thank-ful
きゅきゅきゅ、と紙の上をすべるサインペンの音だけが辺りに響く。紙は答案、サインペンは朱色、要は採点作業、というヤツだ。テストが終われば、あっさり自堕落な生活に舞い戻る学生――もちろん全員がそうだとは言わない――とは違い、教師にしてみれば休む暇などはない。
ただ機械的に正誤を判断する、というのならそれほど難しいことではない。過程など省いて解答さえ見てしまえばそれまでだ。正正正正誤誤正正。しかし、当然ながらそれでいいはずがあるわけもなく、そんなことをしていては何の意味もない。点数さえあればいいなら構わないが、理解度を見る、というその本来の役目に立ち戻れば過程こそが重要。加えて想定してもいないような奇天烈な解答も存在し、結果採点作業は難航を極め、突き詰めればキリがない。
もちろん、好きで選んだ仕事なわけで、手を抜くつもりなど欠片もない。結局出来るのはペンを走らせることのみ。きゅきゅきゅ、という音は響き続ける。
「ふう……」
そんな行為も無限に続くわけもなく、最後の一枚に点数を書き入れたところでひとまずの終わりが告げられる。当然ながら見直しも必要だが、それはまた後日、そう思っているところに。
「お疲れさまでした」
かけられる声に視線を上げれば、いつものように微笑む葉子の姿。差し出されたその手にはコーヒーカップがある。ありがとう、とそれを受け取ると、ずいぶん根を詰めてましたね、という言葉が返ってくる。別段、自分としては特別気合を入れていたつもりでもなかったのだが。
「だってほら、もうこんな時間ですよ」
時計を差し出す代わりに彼女が示したのは窓の外。……成程、確かに空は夕焼けを通り越して宵闇が既に近い。午前中にテストの最終日を終え、軽い昼食をとってすぐに始めたのを考えると、ざっと五時間といったところになるだろうか。思いの外集中していたらしい。
「集中……より、むしろなんだか鬼気迫る、っていう感じでしたけど」
鬼気迫る採点。言葉にすると何やらとんでもないことをしているようで、笑えばいいのか反論すればいいのか今一つ分からない。
「今度の日曜日、どこかに行きませんか?」
そんな益体もないことを考えていると、脈絡もないセリフが投げかけられる。
脈絡もない?
わけも言わずに突然押しかけて泊まり込み、そんな様子を見せていた、となればむしろ大有りなんだろう。自分に対して溜息一つ、あとは予定も確認せずにOKの返事を出す。勢い込んで終わらせてしまった採点、先のやりくりはどうにかなるだろうし、何よりこれ以上心配をかけるわけにもいかない。
それに。
「それじゃ、楽しみにしてますね」
そう言って笑う彼女の顔は、嫌いじゃない。
そして、当日。
待ち合わせの駅前で、ぼんやりと空を見上げている。絵に描いたような快晴、どこまでも遠く広がるその空のように、私の心も……などと言えたらいいのだが、なかなか現実は甘くない。
いつまでもこうしているわけにはいかない、と意を決して帰った自分の部屋。幸い――と言っては彼女に悪いんだろうが――そこにあったのは拳児君の姿のみ。こちらの苦労も知らず、やっと帰ってきやがったな、などとのうのうと言ってくれた、その頭の一発でもはたければよかったのだが。
「……ああ」
などとどうにも腑抜けた返事をしてしまい、アドバンテージを逃してしまったことが未だに悔やまれる。しかもその宙に浮いたアドバンテージにまったく気づかず、それに乗じることをしない彼の姿にもなんとも言えない不満を抱いたのだが。
まあそれはともかくとして、結果戻ってきたのはいつも通りの日常。彼の方にさしたる変化もなく、不審には思うものの問いただせずに過ぎる時間。どうにも藪蛇な気がしてしまうのだ、理由は分からないが。こうなってしまうと、何があっても大丈夫だと思っていた過去の自分が恨めしい。あの平然とした態度からして、特に何事もなかったのは分かるが、それにしたところで――
「……さん、絃子さん?」
と、そんな声で我に返る。よりにもよって屋外で暴走した思考に引きずられる、というのは情けない限り、照れ隠しに誤魔化しの、やあ早かったね、という言葉もどこか空回り。続くのは絶賛大バーゲン中の溜息。
「あの……まだやっぱり」
やっぱり。
それに続く言葉は大体分かっているので、大丈夫だよと笑ってみせる。若干引きつっているのは自覚しつつもなんとか笑ってみせる。校内の噂から転がり込んできたという状況証拠、加えて私自身をよく知る彼女にはおおよその事情の察しはついているはずで、だからこそ気分転換に誘ってくれたはず。なら、それにちゃんと付き合うのが礼儀、のはず。
「分かりました。それじゃ行きましょうか」
そんな心の葛藤を察してくれたのか、あくまで普通にそう言って歩き出す葉子。こういうとき、友人というのはありがたいものだと思う。本当に。
で。
向かった先は動物園だった。何故なのか、という問には、
「この辺、近場にあまり何もないじゃないですか」
それはまあ確かなのだが。
「動物を見てるとイメージ湧いたりしますし」
創作におけるインスピレーション、であるとか。こういうちゃっかりしている辺りは葉子らしい。
そして最後に。
「それに、夏休みにいろいろあったらしいじゃないですか、絃子さん」
矢神神社におけるあの騒動。経緯から顛末まで、その詳細は伏せられているはずだが、どこからか聞きつけたらしく、思うところもあるでしょう、と言って彼女は笑った。
世話をしたのはほんの数日、しかも実質ささやかな手伝いに過ぎなかったわけだが、最終的な処遇に関して手を打ったのは他ならない自分自身。確かに気にならないと言えば嘘になり、忙しさにかまけて訪れることのなかったその場所に行くのは悪いことではない。
そんなわけで、現在順路に従って園内を歩いているところになる。記憶の引き出しを開けて、そこにいる動物たちと照らし合わせていくのはそれなりに楽しい。さすがに一頭一頭の判別はつかなくとも、代わりに誰があのときあそこにいたのか、を考える余地が生まれ、それもまたなかなかだ。葉子の方は、時折時計を気にしながら小さなスケッチブックに鉛筆を走らせていたりする。記憶だけではない、生のイメージ、というヤツだろう。
そうこうしながら散策は続き、次に控えているのはキリンのコーナー。あのどこか不貞不貞しいような表情を思い出し、これなら個体を識別出来るかもな、などと思いながら、そちらに目を向けた瞬間。
「絃子さん……?」
思わず葉子の背に隠れてしまった。そんなことをしてどうにかなるとも思えなかったのだが。
「あの……どうしたんですか、急に」
だっているじゃないか、あそこに。
「キリンですか?」
それは当たり前だし、第一どうしてキリンから隠れる必要があるんだ。大体あの高さから見下ろされたら意味が……じゃない。キリンはいいんだ、別に。柵の前だよ、ほら。見えるだろ……?
「前……? あ、塚本さんですね。塚本さーん!」
そうだよ彼女……って、どうして呼んでるんだ君は。挨拶くらい? まあそれはそうなんだが、その、なんと言うかだね、ちょっと今は気まずいと言うか……ああもう!
「こんにちは、刑部先生、笹倉先生」
まずはこちらも無難に挨拶。さすがにここで取り乱すほど子供じゃない……とは自分で思ってる。大丈夫。
「こんにちは。塚本さんは一人で来たの?」
「あ、はい」
「そっか。それじゃこの後は? 何か用事ある?」
ちょっと待て、とはさすがに言えない。言えないが、この展開は。
「いえ、特にありませんけど」
「じゃあ休憩ついでにちょっとお話しない?」
いいですよね、とこちらに向けられる視線。思い切り逃げ出したい気分になったが、遅かれ早かれいつかは、と思っていたことでもある。返すべきは了承の頷き、だ。
「私も構いません」
そう答えた彼女とほんの一瞬目があって――すぐにそらしてしまった自分に、また溜息。
「それじゃどうぞ」
立ち話もなんだ、ということで、移動したのは軽食も取れる園内のカフェ。昼下がりにもいささか遅い時間帯ともなればある程度の空きもあり、すんなりとテラスの一席を確保する。注文した飲み物を前に、葉子が発した第一声が先のそれである。
「話があるのはお二人の方だと思いますよ、きっと」
思わず彼女――八雲君と顔を見合わせてしまう。確かにまったくもってその通りであり、否定のしようがない。彼女にしてもそのようで、そうですね、と小さく返事。
さて、となると。何から話したものか、と考えて、まずは拳児君が私についてどう説明したのかを訊いてみる。「その……『俺のイトコ』って……」
絶妙に誤解を招きそうな表現。忍び笑いをもらしている葉子の姿が見えた気もしたが、とりあえずそちらは見なかったことにする。
「……それで、あの、私」
言葉に詰まり、加えて心なしか赤くなったその表情に、完全に頭を抱える。それはそんな言い方をされれば十中八九勘違いもするだろう。そもそも、教師と生徒が同居している時点でおかしいのだ、普通は。
ともあれ、最初の議題は見つかった。まずはそこから、だ。誰かさんの二の轍を踏まないように、慎重に。
「そうだったんですか……」
どうやら分かってもらえたらしく、久しぶりに安堵の溜息。もっとも、よくよく考えればそんなに複雑な説明を要することでもなかったりするのだが。
「あの、それならどうしてお二人は一緒に……?」
なかなか難しい質問がきた。この状況に至る経緯、そこにはずいぶんと話すべきことがある。あまり口外するわけにも、と思い、いろいろとね、とだけ答えておく。そういう機会があれば、ちゃんと話すのもいいと思うけれど。
「そうですか」
余計なことをお訊きしました、と頭を下げる彼女。そんなことはない、そう声をかけてから、こんなところかな、と切り上げる準備にかかる。
「塚本さんの方はいいのかな?」
と、それまで静かに訊いていた葉子が口を開く。私としては何事もなかったと思っているし、あまりプライベートなことであれば聞くわけにもいかないのだが、とその旨を伝えてみたが、彼女の方もお話しておきます、と引かない。それなら、と聞くことにしたのだが。
「マンガを描いてました」
拳児君がマンガを描いていることは知っているし、初日の様子は知っていたのでそのことかと思っていたら。
「……ずっと、です」
ずっと、ときた。
部屋に女の子を連れ込んで何をしていたかと思えば、ただただずっとマンガを描いていた。
笑い話にもならないような笑い話、そんな現実に不思議と笑いがこみ上げてくる。
「刑部先生……?」
「いいんだよ、塚本さん。多分喜んでるだけだから」
そんな葉子の小声の会話が耳に入る。
喜ぶ。
そうなんだろうか、と考えても自分自身に分かるわけでもなし。ただ、笑うこと自体が本当に久しぶりな気がして、ずいぶんと気が楽になったのは確かだと、そう思った。
「今日はお世話になりました」
これといって何をしたわけでもないのに、そう言って頭を下げる彼女。容姿はともかく、クラスや学年を越えて惹かれる人間が多いのも分かる気がする。
「いいえ、こちらこそ。それじゃ、また明日学校で」
「はい、それでは」
最後にもう一度だけ小さく会釈をして、彼女は去っていき、緩やかに射してくる夕陽の光の中にその後ろ姿がゆっくりと消えていく。
「これで少しは落ち着きました?」
すっかりそれが見えなくなってから、悪戯っぽく囁く葉子。その様子に、今日は一体どこからどこまでが彼女の仕込みだったのか、を訊こうかと思ってしまったが、やめておく。
代わりに呟いたのは、もっと別なこと――塚本君について、だ。なんでもなかった、ただマンガを描いていただけだった、そう言って拳児君のことを話していたときの彼女の瞳。それはもしかすると――
「『恋する瞳』、かもしれませんね」
自分一人の思い過ごしではなかったらしく、あっさりと葉子も肯定する。
「まだまだ気がつかないてないみたいでしたけど、ね」
気持ちなんて以外とあやふやなもの。そうそう自分じゃ気づけない。
「ええ、そうですね。私の近くにもそんな人がいますけど、全然気がつかないみたいです」
意味深な視線をこちらに向けてくるが、あえて無視。きっとそれは。
「あ、ごめんなさい。その人はですね、『恋する瞳』よりはむしろ……そう、『娘を嫁に出す父親の顔』、って
言った方がいいかもしれません」
ほら、やっぱり。聞こえない聞こえない、何も聞こえない。
「どうかしました? 別に私、誰のこととも言ってませんけど」
ああ、まったく。どうしてこういうときばかり、とさすがに向き直って口を開きかける。
と。
「やっと少し元気が出たみたいですね。絃子さんはそれくらいがちょうどいいんです」
それをかわすようにして、葉子は微笑む。
――そして、そんな風にされてしまえば、何も言い返せないわけで。
結局この愛すべき友人に自分が勝てる日は一生来ないんだろう、なんて思いながら。
「ありがとう、葉子」
いつものように、その言葉を口にした。