安威地下トンネル
 以下の文章は安威海軍地下倉庫(安威地下トンネル)について、聞き取り調査を中心に当時の文献など調べたりして、小学生でも分かるように簡単にまとめ、教材化したものの一部です。

1.50年ぶりに陽の目を見たトンネル
 今回見つけられたトンネルは、1944年〜45年にかけて、当時の海軍によって掘られたものです。それが50年たった今、どのようにして見つけられたのでしょう。このトンネルのある茨木市安威(あい)・桑原(くわのはら)地区の人の中には、以前から、このトンネルのあることを知っていた人はたくさんいました。ただ、掘られた当時は軍隊の秘密と言うことで村の人は近づくこともできず、くわしいことは何も知らされていませんでした。そのため村の人の中には防空壕だろうとか、倉庫にしては大規模だなあと思ったりしていた人が多かったようです。
 このトンネルやその他の施設がくわしくわかったきっかけは、ある高校の朝鮮文化研究会というクラブが、校内の文化祭発表のため、海軍の施設の調査を始めたことからです。
 
2.トンネルとその付近のようす
 上の地図を見て分かるように地下トンネルはイ地区、ロ地区、ハ地区と三か所に作られました。イ地区のトンネルは、海軍が大きな土木建築会社に命令して掘らせました。ロ地区のトンネルは、海軍が直接人を多く集めて掘らせました。ハ地区については、トンネルが未完成でくわしいことは分かっていません。
 このトンネル以外にもたくさんの、今の体育館のような屋根付き地上倉庫や、半地下式の倉庫などが建てられました。
 トンネルや倉庫の中には、砂糖、水にとかして食べるもち、粉にした卵、チューブに入ったチョコレート、服や着物の生地、かんづめ、乾パン(長持ちするようかたく焼き干したパン)など、当時のふつうの人には手に入らないものがたくさん置かれていました。また、戦争で使うための武器や道具も入れてありました。
 
3.トンネルが掘られたころの日本
 このトンネルが掘られた1944〜45年ころの日本は、どんな様子だったでしょう?そのころ日本は、1931年(昭和6年)から始まった長い長い戦争の中にいました。この戦争は、初めに日本が中国にせめこみ、中国の土地や資源を自分のものにしたりしたことからおこりました。そして、中国との戦争を一方でしながら1941年(昭和16年)から、日本はアメリカやイギリスなど、たくさんの国を相手に戦争を始めました。とくに、太平洋にうかぶ島々では、アメリカ軍と日本軍のはげしい戦いがくりひろげられました。そして、日本軍は各地でアメリカ軍に敗れ、占領していた地域を次々と失うことになりました。とりわけ1944年になると、サイパン島、グァム島など日本に比較的近い島々が、アメリカ軍のものとなりました。そこにアメリカ軍は飛行場を作り、そこを飛び立ったアメリカの飛行機による空襲が、日本の都市に大きな被害を与えるようになりました。
 そこで当時の日本の政府や軍人は、アメリカ軍の空襲をさけるためと本土決戦(日本に上陸したアメリカ軍と陸上で戦う)のために、重要な施設を入れる地下トンネルを大急ぎで作ることにしました。この地下トンネルは、少なくても全国に数十か所も用意されました。そこには、飛行機や戦車、大砲など武器を作る工場が移ってきたり、、食料、衣類、燃料、武器などを保管したりするのに使われました。また、国民には秘密に天皇や政府の主な役所を、まるごと地下トンネルの中に移すための施設も用意されました。
 これらの施設は、ほとんど秘密のうちに作られたものが多く、ここ20年くらい前から少しずつ調査が進められ、最近になって実態がやっとわかったものがほとんどです。茨木市のとなり高槻市にあるタチソ(高槻地下倉庫)もその一つです。
金泳九(キムヨング)さんの話
1.生い立ち
 わたしは1922年2月14日、現在の韓国慶尚北道義城郡比安面堤洞というところで生まれました。私の生まれた村は100軒ばかりある貧しい村でした。私の家は、自分の田を少し持ち、あとは小作(他人の土地を借りて耕す)する百姓でした。
 私が1才の時、父は東京へ出かせぎに行きました。東京から私にと靴を送ってくれたそうです。ところが、1923年9月の関東大震災の後、行方不明になってしまいました。あの朝鮮人ぎゃく殺事件に、まきこまれてしまったのかもしれません。私の村にいる日本人は警察官だけでした。私は貧しかったので昼の学校にいけず、夜の学校に通いました。私の村では、昼の学校に行けた人は20%くらいでした。
 村で生活している時、むりやり日本語を使わせられることがよくありました。たとえば、バスに乗る時は「○○までキップを1枚下さい。」と日本語で言わないと、売ってくれませんでした。また、「ワタシハ、ダイニッポンテイコクノシンミンデアリマス。」(私は、大日本帝国の臣民であります。)と、天皇をたたえる言葉を言わされもしました。また、白いチョゴリを着て市場に行った人が、日本人に黒い水を水でっぽうでかけられたり、朝鮮式の髪型(ちょんまげ)をしている人が、日本人におさえつけられてハサミで髪を切られたりもしました。
 
2.日本へ
 1944年2月、私が23才の時のことです。私の家では、姉は結婚して家を出て、兄は死亡し、3男は「満州」へ行き、家に残っていたのは母とすぐ上の兄と私の3人で、農業をしていました。
 ある日のこと、私が山からしばを刈って帰ってきたら、村長から一通の手紙がきていました。「この家には働き手が二人いるから、一人は日本へ働きに行きなさい。」という内容の手紙でした。警察の人も「2年間、日本に行って働いてこい。」と言いました。そのころ、村長や警察のいうことは、朝鮮総督府(朝鮮を支配していた日本の役所)の命令であり、それにそむくことは許されませんでした。こうして、義城郡の役所に200人ほどが集められ、二日間訓練を受けてから、汽車で釜山(プサン)まで行きました。そして、翌日釜山から船に乗せられ、日本の山口県下関に着きました。列車の窓には、黒い幕が張られ、外は見えないようになっていました。そして、各車両の出入り口には見張りが二人ずっと立って、監視していました。そして、一晩かかって愛知県の豊橋に着き、そこで飯田線に乗りかえました。そして、山の中の小さな駅で降ろされました。そこから4〜50人ずつ、トラックの荷台に乗せられ、1時間ぐらいかかって工事に着きました。
 1944年3月初めのことです。
 
3.長野県の発電所の工事
 トラックに乗せられて、つれて行かれた所は、長野県下伊那郡木沢村(現、南信濃村)小道木(こどうぎ)というところでした。そこでは水力発電所(飯島発電所)を作るため、トンネルを掘って水路を作る工事をさせられました。このトンネルは16qもあるという大変な工事でした。ここで働く朝鮮人は5千人とも1万人とも言われていました。
 私たちが住んだ飯場(はんば:工事の人が寝泊まりする宿舎)は、幅が7m、長さが50mという細長い建物で、杉の皮を張った屋根で、かべは板をうちつけただけの平屋でした。そして、この建物のまわりは、2mぐらいのへいで囲まれ、出入り口は一つだけで、そこにはいつもにげられないように、監視する人がいました。建物の中には、巾10pくらいの角材が、はしからはしまで長く2本ならべられていました。私たちは、部屋の中央を頭にして、頭を合わせて、この材木をまくらにして、何百人の人が寝ました。
 朝5時になると「5時だ、起きろ」と言って、木材をたたいて起こされました。そのころは昼夜二交代で朝6時から夕方6〜7時までと、夕方から朝までとなっていました。私たち朝鮮労働者は、そこでは名前ではなく、作業服に書かれた番号で呼ばれました。
 食べる物も山の中ということもあり、げん米(もみがらをとっただけで、まだ白くついていない米)に、みそとたくあんだけという食事でした。また、着る物も最初に来た時くれた以外はくれませんでした。風呂にも月2〜3回も入れたらいいほうでした。病気にかかっても、医者に自由に見てもらえませんでした。また、危険な仕事だったので、落ばん(とつぜんトンネルがくずれ落ちる)などの事故もよくありました。ある時、私の仲間6人のうち2人が、落ばんによって生きうめになったこともありました。
 私たち朝鮮人は、こんなにきびしく危険な仕事をしていましたが、お金は日本人の半分もくれませんでした。そのお金ですら「お金なんか何に使うんだ。帰国するまであずかっておく。」といって、私にわたしてくれないこともありました。
 このように、つらく苦しい毎日でしたから、ここから逃げだそうとする人もいました。しかし、たとえ逃げても警察や日本人の監督においかけられ、つかまえられ、つれもどされます。そして、みんな見ている前で、死んでしまうほどなぐりつけられました。気を失ってぐったりすると、体に火をあてて気づかせ、またなぐりつけました。
 私が発電所の工事に行って、一年たった頃、とつぜん「大阪の茨木でいそがしい仕事がある。そこへ応えんに行け。」と言われました。
 
4.安威のトンネル工事
 1945年の3月、私たち20人が茨木の安威にやってきました。この20人は、私と同じ義城郡からきた人でした。
 安威についた次の日から、さっそくトンネル掘りをやらされました。私がついたころは、まだ10mそこそこしか掘っていませんでした。私がいたイ地区では、3〜4本のトンネルを同時に掘り進めていました。1本のトンネルに6〜7人が1つのグループで作業します。トンネルの中には4〜5人、外へ2人というふうに手分けをします。トンネルのかべに、50pずつ間をあけて5〜6か所一度にダイナマイトをしかけます。そして、それを爆発させると、二メートル四方くらいの土がくずれ落ちます。そして爆発であいた穴のまわりを、つるはし(先のとがった土掘り用の道具)で掘り、掘った土はトロッコに積んで、穴の外へ運び出します。
 ダイナマイトをしかけたり、穴を掘り進んだり、トロッコをおしたり、土を平らにするような危険な仕事はみな朝鮮人がやりました。日本人は外で事務の仕事をするだけで、穴の中の仕事はやりません。ここでも長野県の飯場と同じように、昼夜二交代でした。10日で昼と夜をかわります。ここでは、長野県でのように番号では呼ばれず、金山という通名(日本名)で呼ばれました。
 私たちのいた、ある大きな土木建築会社の飯場は、安威川のすぐそばにあり、そこからトンネルまでは、 100mくらいでした。
 食事は、げん米、みそ、たくあんにそうめんの入ったみそ汁などでした。ごはんは茶わん一ぱいだけです。また、キビ(小鳥のえさに使われている黄色のつぶ)や、大豆のしぼりかすなどもよく食べました。飯場のそばの橋の所に、ビワの木がたくさん生えていました。おなかがすいてどうしようもない時は、ビワの実をとって食べました。安威では、風呂に入ったことはなく、近くの安威川で手や顔を洗うだけでした。
 安威での給料は長野とちがって、トンネルを1m掘ったらいくらという、うけとり方式でした。もうけは長野よりよかったのですが、「お前らは、金は国に持って帰ったらいいじゃないか。それまではあずかっておく。」と、ここでもお金はくれませんでした。毎日仕事が終わると、今日のうけとりは、いくらになったというだけで、そのくわしい内容は見せてくれませんでした。
 憲兵というおそろしい兵隊が、毎日一回こしに長い刀を下げて、それをガチャガチャいわせて見回りに来ます。私たちはそのガチャガチャという音が聞こえると、もうこわくてたまりませんでした。
 安威に来て2か月あまりたったころ、私の友達から「親せきが兵庫県西宮の仁川で飯場をしている。そこへ行けば今より仕事は楽だし、休みには遊びにも行ける。いっしょにここを逃げよう。」とさそわれた。私はここの仕事もきついし、金はもらえないし、腹いっぱい食えるところへ行きたいという気持ちで、ある朝早く、3人で安威の飯場を逃げ出しました。これまで働いたお金があったはずですが、それをもらうこともなく逃げ出しました。後から追ってこられるのではないかと思うと、こわくてたまりませんでした。
 
5.日本の敗戦、自由の身に
 阪急茨木駅まで来て、電車に乗ろうとしても「証明書がない。」といってキップを売ってくれません。しかたなく、阪急富田駅まで歩き、そこでキップを買いました。十三でのりかえ、宝塚まで行き、そこから仁川まで行きました。そこでは、海軍の倉庫を建てるための土地を平らにする仕事をしました。そのころは、仁川もよく空襲でやられ、そのたびに逃げまどっていました。
 その年(1945年)8月15日も仕事をしていました。そうしたら、町に行って帰ってきた朝鮮人が「日本が戦争に負けた。」と、知らせてくれました。
 1945年の11月ごろ、みんなで故郷の朝鮮に帰ろうということで、私も大阪駅に行きました。私と同じ朝鮮の人が、貨物列車にすずなりに乗って、「先に行くよ。後からおいで。」と朝鮮語で言いながら、手をふっていました。そのころの大阪駅のあたりは、空襲で家も焼け、その焼けたあとに、テントや小屋が建てられていました。私は続けて3〜4日、大阪に行きましたが、人があまりにも多く、下関までのキップを買うことができませんでした。その時、一度は帰国をあきらめました。その後仕事もなく、お金もなくなり、帰るに帰れなくなり、結局あきらめてしまいました。そして、とうとう今日まで帰れませんでした。
 
6.日本に対する想い
 私は、今年72才(1994年現在)になりました。日本に来てから50年たちました。私は最初に連れてこられた長野で「ワタシハ ダイニッポンテイコクノ シンミンデアリマス。ワレラ コウコクノシンミンハ チュウセイヲモッテ クンコクニホウジ」(私は、大日本帝国の臣民であります。我等、皇国の臣民は、忠誠をもって君国に奉じ)などと、週に一回は集められて言わされました。安威でも「イチオク イッシン ムギノハン」(一億一心麦の飯)と言わされました。戦争中は、私たち朝鮮人に対しても「内鮮一体」「大日本帝国の臣民」と言って、日本語を習わせながら、戦争が終わると私たちは日本国籍ではない、日本人ではない、朝鮮人だからと言って差別してきた。戦争中は、朝鮮は日本の植民地だ、朝鮮人も日本人も同じだといって、朝鮮から連れてきて、発電所の工事やトンネル掘りなど、むりやり働かせた。そして戦争が終わったら、日本人ではないからといって、今日にいたるまで何のつぐないもしてくれていない。 朝鮮から連れてこられた私を、むりやり働かせた土木建築会社は、今でも日本で有名な会社です。その会社も私が働いた給料を、はらってくれていません。日本の政府も、私に何のつぐないもしていません。悪かったというおわびもありません。
 私は、若いころ食べ物もなく、ひどい仕事をさせられ、口には言えないほどのつらい思いをしてきました。今でもあの時のことは、一日に一度は思い出します。