉に甘えます、とカップをテーブルへと戻す。
「それじゃ今度こそ、お先に失礼しますね」
「ああ。今日は本当に助かったよ、ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして。では」
「うん」
そんなやりとりを最後に、ぱたんと音を立てて閉じる部屋のドア。そのドアに向かって、もう一度だけ小さくありがとうと呟いてから、カップを両手にシンクへと向かう絃子。気分は上々、といった様子で小さく鼻歌交じりにさっと洗い物をこなす。
「さて――」
それが終わると今度は窓際へ向かい、閉めきっていたそれを開け放つ。
外にあるのは緩やかな陽射しの降る穏やかな景色。
「――私の神様は振り向いてくれるのかな」
どこか歌うように、それこそ神様しか聞いていないような、そんなことを呟いて。
絃子は一人微笑んだ。