世界の色が変わる――そんなことが起きることがある。
「妹さん……君に伝えておかねばならんことがある……」
彼女にとっては、その一言がまさしくそうだった。
「俺達は……」
ただの一言。
それが彼女の――塚本八雲のすべてを変えた。
「俺達はつきあっている……らしい……」
Stand by
「……っ」
布団をはねのけるようにして、八雲は目を覚ます。たった今まで見ていた夢の残像を追い払うように、首を左右に大きく振る。
「夢……」
自分自身を納得させるように、そう口にする。けれど、それがただの夢ではないということが、他の誰より彼女には分かっている。
何故なら。
それは昨日、正しく彼女自身が体験した出来事だったからだ。
「――」
夢だと分かっても、なお高まり続ける鼓動を抑えようと、瞳を閉じる八雲。しかし、脳裏に焼き付いた映像は消えることなく、目蓋の裏でちらついている。
『つきあっている』
他人から好意を寄せられることは今までに幾度もあった。ときに彼女には分からないほど遠回しに、ときに彼女にさえ分かるほど単刀直入に。そして何より、その不可思議な『力』で声にならない想いさえ八雲は受け止めてきた。
その上で、そのどれに対しても彼女が頷くことはなかった。与えられただけの好意を返すことが出来るのか、誰かの隣を歩くというのはどういうことなのか、それが分からなかったから。故に、かつて一つの問に彼女はこう答えた。
分からない、けれどいつかきっと、と。
八雲とて、いつまでも自分一人で生きていくことになるとは思っていない。やがては姉のように、自分も恋をして、誰かと並んで歩いていくことになる、そう思っていた。けれど、それはあくまで『いつか』であり、唐突に訪れるものではないはずだった。
だというのに。
「……播磨さん」
播磨拳児。
視えない人。
伊織に優しくしてくれた人。
彼に対して自分がどんな感情を持っていたのか、今の八雲にはもう思い出せない。分かるのは、それが『特別』なものだった、ということだけ。名前を付けることさえ出来ない、小さな、けれど確かな気持ち。
そして。
『つきあっている』
拳児の一言が、その気持ちを大きく揺さぶった。
「どうして嬉しかったのかな……」
ぽつりとそう呟いて、不安に揺れる瞳で窓の外を見る八雲。彼女の心を写し取ったように、空は重苦しい雲に覆われていた。
◆
「ちょっと用事があるから、今日は先に行くね」
「うん、行ってらっしゃーい」
朝食を済ませ、居間でテレビを見ている天満に声をかけてから家を出る。幸か不幸か、返ってきた姉の返事に疑うような響きはない。それはつまり、八雲の嘘がそれだけ本当らしく見えた、ということでもある。
「……ごめん、姉さん」
物心ついてから、姉に嘘をついたことなど一度としてなかった八雲は、通りに出てから小声で謝る。そして、そうまでしなければならなかった自分の心に鈍い痛みを覚えながら、朝食でのやりとりを思い返す。
『それで、播磨君とはどう?』
『どう、って、別に……』
『八雲ってば照れちゃって!』
『そういうわけじゃ……』
『でも楽しいでしょ、好きな人といると』
『……うん』
いつものように微妙に会話が噛み合っていない。それでも確かに、彼女は頷いたのだ。
「……嘘じゃないから」
つきあっている――唐突に投げかけられた言葉は、彼女の頭を真っ白に染めた。許容量を超えた驚きに、その後一体自分が何を話したのか、八雲はほとんど覚えていない。
それでも。
「嬉しかったのは、嘘じゃないから」
その気持ちは消えることなく記憶に焼き付けられている。
そして、もう一つ。
「なのに……」
その気持ちをくれたときでさえ、拳児の『心』、それがまったく視えなかったことも同じ場所に焼き付けられている。まるで、その二つは絶対に離れることがないとでもいうかのように。
嬉しかった気持ち。
視えなかった心。
二つが示す先にある現実、それはつまり――
「……っ」
そんなものを認めるわけにはいかない、というように激しく首を振り、歩き出す八雲。しかし、その足の向かう先はもはや学校ではない。どんな顔してそこへ行き、どんな話をすればいいのか。答などあるはずもない問に追い立てられ、逃げるように速めた足はやがて歩みから小走り、そして全力疾走へと変わる。
「……っは」
何も見えず、何も聞こえない。
いつしか降り出していた雨にも気づかずに、八雲は走り続ける。
逃げられるはずもないものから、それでも逃げるようにして。
◆
酷使された身体はもう動けないと悲鳴を上げ、酸素を搾り取られた肺は新鮮な空気を要求する。どのくらい走り続けたのか、それさえも分からないままに、八雲はようやくその足を止める。降りしきる冷たい雨はその強さを増し、けれど身体は熱をもってそれを感じさせない。
「……ここは」
行き着いたその場所は、別段どうということもない近所の公園だった。忘れられないような特別な思い出があるわけでもなし、放課後に、休日に、ふらりと訪れる、ただそれだけのそんな場所。その名前を思い出そうとして、自分がそれを知らないことに気がつき、再び痛みを覚える八雲。
一体、どれだけのものを見ているつもりで見ていなかったのか、自分はどれだけのものを見落としてきたのか。
深みにはまっていく思考、そしてそれに引きずられるようにして疲れ切った身体はそれでも前に進む。まるで、向かう先に何かがあるとでもいうように。その行き先は公園の中央、果たして、その場所には先客の姿があった。
「伊織……」
身動き一つせず、鳴き声一つ立てず。雨に打たれる黒猫は、じっと彼女を見つめていた。普段なら、一定範囲内に入った相手には必ず見せる警戒の態度も見せず、逃げ出しもしない代わりに近寄ってくることもせず、一歩一歩近づいてくる八雲をただ待っている。
「ねぇ伊織……」
その目の前に辿り着き、すがるような弱々しい笑みでその手を差し出したとき、ようやく伊織は一声鳴いた。
ここにいる、そう言うように。
「私、播磨さんとつきあってるって……」
誰にも――姉にさえ言うことの出来なかった想いが、言葉になってこぼれていく。抱き留めようとしても出来るはずのないもの、その代わりに伊織の身体を抱きしめて、八雲の言葉は続いていく。
「でも、それはみんなの勘違い……」
――それは、かなわない夢。
『自分のことを好きな異性の心が視える』
いつか言われた言葉。
そして、視えることのない拳児の心。
「播磨さんは……私のことなんとも思ってない……」
そんなことは初めて会ったときから分かっていたはずなのに。それなのに、あの一言がすべてを変えてしまった。
「なんで…………」
どうして自分にそんな能力があるのか。
視えないのに、分かってしまう。
分かってしまうのに、視えない。
「こんな……こんな能力……いらない……」
言葉とともに、その形さえ取ることの出来なかったものが無音で流れ出る。
涙。
伊織の見上げる先、八雲の瞳から雨とは違う雫が止めどなく伝う。
静かに、伝い続ける。
◆
「…………」
そんな光景を、一人の少女が虚空で見つめている。
呼吸さえ止めたように身じろぎ一つせず、八雲の姿を見つめている。
やがて、無表情とも言えるその表情を、何かを決心したそれに変えて少女は身を翻す。
その姿は音もなく空に溶けるように消え、後に残るのは、ざあ、という雨音だけ。
その雨音だけが辺りを支配する。
雨はまだ、止まない――
◆
「どうすりゃいいんだ……」
そして、同じ空の下。播磨拳児もまた、一人ぼやいていた。
無理もないと言えばその通り、いつにも増して事態は彼の手を離れ、まったく見当違いの方向に向けて転がり続け、もはや収拾など不可能だと思われるほどになっている。こうなっては学校に行く気になどなれるはずもなく、結果出来ることといえば街をうろつくだけ。
そんなことをしてもどうにもならないのに、他にどうすることも出来ない。彼もまた、八雲とは違った意味で、次第に追いつめられていた。
「ちっ、雨か」
そんな拳児の肩の上にも、やがて雨が落ち始める。朝方、真偽を問う絃子の追求から逃げるようにして出てきた手前、当然その手の中に傘などはない。
「……傘なんて気分じゃねぇけどな」
小雨から本降りへと変わりつつある空に、そんなことを呟く。
行き先はなく、雨足は強さを増していく。その中を黙々と歩き続けていた拳児だったが、やがて足を止めて大きく溜息をつく。
「ったく、用があるなら出てこいよ」
「よく気がついたわね」
振り向いた先、路地から姿を現したのは先刻八雲の元を去った少女。傘も差さず、まるでそれが当然というように雨の中に立ち、囁くような声で語りかけてくる。
「で、何の用だよ嬢ちゃん」
相手の予想外の姿に驚きつつも仏頂面で問うと、今度は少女の方が大きな溜息を返す。
「本当に、鈍いのか鋭いのか分からない人ね……気がつかないの?」
「……何にだよ。別におかしなことなんて」
ねぇだろうが、と言いかけて、ようやくその異変に気がつく拳児。
雨音が、聞こえない。
雨はまだ降り続いているというのに、その音だけが綺麗に抜け落ちて、ただ少女の声だけが澄んだ音色のように辺りに響いている。
「気にしないで、そんなに重要なことじゃないわ」
そう言われてしまえば彼としては頷くほかになく、大人しくその言葉に従う。そんな拳児の姿に満足したのか、少女は話を切り出す。
「今のでよく分かったけれど、一つのことに集中しすぎるて周りが見えなくなるのね、あなた。私に気がついたのは褒めてあげるけれど、代わりに周囲の変化に気がつかなかった」
そう前置きをして、一気に本題へと切り込む。
「好きな人がいるのね」
「っ……悪ぃかよ」
今この場を支配しているのは誰なのか――さすがにそれくらいは理解している拳児、不承不承ながらも正直に答える。
「別に悪くはないわ。それはきっと自然なことなのよ」
そう言っ顔に一瞬だけ憂いの色が浮かび、そして消える。
「でも、考えたことがあるのかしら。あなたが誰かを想うのと同じように、誰かがあなたを想うこともあるのよ」
「……俺のことを?」
戸惑ったような表情の拳児にも取り合わず、少女は最後まで己の言葉を告げる。
「その想いを受け取れとは言わないわ、それはあなたが決めることだから。でもね、せめてそれを知ることくらいはして欲しいの」
「おい、そりゃどういう」
「すぐに分かるわ」
その言葉と同時、拳児の意識は深い闇へと落ちていく。
最後の瞬間に見た、少女の儚い笑みを遺して。
◆
――そして、舞台は八雲の元へと戻る。
伊織を抱きしめたままうずくまり、声もなく涙を流す八雲。
「ヤクモ」
その背後に現れた少女が声をかける。驚いたようにして立ち上がって振り返る彼女に、久しぶりね、と告げる。
「私……わたし、」
「言わなくてもいいわ、全部見ていたから」
「あ……」
少女の言葉に緊張の糸が途切れたのか、くずおれるように再び地面に膝をつく八雲。その姿を見たくないというように彼女に背を向け、心なしか雨足の弱まってきた空を見つめながら少女は言葉を紡ぐ。
「どうして能力がいらないと思ったの?」
「……それは」
「きっと誰かを好きになる――あなたが言ったのよ。その枷があっても、それでも、と」
「でも」
「彼の心が視えないから、好かれていないのが分かるのね。でもね、ヤクモ。あなたは伝えたことがあるのかしら、自分の気持ちを」
言葉に詰まった八雲の返事を待たず、少女はさらに続ける。
「スタートラインにつく前から諦めてしまっている、それが今のあなた。確かにその能力は枷にしかならないし、ゴールに辿り着けるかどうかは最後まで分からないわ」
それでもね、と小さく笑う。
「あのとき私の質問に答えたあなたは、それでも大丈夫だと言ったのよ。それでも前を向いて、スタートラインに立って、きっと誰かを好きになる、そう言ったの」
ねえヤクモ、と少女は振り返る。
いつしか雨は止んでいて、厚くたれ込めていた雲はゆっくりと動き始めている。
その雲の切れ間から射し込んできた陽射しを背に、かつて自らがした問いかけの答を、謳うように告げる。
「――それが誰かを好きになる、ということじゃないかしら?」
あなたが教えてくれたことよ、と。今度ははっきりと分かる笑顔を見せる。
「世界は変わらないかもしれない。でも変えることも出来るのよ」
「世界を、変える……」
「その気があれば、の話よ……さて、もう大丈夫かしら」
先程の笑顔が嘘のようにいつもの無表情に戻った少女は、ようやく立ち上がった八雲を見上げて問う。
「……うん。ありがとう」
「……それは私の台詞よ」
「どうしたの……?」
「何でもないわ。それじゃ、最後に一つだけ。迷惑かもしれないけれど、もしあなたが諦めないなら」
ふわりと宙に舞い、真っ直ぐに八雲の瞳を見つめながら。
「頑張りなさい、ツカモトヤクモ」
そう言って、少女は消えた。
「あ、待って……!」
慌てて伸ばした八雲の手も、その姿には届かず空を切る。
そして、その代わりとでもいうように。
「――おい、そりゃどういう……っと!」
「……播磨、さん?」
唐突にその場に拳児の姿が現れる。勢い、八雲はその胸の中に飛び込むような恰好になる。
「あ……」
「い、妹さん!?」
慌てて離れようとする拳児だったが、胸元にすがりついた八雲がそれを許さない。
「ごめんなさい……」
謝りながらもその手を放そうとせず、そのまま一息に言葉を口にする。
『世界は変わらないかもしれない。でも変えることも出来るのよ』
届くかどうかは分からない、けれど確かに自分の意思で世界を変えるための、その一言を。
「播磨さん、私――」
「あなたのことが、好きです」
◆
そんな光景を、少女は遙か高みから見下ろしている。当然ながらそこまで声が届くことはないものの、たどたどしくも必死に言葉を伝えている八雲、そしてそれを黙って聞いている拳児の姿ははっきりと見えている。
「最後まで見ていたいけれど、贅沢なのかしら」
呟いている間にも、その身体はゆっくりと空へ向かって上昇していく。つまり、それが意味するところは。
「ずっと解放されたかったのに、いざそうなると嫌になるなんて……まったく、あなたのおかげよ」
どこか吹っ切れたような口調と、そして柔らかい笑顔。
それは、誰より変わったのは自分であると、そう知っているような表情。
「さようなら、ヤクモ。そして」
ありがとう。
その言葉だけを遺して、少女の身体は天空へと向かい、舞い上がる。
◆
――その日、雨上がりの空を立ち上る光の柱を見た、という幾つかの証言がある。
客観的に判断すれば戯言以外の何物でもないが、それでも耳を傾けてみると曰く。
『中心に羽のある少女の姿があった』
それこそ戯言、事の真偽は定かではない。
けれど、確かにそこには「天使」がいた。
そう記憶しておくのも、決して悪いことではないだろう――