「それまで!」
その一声で、張りつめていた空気が一気に緩んだそれへと変わる。次に訪れるのは拍手と歓声。真剣勝負といえども、どこかにそんな和やかさを残している辺りが花井道場盛況の所以でもあるらしい――とは言っても、今この場はその花井道場ではない。以前から親交のある隣町の空手道場、そこに出稽古に出向いているところである。
「さすがだなミコちゃん!」
「今日は調子がよかっただけだって。まだまだ私の方が負けが込んでるよ」
苦笑混じりの美琴。それでも勝利したことに違いはないのだが、その表情は晴れない。なんとなれば――
「……大丈夫かな、アイツ」
視線の先では、魂の抜け落ちたような様子で対戦相手に一礼をする花井の姿。ベストにはほど遠いどころか、彼女の知る限りワーストと言っても過言ではない状態である。
「春坊か……俺も無理じゃねぇか、っつったんだけどな。ったく、何考えてやがんだ、弥三郎はよ」
花井弥三郎――花井春樹の父にして、花井道場の現在の主である。普通に考えたなら試合など出来るはずもない花井を連れてきたのは、彼の意向である。美琴の見立てでは、恐らく活の一つも入れる代わりに、ということなのだが、それにしたところで当人があの様子ではさすがに不安にもなる。
初めは遠慮する素振りを見せていた対戦相手も、その弥三郎に頭まで下げられては他にすべはなく、表情はきっちりと引き締められ、緊の色を帯びている。
「それでは――」
その声に、辺りの空気は再び張りつめる。
ただ一点、花井を除いて。
そして。
「――始め!」
Sometime, Somewhere
本日はお世話になりました、そう言いながら弥三郎が道場主に頭を下げている。その声を聞きながら、なんとはなしに空を見上げる美琴、そこにあるのは茜色の雲と大気。到着した時分ではまだまだ高かった日も、既に地平線にかかろうとしていた。
――勝負の結果、は言うまでもない。
一撃。
ただそれだけで花井の敗北は確定していた。普段ならば当たるはずもない、威圧と牽制の意味を込めた初撃。それを真正面から綺麗にもらい、あっさりと勝負は決していた。誰もが想像した通りの結果に、ある意味で一同が安堵したところに、今度は誰もが予想しない展開が待っていた。
「情けないところをお見せした。代わりと言ってはなんだが、私がお相手させてもらおう」
そう言って進み出たのは弥三郎だった。一転してざわついた空気が辺りに漂う。それも無理はない、近年でこそ指導に専念し、実戦にはほとんど携わらない彼ではあるが、様々な逸話とともにその強さは折り紙付である。
その噂に対する興味本位か、それとも単なる蛮勇か。ともかく手を上げた幾人かと立ち合い――そして圧倒した。最後には自らの道場の面々とさえ手合わせしていたが、結局彼を打ち負かす者はなかった。
それを見ていた美琴――ミコちゃんもどうだい、と周りから言われたりもしたが、丁重にお断りした――の感想は、あれってやっぱ怒ってんのかな、というもの。普段から寡黙であまり表情を変えない弥三郎だが、決して感情が乏しいわけではない。なにせ、かつては駆け落ちをしたこともあるのだ、その仮面の下には人一倍の激情が静かに眠っているに違いない――それはさておき。
そんな風にして、ちょっとした波乱を起こした出稽古も終わりを迎え、挨拶を終えた弥三郎が表へ出てくる。ちらり、とその視線を相変わらず抜け殻のような花井に移したあと、何も言わずに歩き出そうとする。
――と。
「あのさ、おじさん」
その背中に、少しだけ言いにくそうに頭をかきながら美琴。
「コイツ、少し借りてっていいかな」
「今の春樹が何かの役に立つとは思えないが?」
淡々と返される身も蓋もないような言葉に苦笑しつつ、そうなんだけど、と説明を試みる。
「私でどうにか出来る、なんて思わないんだけど、さっきちょっと思いついたことがあって……なんて言うのかな、見せてやりたいものがあるんだけど……」
自分でも説明になっていない、と思いながらもそう告げた美琴に。
「……分かった」
言って、押し出すようにして花井を自分の前に立たせる弥三郎。
「よろしく頼む」
実直、あるいは無骨。そんな言葉がよく似合うような深々とした一礼に、分かりました、とこちらも礼を以て返す美琴。そして、別れの言葉を残して帰路についた彼らの姿が見えなくなるまで見送ってから、いまだにふらふらと立ち尽くす花井に声をかける。
「聞いてたか……って言うだけ無駄か、このままじゃ。んじゃ、行くぞ」
そう言って、美琴はゆっくりと歩き出した。
◆
夕暮れの街、その中を歩いていく。
先導するような形をとる美琴が後方を確認するためにときたま立ち止まる、その後をふらふらとした足取りで花井がついていく。それは二人が歩いているというよりはむしろ一人と一人、スローペースの鬼ごっこ。それも、永遠に鬼が追いつくことはない、そんな光景。
けれど、美琴は何も言わずにただ花井がついてくるのを辛抱強く待っている――それがしばらく続いて。
「……ったく」
暮れなずむ空の色、そして時計を見比べた美琴が遅々として進まない歩みに一つ溜息。視界の中でとぼとぼと歩いている花井の姿に目をやってから、しばらく考えて、よし、と決断。そちらへ向かって歩み寄る。
「……」
あいかわらずぬけがらのように反応を返さない花井。
「――行くぞ」
そんな花井の手を握る。瞬間、わずかにその表情に変化が見られたのを視界の端にちらりと収めつつ、しかしそちらを見ることなしに、正面を向いて美琴は歩き出した。
「……」
やはり花井からは言葉はなく、それでも確かに一人と一人は二人になって、歩いていく。
夕暮れの街を、歩いていく。
◆
美琴の足は止まることなく、やがて市街地を抜け、矢神市との境の小さな山の中、道なき道へと進んでいく。日は既に地平線の向こうへと姿を消し、残照が空をわずかに照らしているのみ。それでも、その足取りが揺らぐことはなく、迷いないリズムを刻み続けている。
「なあ、覚えてるか?」
やがて、そんな風にしてつぐんでいた口を開く美琴。
「もうずっと前だけどさ、初めてあの道場に行ったときのこと」
花井は答えない――が、気にした素振りもなくそのまま話し続ける。
「あんときもあっさり負けて、ちょっと落ち込んでたよな、花井」
前を向いたままで、遠い昔を懐かしむような眼差し、そして微笑み。
「あげく、おじさんに不甲斐ない、なんて言われちゃって逃げ出しちまうんだもんな。苦労したよ、見つけるの」
それは、他の誰でもない、二人だけが共有している記憶。
「で、なんでだか歩いて帰る、なんて話になって……今思うとバカみたいだな、どう考えても。あんときゃ花井が絶対こっちだって行っちまうから道に迷うわ暗くなるわで」
大変だった、そう言おうとしたときに。
「……違う」
ようやく花井が口をきいた。
「ん?」
「僕を引きずり回していたのはお前の方だろう、周防」
「なんだ、ちゃんと覚えてるじゃん」
そこで初めて振り向いて、笑ってみせる美琴。
「……」
少しだけむっとした表情を見せる花井だが、美琴にしてみればあの状態から抜け出してくれただけでも儲けもの。それを気づかれないように何でもないふりをして、さらに歩を進めようとする、そこに。
「……周防」
「なんだよ、まだなんかある?」
「……一人で歩けるんだが」
「……あ」
今の今までそれを忘れていた、というように自分の手を見る美琴。その先はしっかりと花井の手に繋がっていた。
――が。
「わりぃ、でももう少しだからさ」
「なっ、ちょっと待て! おい周防!」
悪戯っぽくそう言って、そのまま駆け出す美琴。そして、まだまだ本調子ではない花井は抗議も虚しくそのまま引きずられるような恰好になる。夜の山道ともなれば普通は足下もおぼつかないものだが、そこはどうにか持ち前の身体能力で乗り切っていく。
やがて、前方に少し拓けた場所が見えてきたところで、美琴が足をゆるめる。その隙に、ようやく繋いだままだったてを振りほどく。乱れた呼吸で大きく肩を上下させる様子を、だらしない、というように見る美琴。花井の方も、この一、二時間でさすがに自分の状況を把握出来る程度にはなっていたため、自らの不甲斐なさは自覚済み。甘んじてその視線を受け入れる代わり、一つの疑問を口にする。
「……それで、だ。見せたかったもの、というのは何だ?」
これだけ引き回された本題、とでも言うべきその問に、今度はゆっくりと歩きながら美琴は答える。
「何って言うほどのもんじゃないけどね、強いて言うなら――」
この場所かな、その言葉と同時に辿り着いたのは山の峰、わずかに拓けた空き地だった。木々のない頭上には星空、眼下には彼らの街、矢神市の灯りが見える。
その光景を前に、覚えてる?、と話し始める美琴。
「調子に乗ってどんどん進んでたのはよかったんだけどさ、結局迷っちゃって。結構いっぱいいっぱいのとこまでいっちゃってたんだよね、あのとき」
花井の脳裏にも当時の光景が再現される。ほんとにいいの、とついていく自分。だいじょうぶだって、と笑う彼女。その声がわずかに震えていたことを、今更のように思い出す。
「でもね、ここについて、この景色見たら――全部吹っ飛んだ」
「……そうだったな」
見覚えのある街の光は不安を帳消しにしてくれたし、現れた星空はそれまでとのギャップも手伝って、二人にとっては途方もなく素晴らしいものに見えた。
「危ないから、って朝までここで話して、それから帰ったんだよな。で、メチャクチャ怒られた」
そういうさ、と美琴は笑う。
「思い出があるだろ、いろんなとこやいろんなものに」
それはただの記憶とは違うもので。
もっと、ずっとずっと強く輝いている、決して消えることのない、そんなもの。
きっと。
「それにすがれ、ってんじゃなくてさ、今の花井は世の中真っ暗で何にもないと思ってるかもしれないけど」
意外とね、言葉とともに微笑。
「――なんでもあるもんだよ、手の届くところに」
一息に言い終えて、なんか私らしくないね、と背を向ける美琴。あはは、という小さな笑い声を最後に、鈴を転がすような虫の声だけが辺りに響く。
りん、という音をした静寂。
「――周防」
やがてしばらくして、その背中に花井は声をかける。
「んー?」
小さく伸びをしながら返事をする美琴に、ずっと言いたかったことがあるんだ、と花井。
「なんだよ、あらたまって」
「……大事なことなんだ」
だからこちらを向いてくれないか、そう続ける。
「……花井?」
「頼む」
いつになく真剣な様子に、ゆっくりと振り返る美琴。正面には神妙な面持ちでまっすぐに見つめてくる花井の姿。
月光と星明りが二人を照らしている。
そして。
「周防――」
「そこじゃあぁぁぁぁぁ!」
――外野から突如飛び込んでくる老人。
「……」
「……」
呆気にとられた、といった様子の二人を尻目に、きゅぽん、と瓢箪の栓を抜いて酒を口に流し込んで一言。
「ワシは気にせず続けるといい」
「またアンタかっ!」
怒声とともにうなりをあげて美琴の拳が飛ぶ……が、フォッフォッフォ、と笑いながらそれを避ける老人。
「だいたいなんでこんなとこにいるんだよ!?」
「それはな、お嬢さん――」
フッ、とナナメ四十五度の角度で。
「――迷ったからじゃ」
「アホかーっ!」
二度目の怒声。そして老人はあっさりとそれを聞き流してまたもや笑っている。
「……あー」
タイミングを逃し、一人その騒ぎに乗り遅れた花井。止めるべきか、と一瞬思ったものの、老人の性格を考えてすぐに諦める。
「また言えずじまい、か」
ぽつりと呟き、近くの手頃な岩に腰を下ろす。その見つめる先では、今度は何を言われたのか真っ赤になっている美琴の姿、そして相変わらず飄々とした様子で彼女を翻弄する老人。どことなく間の抜けた、ある意味で微笑ましい光景に表情を崩し、今度は夜空を見上げる。
星空だ。
そして、どこにでもありふれているようなそんな景色には、確かに幾つかの思い出があった。彼女が気づかせてくれた、瞳を閉じて、うつむいたままでは決して見えない思い出が。
いつもこうだ、と花井は思う。迷ったとき、立ち止まったとき、いつも励ましてくれるのは彼女だ、と。
――だから。
「いつかどこかで、必ず」
今度こそ君に言おう、と。
『ありがとう』――いつも言えなかった、その言葉を。
まだまだ騒ぎの収まらないそんな中、花井は星空に向け、そう誓った――