Still




「ふぁ……」
 気の抜けた声とともにゆっくりと身体を起こしたのは、現在この場所――保健室の主である姉ヶ崎。何かと理由をつけてやってくる男子生徒の姿も今日はなく、一人午睡を満喫していた、といった様子である。
 部屋の中はしんとした静寂が支配して、彼女の背後では間仕切りのカーテンが風に揺れている。そして、その布越しにさえ辺りを金色に染める黄昏の光が射し込んできている。
「あれ、もう夕方なんだ」
 片手で髪の先をもてあそびながらぽつりと呟く。
 いつも傍に誰かの温もりを感じていたい――そんな想いから、いつからか自然と身についてしまった独り言の癖。返ってくるはずもない返事を、それでもほんのわずか期待している。そんな自分にわずかに自嘲気味の笑みがもれた、そのとき。
「――起こしてしまったようね」
 予期していなかったその返事に、え、と思わず声が出る。
「またの機会にしようかと思っていたけれど、ちょうどよかったのかしら」
 独白めいた、そんな台詞を聞きながら、ゆっくりと引いたカーテンの向こう側。そこに、夕陽に照らされながら窓際に立つ、一人の少女の姿があった。





「こんにちは」
 彼女に対する姉ヶ崎の第一声はそれだった。
 この状況にあまり似つかわしいとは思えないその言葉に、けれど少女はその表情を崩さない。代わりに、何も訊かないのかしら、とそれだけを口にする。
「訊く、って、例えば?」
「どこから来たのか、誰なのか……別に何でもいいわ」
 あくまでとぼけたような姉ヶ崎の言葉に、まるで答えるつもりはない、といった口調で応えてみせる少女。よくよく見れば、わずかに肩をすくめてさえいる。
「うーん、だって訊いても答えてくれそうに見えなかったし。それに……」
 ホントはこんなこと言っちゃいけないんだろうけど、そう前置きしてから。
「――あなた、普通の子じゃないよね」
 疑問ではなく断定の言葉。
 根拠などゼロに等しい、女の勘とでもいうべきそれを以て、姉ヶ崎は指摘する。一方の少女は、投げかけられたその言葉にも、やはりゆらぐことなく、そう、とただ一言だけ返事を返す。肯定か否かはともかく、少なくとも否定ではないその言葉に、姉ヶ崎はわずかに満足そうな微笑みを浮かべる。
 一瞬の静寂。
 開け放たれた窓から秋風が吹き、二人の長い髪がそれぞれに風に舞う。
「あなたに訊きたいことがあるの」
 そして、少女が口を開く。それまではただ光を吸い込むだけに見えた漆黒の瞳が、その奥にわずかに光を宿す。
「どうして人を好きなるのかしら」
 問はただそれだけ。少女はそれ以上何も言わず、その素振りも見せない。
 けれど。
 その瞳は、知っている、と。そう語っていた。
 過ごしてきた過去を、忘れることのない思い出を、消えるのことのない傷痕を。
 その上で、問うていた。
 ――何故、人を好きになるのかと。 
「――――――」
 そんな鋭いナイフの切っ先にも似た問を受け、普段はどこかとぼけた風を装っている姉ヶ崎の瞳も、少女同様真剣な光を宿らせる……が、それはほんの刹那の間に消え失せる。後に残ったのは、悪戯好きの子供ような、人懐っこい色をしたいつもの彼女の瞳。
「んー……」
 いろいろなんだけどね、そう言って頬に手を当てて首を傾げる。
「いいことばっかりじゃないのは分かってるけど」
 でもね、と。微笑む姉ヶ崎。
「それでも好きになっちゃうんだから仕方ない――かな」
 理由も何もない、答になっていないような答。
 けれど、微笑んだ彼女の表情、それこそが自信を持ってその答を示していた。

『例えどんなことがあったとしても、人が誰かを好きになるのは決して間違ったことじゃない』

 理屈はまるで通らない、しかしそれ故に力強い響きを持った答。
 対する少女は、そう、と短く返事。
「そういうもの、なのね」
「そういうもの、じゃないかな」
 なかなかうまくいかないんだけどね、そう付け加えるようにして、バツが悪いようにふふ、と笑う。
 それは、すべてを悟りきってしまったような、それでいて決して諦めていない、そんな笑み。
 そこに。
「――大丈夫よ」
「ん?」
 唐突にそう言った少女に、きょとんとする姉ヶ崎。それを気にした風もなく、淡々と少女は続ける。
「あなたはきっと将来幸せになる。だから大丈夫」
「えっと……どうしてかな」
 その問に。
「なんとなく、よ」
 真顔で返される返事。思わず姉ヶ崎は吹き出してしまって――そして同時、ほんの少しだけ目の端に涙が浮かんだ。どういうわけか、ぶっきらぼうなその言葉がひどく優しいものに思えたから。
「ありがと」
 ひとしきり笑い終えた彼女のそんな言葉にも、そろそろ行くわ、と素っ気なく口にする彼女。けれど、それが少女なりの照れ隠しであることを見抜いているのかいないのか、そっか、と返す姉ヶ崎の表情に不満は見えない。
「それじゃ、ばいばい」
 小さく手を振る姉ヶ崎には答えず、そのまま背を向ける少女。その瞬間、一際強い風が吹き込んできて、ばたばたと部屋のカーテンを揺らし――
「――ありがとう」
 その向こう、微かにそんな言葉を聞いたような気がして、姉ヶ崎の意識はふっと闇に落ちた。





「ん……」
 チュンチュン、という小鳥の囀りで目を覚ます。
「……あれ?」
 自室のベッドで身を起こしたことに、何故か違和感を感じて辺りを見回す姉ヶ崎。
「えっと」
 その正体を探るべく、昨日のことを思い返してみる……が、どういうわけか学校を出てからの記憶がすっぽりと抜け落ちている。保健室で居眠りをしていて、目を覚ましたところで綺麗な夕焼けを見たところまでは覚えているのだが――
「まあ、いっか」
 結局、持ち前である一種の脳天気さで、分からないものは仕様がない、とあっさり諦める。そうしてみれば、喉につかえた小骨のような違和感も、すぐに綺麗さっぱり消え失せる。すっきりして立ち上がったところで、不思議と寝覚めがいいことにも気がつく――が、それもたまにはそんなこともあるか、と深く考えずに部屋のカーテンを開け放つ。
 シャー、というレールの滑る音に続いて、穏やかな陽射しが舞い込んでくる。
「よし、今日もがんばろうかな」
 勢いでそのまま開けた窓、そこから流れ込んでくる冷たい朝の空気を胸一杯に吸い込む。
 その視線が見上げた先、遙か遠くにある空は突き抜けるような快晴。
 今日も良い一日になりそうだ――


――――――So, still I fall in love with someone, some day.