――たとえば、願うとはどういうことか。
 叶ってほしい、叶えたい。そうやって明確に像を結んだ想いは、本人が意識していなくとも心の片隅に常に在り続ける。そんな些細な違い、それが時間の中で一挙手一投足に変化を生み、予定調和のレールの上からその行く先を本人さえ知らぬ間に変えていく。
 かくして、ありえなかった可能性は現実として成立する。結局のところ、願掛けとは自己暗示、即ち願いを叶えるのは他でもない自分自身、ということになる。
 だがしかし、である。
 成程然り、論理的にはそれが分かりやすい説明であり、それを否定することは出来ない。
 けれど、もっと単純で分かりやすい、そんな解釈も存在する。
 即ち――


Wish upon a star


「七夕、ねぇ……」
 何を今更、という顔で嘆息混じりの愛理。そしてその目の前で、そうそう、と言いながら、ぐっと拳を握りしめているのは、例によって例の如く、天満である。
 所は教室昼休み、昼食がてら雑談に花を咲かせているのは、愛理に天満、晶に美琴、お馴染みの面々。普段なら一つの机を四人で囲む、という窮屈な所帯も、隣の席の誰かさんが絶賛失踪中のため、机二つで面積二倍、とちょっぴり贅沢な仕様。
「そんなに騒ぐようなことじゃないと思うんだけど」
「えー、だって年に一回しかないんだよ?」
「塚本さん、普通はどんな行事も年に一回だよ」
 どことなくピントがずれた会話に苦笑しつつ、私のとこはけっこう真面目にやるかな、と美琴。
「ま、道場なんてやってるからね。子供達の息抜きって部分も大きいけどさ」
「でもちゃんとやるんだよね。ほら、やっぱりそういうものなんだって!」
「……今の話をどうするとそうなるのかしら」
 ちらりと視線を天満の後ろに向けてから、だいたい、と言葉を続ける愛理。
「そこまでして叶えたいことがあるの? 天満」
「うん! もちろんか……」
 らすまくんと、そう言おうとしてふと我に返って動きを止める天満。
「……」
 ぎぎぎ、と軋む音が聞こえそうな動きで背後を振り向く。当然と言えば当然ながら、そこにはいつものように何を考えているのか分からない表情で窓の外を眺める『烏丸くん』の姿。
「……」
 ぎぎぎ、と再び首が回転し、元の位置に戻る。
「……か」
「か?」
「か、かかかか」
 壊れたテープレーコーダーか何かのように一音を繰り返して、そして。
「……かれー?」
「なんでよっ!」
「なんでだよっ!」
「……よんじゅってん」
 盛大に突っ込む二人と、冷静に採点を下す晶。
「あのね、どうしてそこでそうなるのよ」
 先ほどまでの呆れ顔が、輪にかけて三倍増しの愛理に、だって、と天満が言い訳しようとしたとき。
「カレー好きなの? 塚本さん」
「――え?」
 不意にかけられた声。今度はついさっきがまるで嘘のように、目にも留まらぬ速さで振り向く。
「か、かかか烏丸くん」
「カレー」
 今度は壊れた人形のようにこくこくと頷く。そして、烏丸くんってカレー大好きなんだよね、そう言いかけたところで、理性がそれにブレーキをかける。つまり、友人を放っておいていいのか、と。
「えっと……」
「……だからね、どうしてそこで遠慮するのよ」
「こっちのことは気にするなって」
「ガッツよ」
 申し訳なさそうな天満のその表情に、三者三様の言葉。最後の一つは何かが違うという話もあるけれど。
「ごめんね、ありがとう」
 ぺこり、と頭を下げると、ずずず、と椅子を引いて後ろの席に向かう天満。その会話は、端から見ていればやはりどこか噛み合わないもの。それでも、当の天満は楽しくてしょうがない、という様子。
「まったく、仕方ないわね、あの子も」
 一応声はひそめつつ――どのみち、今の天満に周りの声は聞こえない――どこか投げやりに呟く愛理に、晶が一言。
「作戦通りだね」
「ん? 高野、それどういう意味だ?」
「つまりね、愛理はわざと……」
「そんなわけないでしょ。偶然よ、偶然」
 素知らぬ風を装って否定してみせるが、美琴の方は、なるほどね、としたり顔。
「沢近、お前っていいやつだな」
「うるさいわね! 偶然だって言ってるでしょ!」
「愛理は恥ずかしがり屋さんだね」
「あ、晶、あなたね……」
「そうだよ、照れんなって」
 ばんばん、とその背中を叩く美琴の手を振り払って立ち上がる愛理。
「ああもうっ!」
 笑い声の響く教室。
 七月七日、七夕当日。
 今日も2-Cは平和である。





 そして時間は流れて夜になる。
 空には星が瞬きだし、天の川もうっすらとその姿を見せる。
 織姫と彦星が見守る、そんな空の下――

 ――塚本家。
「……っていうことがあってね」
「だから嬉しそうなんだね、姉さん」
 いつにも増して上機嫌のその姿に、つられて微笑む八雲。分かりやすいと言えばこれ以上ないくらいに分かりやすく、けれどそんな姉のことが、八雲は決して嫌いではない。むしろ、それも魅力の一つだと思っている。
「何の話をしたの?」
「うんとね、カレー」
「……カレー?」
 何かが間違っている、という気がする八雲。恐る恐る尋ねてみる。
「じゃあ、烏丸さんに好きっていうのは……」
「言えるわけないよそんなの! もう、八雲ってば!」
 ぼん、と音でも立てるかのように真っ赤になって、さらに動転しているのか、八雲の背をばんばんと叩く。
「なんて言うのかな、上手く説明出来ないけど……あ、そうだ! きっとね、八雲も誰かを好きになれば分かるよ」
 近づきたいけど近づけない。
 言いたいけど言えない。
 恋心はフクザツなんだよ、と拳を握って演説をぶつ天満。
「誰かを、好きになる……」
 その言葉に、先日出会った不思議な少女のことを思い出す八雲。
『男の人がキライ? それとも好き?』
 深く考えたこともなかったその問いかけに、彼女は自分でも思ってみなかった答を返していた。
『私もきっと誰かを好きになる』
 あのときは確かにそう思った。けれど、今『恋』をしている姉を前にして、どうなんだろう、と再び考える。いつか自分もあんな風に笑い、あんな風に誰かと居たいと思うのだろうか、と。
「……も、八雲ってば」
「え? あ……」
「どうしたの? なんだかぼーっとしてたけど」
「ううん、なんでもない」
「そう? ならいいけど……」
 うーん、と小首を傾げていた天満だったが、『お姉ちゃんの勘』で深く追求するまでもない、と判断したのか、それじゃ先にお風呂入ってくるね、と席を立つ。
「うん、ゆっくり入ってきていいよ」
「ありがと、八雲」
 鼻歌交じりにバスルームに向かう天満。残された八雲は、ぽつりと呟く。
「……いつか、私も」
 恋をする―― 一人きりの居間に、返事はない。





 ――道場。
「なー、先生は何書くんだ?」
「んー、そうだな。あらためて願いごとなんて言われても――」
 困るんだけど、そう言おうとして。
『――――――――』
 脳裏をよぎる光景。
 懐かしい、けれど未だ色褪せるのことのない記憶。
 何を今更、心の中の誰かが言う。
 そう、彼はもうこの街には居らず、この先会えるかどうかさえも定かではない。
 一人残された自分に出来ることと言えば――
「ん? どうした周防」
「……何でもないよ。そうだ、お前は何書いたんだ?」
 どこか見透かされた気がして話をそらした美琴に、決まっているだろう、と胸を張る春樹。
「もちろん僕は」
「いやいい、訊いた私がバカだった」
「……どういう意味だ、それは」
 むっとした表情のその手には、確認するまでもなくでかでかと『八雲』の二文字。呆れてしまうほどにストレートな表現。
「なんだかさ、時々羨ましくなるよ、ホント」
「お前、熱でもあるんじゃないのか……?」
 言って、額に手を当ててその顔を覗き込む。随分久しぶりに間近で見るその顔に、美琴は思わず――
「んがっ!」
「……あ。悪ぃ」
 綺麗に鳩尾に入る肘。
 倒れる春樹。
 がつん、という嫌な音。
「あー……」
「すげえ、先生が花井押し倒してるぜ!」
「おー!」
「あんたたちね……」
「うわ、逃げるぞおい!」
「わー!」
「こら、待ちなっ!」
 こうなるともう、願いごとがどう、という場合ではない。蜘蛛の子を散らしたように逃げていく子供達を追いかける美琴。後に残されたのは、目を回したまま倒れている春樹、そして。
『あいたい』
 片隅に小さく、本当に小さくそう書かれた一枚の短冊。
 ばたばたと駆け回る足音が響く道場の中、その短冊だけが静かにそこにある。





 ――沢近邸。
「お嬢様は七夕の願掛けなどは……」
「……いいわよ、そんなの」
 どこか棘のある口調の愛理。それでも、続く『一人でやってもつまらない』という言葉を飲み込んだのは称賛に値するかもしれない。
「――失礼しました」
 一方、言われた中村は気にした風も見せず、一礼をして部屋を出て行く。この程度であたふたしているようでは、職業としてやってはいけず、ましてやここでは務まらない、ということだろう。
「……はあ」
 一つ溜息。
 そもそも、願いごとらしい願いごとのない彼女である。強いて挙げるなら、恋がしたい、というのがそれに当たるものの。
「相手がいないじゃないの」
 加えて、やはりそれは自分で見つけるもの、という思いがある。
「だいたいウチのクラスなんて……」
 呟きながら思い浮かべる顔が、とある一人のところでぴたりと止まる。
「……」
 それは先日の出来事。
 降り出した雨。
 差し出された傘。
『そこまでだったら送ってやるぜ』
 何の打算も感じられなかったその行為。
『ほんのそこまでな』
 そのとき、果たして自分は何を思ったのか――
「――ハ。冗談」
 別にたいしたことないじゃない、と益体もない思考を即座にカット。
「……だいたい、あんなのただの不良じゃない。カレーが好きなだけの」
 カレー。
 自ら呟いたその言葉に、再び思考が止まる。
 作るはずだったその料理。
 約束。
 感謝の気持ち。
 急用。
 雨。
 涙。
 傘。
 カレー。
「そりゃちょっとは……」
 今まで感じたことのないもやもやとした思いに、どこか落ち着かなくなる。別に彼――播磨拳児がどうこう、ということではない。ただ何か、叶えたい願いが――
「……」
 そして、ハサミを手に取る愛理。ルーズリーフを小さく切り取り、ペンを片手にわずかに考え込んでから、さらさらと文字を綴る。
「……うん」
『カレーが上手く作りたい』
 天満とは違った意味で、どこかずれている彼女の記した願い。それでも彼女は頷く。その向こう側に何があるのかはともかくとして。
「中村、中村!」
「お呼びですか、お嬢様」
 タイミングを計っていたようにすぐさま現れる執事。そしてその手には机の上に丁度飾れるような、小振りの笹。
「……準備がいいわね」
「恐れ入ります」





 言葉にした想い、しなかった想い。
 そんな風に過ぎていく七夕の夜。
 そして、彼女達の願いはやがて叶うこととなる。
 ただし、必ずしも望んだものではない形で。

 周防美琴――思いがけず訪れる再会のとき。それが離別となることを、彼女はまだ知らない。
 沢近愛理――いくつかのすれ違いと思い違い。そして変わりゆく心の行く先を、彼女はまだ知らない。
 塚本八雲――特別な人、憧れにも似た想い。ささやかな秘密の共有が招く事態を、彼女はまだ知らない。

 もしそれが自身にかけた暗示の結果であると言うならば、あまりに報われない。
 ならば、考えられるのはもう一つの解釈。
 即ち――『神様』。
 ときに慈悲深く、ときに残酷に、それは人の願いを叶えてくれる。
 気紛れなその力の向かう先は、人の身にうかがい知れるものではない。
 故に。
 そんなこととは関係なしに、それぞれがそれぞれの想いを抱いて、少女達は夜空を見上げる。
 "Wish Upon A Star"――星に願いを。
 ――そして、ゆっくりと物語は動き出す。
 その行方は、まだ誰も知らない――