rainy day




「もう、ツイてない……」
 そう呟きつつ、雨粒の落ち始めた路上を走る沢近。
 確かに天気予報では夕方から雨、と言っていたけれど、そんなに遅くはならないから、と甘く見ていたのが運の尽き。スーパーで買物をして出てきた時にはまだまだ見えていた晴れ間もいつの間にかどこかへ消えてしまい、今に至る。
(あそこ……)
 前方に見えた煙草屋の軒先に駆け込んで、ようやく一息。この状況を思えば、スーパーで一本百円のビニール傘を手にしなかったことが悔やまれる。
「止まない、わよね……」
 恨めしそうに見上げる空からの雨足は次第に強まってきている。季節柄通り雨でもないだろうし、運悪く煙草屋はシャッターを下ろして休業している。こうなると、雨宿りなどしたのが却って失敗だったようにも思えてくる。
(いつもと同じにすればよかったのかしら)
 そう思ってみるのは、手に提げたビニール袋。中に入っているのはカレーの材料。
 結局まだ父に食べてもらう機会を得てはいないものの、それならそれで、と練習を重ねている沢近。それでもなかなかこれは、という味を出すことが出来ないために、たまたま今日はいつもと違う材料を見繕っていて、余計な時間を取られていた。
「……しょうがない、わよね」
 誰が悪いかといえば結局自分しかおらず、そのまま待っていても雨に濡れた身体は冷える一方で、仕方なく溜息混じりにもう一度駆け出そうとした時。
「あ……」
「……ん?」
 目の前を見知った顔が通りすがる。
 ヒゲにグラサン。
 当然と言えば当然のように、そんな知り合いは沢近には一人しかいない。
 播磨拳児である。
「……」
 何故か恥ずかしいところを見られたような気がして、顔を背けてしまう沢近。対して播磨は参った、という表情をしている。
(ったくよりにもよってコイツか……)
 無視して通り過ぎる、というのがシアワセな選択肢と言えばそうだろう。しかし、いくらなんでもびしょぬれで、女の子で、加えて手には重そうな荷物、とくればそうもいかない。
(しかしどうしたもんかな)
 一緒に入れ、などとはさすがに言えない。以前に一度似たようなことはあったが、それから互いの間にいろいろと――本当にいろいろとありすぎたので、どうにも関係は微妙になっている。
(ちっ、しょうがねェな……)
 播磨がそんなことを考えつつ声をかけようとしている間、沢近の方はと言えば。
(もういつまでいるのよヒゲさっさと行っちゃいなさいよ馬鹿こんなとこ見られたくないのよああもう)
 恥ずかしいやら腹立たしいやら、なかなか複雑な精神状態で。
「……おい」
「何よ!」
 ――と怒鳴り返してしまったのも無理はない、と一応弁護しておく。
「……あー、そのですね」
「ごめん、なさい……」
 一喝されて畏まってしまった播磨と、またやってしまった、とただただ後悔の沢近。いつもと同じ微妙な空気が流れかけるのを、気を取り直した播磨が押しとどめる。
「ちっと待ってな」
「え?」
 そう言い残して走り出す。残された沢近は意味も分からず戸惑うだけ。
「理由を言いなさいよ、理由を」
 呟いてみても、返事をするべき人間はそこにはおらず、ただ雨の音だけが聞こえる。
 帰っちゃおうかしら、そう思ったりしたものの、結局待っている沢近。
(さすがにそれは悪いわよ……ね)
 誰に対しての言い訳か、そんなことを考える。
 しばらくして。
「……」
 播磨が戻ってくる。しかし、その表情はひたすら暗い。
「ちょっと、どうしたの?」
「その、なんだ……スマン」
 だからアンタはいつもワケが分からないのよ、と問いただす沢近に、顛末を話す播磨。
 曰く。

『傘を買ってきてやろうと思ったんだよ、コンビニで』
 ……それで?(まあ、コイツにしては上々よね)
『そしたらよ』
 そしたら?(……なんだか分かった気がする)
『……金が無かった』

「……あのね、前々から思ってたんだけど」
「言うな。頼むから」
 背中を丸めて縮こまるその姿に、さすがの沢近も何も言えない。
「もういいわよ……それでどうするの?」
 放っておくとどこまでも沈んでいきそうなので、とりあえず無罪放免ということにして話題を元に戻す沢近。こうなった以上、自分が走って帰るしか、と思っていると。
「……送ってやるよ」
「え――?」
 思いがけない言葉にまたしても戸惑う沢近。
「ホレ、行くぜ」
「……ありがとう」
 そしてそれに素直に従ってしまっている自分にまた驚く。さすがにこれを断ったらね、とまた誰かに対して言い訳。播磨はと言えば、
(ここで傘だけ渡して帰ったら恰好もつきそうなもんだけどな)
 俺だって濡れたくねェし、何より相手がコイツだからな、などと考えていたりする。口に出したら即刻地獄行きである。
「……」
「……」
 ともあれ、結局一つ傘の下に、ということになった二人だったが、これまたいつも通りに会話は一切無し。流れる微妙な空気、なんとはなしに感じる気恥ずかしさ、そんなものからずっと下を向いて歩いていた沢近だったが、ふと顔を上げて気がつく。
「止みそうじゃない?雨」
「そうみてェだな」
 いつの間にか雨足は弱まり、空も明るくなり始めている。やがて名残を惜しむように降っていた小雨も上がり、晴れ間が雲の合間に顔を出す。
「止んだな」
「……そうね」
 傘を閉じる播磨。
 二人の距離が少し、離れる。
 そして。
「――――虹」
 雨上がりの空には大きな橋が架かっていた。
 遙か遠くを始点にして、また遙か遠くの対岸に渡る七色の橋。
 思わず立ち止まってしまった二人は、並んでそれを見上げる。
 その姿は遠目に見れば――――どう見えただろうか。
「――――」
 無言、けれど流れる空気は先ほどまでとは違う穏やかなもの。心地よい沈黙。
「……帰るか」
「……うん」
 どれくらいそうしていたのか、日はずいぶんと傾いて、虹は消えつつあった。空を見上げるのをやめた二人はまた歩き出したが、その雰囲気は変わらず穏やかなままだった。
 やがて播磨の家に着く。
「もうちょっと待ってりゃよかったのかもな」
「でもそうしたら虹は見られなかったかもしれないわよ?」
 久しぶりに軽口をたたきあうような会話。
「じゃあな」
「ええ、またね」
 そう別れようとしたが、あーそうだ、という播磨の声に呼び止められる沢近。
「何?」
 振り返って尋ねた彼女に、どう言うべきをちょっと考えてから。
「がんばれよ」
 播磨はそれだけを言った。
「……?」
「ソレだよ、ソレ。親父さんに作ってやるんだろ?確か」
 沢近の提げる袋を指して言う。
「っ……」
 またも予想もしていなかったことに、三度言葉につまる沢近。目を白黒させているその姿に、
「悪ぃ、妙なこと言っちまった」
 そう言って背を向ける播磨。
「……ありがとう」
 その背中に届くか否か、そんな小さな声で呟く沢近。播磨の方は聞こえているのかいないのか、そのままふらりと家の中に消えていく。
「……ふう」
 急に肩の力が抜けたような感覚に一息つく沢近。なんだかずいぶんと二人ともおかしな感じだった気がする。
(ま、雨のせいよね、きっと)
 何度目かの言い訳をしてから歩き出す沢近。
 濡れて気持ちが悪いはずの制服が、その身に不思議と心地よい冷たさを与えてくれているような、そんな気持ちとともに。